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『思想』4月号

『思想』は1921年(大正10)年の創刊以来,哲学・歴史学・社会諸科学の最新の成果 を読者に広く提供し、揺るぎない評価を得て来ました。和辻哲郎・林達夫らによって、学問的であると同時にアクチュアルであることという本誌のバックボーンは形成されましたが、それは今日に至るまで脈々と生き続けています。分野を超えて問題を根源的に考え抜こうとする人々にとって、最良の知のフォーラムです。

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◇目次◇
思想の言葉  ボリス・グロイス

ボリス・グロイス―コンテンポラリー・アートと批評
芸術の真理  ボリス・グロイス
芸術,技術,そしてヒューマニズム  ボリス・グロイス
孤独の(不)可能性―グロイス/カバコフの共同アパートをめぐって  乗松亨平
〈生きている〉とはどういうことか―ボリス・グロイスにおける「生の哲学」  星野 太
グロイスにおける芸術の制度と戦後日本美術  加治屋健司
〈いま,「美」とは?②〉美,ディスコルディアとして  小林康夫
歴史学および経験科学における楽音的ノイズ研究  アレクシス・ルクチウス
声のオントロジー ―動力学的音楽基礎論3  伊東 乾

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◇思想の言葉◇
超民主制としてのコンテンポラリー・アート
ボリス・グロイス

 コンテンポラリー・アートについて語る際、それが、定義上はグローバルで国際主義的な現象であるということを忘れるべきではない。二〇世紀初頭、芸術の古典的アヴァンギャルドは、国家と密接に結びついたヨーロッパ的芸術の伝統と決別した。この古典的アヴァンギャルドは、特定の国家領域を代表しようとせず、領土の歴史的発展のための踏み台にもなろうともせず、むしろアヴァンギャルドの時代のみを表象しようとした。そもそも、近現代の芸術は、近現代の技術と同様に〔国家権力からは〕脱領土化されている。しかし、今日我々が経験しているものは、政治と文化の再領土化に他ならない。人々は自分自身の文化アイデンティティを強く求め、この文化アイデンティティをアートに代弁させようとしはじめた。世界のあらゆる場所で、新しい右翼系のナショナリズム政党が生まれている。こうした動向は、コンテンポラリー・アートに対する新しい挑戦である。
 これらの新しい右翼政党が持ち出すのが、アイデンティティ・ポリティクスのレトリックである。このレトリックは、かつてマイノリティ集団のために〔左派の〕社会運動で利用されたものだが、今では右翼政党が、社会のマジョリティのために用いている。容易に指摘できることは、初期の〔左派の〕アイデンティティ・ポリティクスは、マイノリティの社会的立場を改善しようとしていたため革新的であったということ。それに対し、現在の右翼政党によるアイデンティティ・ポリティクスは、ヨーロッパにおける民族的マジョリティの支配的な役割を安定させるためのものであり、反動的であるということだ。実際には、今日の政治情勢は遥かに錯雑しており、こうした伝統的な政治における左右の図式はもはや当てはまらない。例えば、ヨーロッパ内では、今なおヨーロッパ系の諸民族およびその国家が支配的であるが、我々はグローバリゼーションの時代を生きており、グローバル化された世界において、(少なくとも潜在的な)敗者として見なされるのは、これらの国家の方なのである。これらの国家は、経済力ではアメリカや中国に遠く及ばず、軍事力ではロシアよりはるかに虚弱である。それに加え、高齢化する自国民とは対照的に、非ヨーロッパ諸国からの活力ある移民が急増する事態に直面しているのだ。アメリカの状況といえば、トランプ・ムーブメントによって、アメリカの大半の白人が、自分たちは弱者であり、時代に取り残されているという同一の感情に支配されていることが露わになった。とはいえ、このように欧米を中心に今世界で起きていることは、歴史的に見ればさほど新しいことではない。新しさと言えば、今までと異なる点、つまり、これらの新しい右翼政党の発展に対抗する強力な左翼の不在である。
 リベラルや左翼イデオローグは、伝統的に、自分たちを異文化理解のある普遍主義者だと見なしてきた。彼らは、あらゆる個別の国家が陥っている独裁、寡頭、腐敗の政権支配に対抗すべく、すべての国家の中産階級(あるいはプロレタリアート)皆で水平的に連帯しようと、あの手この手で呼びかけた。しかし、こうした左翼の政敵たちは、この種の普遍主義は往々にして帝国主義の特殊形態に過ぎないと解釈してきた。彼らからすれば、例えば、フランス革命期の世俗主義的普遍主義はフランス帝国主義の特殊形態だと直ちに理解され、そのことはナポレオン帝政によって確証されており、またソ連の共産主義的普遍主義は帝政ロシアの変形であり、一国社会主義を提唱したスターリン主義政権がそれを証明しているということになる。我々の時代になると、左翼とは、普遍主義的な事業や計画に対する「反帝国主義」的姿勢を指すものとなったが、ヨーロッパの左翼は、世界中のリベラルの挫折、そして社会主義帝国の崩壊を目の当たりにすると、今度は自らの普遍主義的な綱領を文化相対化してしまった。その結果、新しい現象が出現した―再現したと言った方が良いかもしれないが。それが「垂直方向の連帯」と呼びうる現象である。歴史的にみると、連帯という概念は被搾取階級による搾取階級への闘争と結びついてきた。連帯は、常に、抑圧者に対する被抑圧者間の「水平方向の連帯」だったのである。マルクス主義の伝統では、階級は経済力、言い換えれば、その階級の生産力の発展にどれほど関与したかを通して定められていた。キャリアや資産を築いた有能な労働者は、労働者であることを辞め、上流階級の代表入りを果たしたのだ。
 しかし、もちろん、被抑圧者の身分が〔人種や性といったかたちで〕身体に深く刻み込まれている場合、物事はそれほど単純ではない。女性の連帯は、女性が男性と比べて経済的・社会的に不利な立場にあったため余儀なくされ、同様に、白人と比べて不遇な地位にあったからこそ黒人の連帯が必要だったのだ。それでは、もし女性や黒人の政治家が出世した場合はどうか。そうでない女性や黒人は、出世した女性や黒人政治家との関係を絶つべきか、それとも連帯を続けるべきか。このような特別な女性や黒人の政治家からすれば、階級闘争における自分の立ち位置が、被抑圧者側から抑圧者側へと移動しただけである。女性だろうと黒人だろうと、被抑圧者側の一個人が出世したという事実は、その他の大多数の女性や黒人の運命を何一つ変えることはなかったように思われる。しかし、別の見方をすれば、特殊なアイデンティティを持っていながらも出世するということは、いわゆるそのアイデンティティの格付けというものを変えうることを意味する。むろん理論上は、すべてのアイデンティティは等価である。しかし実際には、異なる格付けがされている。すなわち、社会的、経済的な成功への見通しや、既存の社会的地位の想定において、アイデンティティの格付けには差異があるのである。だからこそ、同じアイデンティティを共有する集団に、成功した代表者たちがいることは重要だ。代表者たちは、アイデンティティの格付けを引き上げてくれる。そして同じアイデンティティグループに属する他のメンバーたちは、代表者たちから利益を得る。これこそが、水平方向の連帯が、垂直方向の連帯へと変容を遂げるポイントである。〔階級制度の破壊と再構築を求める〕脱構築のプログラムが、〔既存の階級制度への〕包摂のプログラムへと置き換えられるのだから、〔階級制度を温存する〕既存の政治経済制度の破壊は想定されないのである。
 現在のグローバル化された世界というのは、万人の万人に対する闘争の場である。ここでは、闘争に参加する者は、自分たちの人的資本の流動性を確保することを強いられる。人的資本とは、例えばミシェル・フーコーが描き出したように、第一に文化的な世襲財産であり、それは個々人が育ってきた家庭や環境を通して伝えられる。現在のグローバリゼーションのロジックが、近代主義者が提唱した国際主義や普遍主義とは異なり、文化的保守主義や自身の文化アイデンティティの強調へと至る理由はここにある。経済の自由化およびグローバリゼーションと、文化的ナショナリズムは、互いに相反しない。事実、ナショナリズムはグローバルな闘争には好都合である。こうして、グローバリゼーションと極端な文化的保守主義の提携が、我々の時代の政治と文化の境界を定めるのだ。しかし、他のどの文化領域と比べても、この時流に対して抵抗力があるのが、コンテンポラリー・アートの領域なのである。
 理由は幾つも考えられる。コンテンポラリー・アートは、例えば、文学や映画、テレビと比べれば、飛び抜けて人気があるとはいえない。しかし、特定の国の言語に対する依存度が低いため、制作においても配信においても、他の文化メディアと比べれば、特定の国の聴衆に依存しないで済むし、特定の集団の期待に応える必要もない。要するに、国を超えたオーディエンスに接近しやすいのである。また、近現代のアーティストは長らく、アートが自身の文化圏では人気がないという事実を、普遍的でグローバルな文化圏に属していると感じることで、精神的に埋め合わせてきた。〔見方を変えれば〕コンテンポラリー・アートの世界は、ラディカルな近代性の長きに渡る目標であった普遍国家の不在を埋め合わせようとしていると、論ずることすらできるかもしれない。また、コンテンポラリー・アートは、しばしば「エリート主義的」だと糾弾されるが、この原因は、はっきり言えば、世論に左右されることの少ないアート界の相対的な独立性にこそある。かなりの頻度で「非民主的」だとか、時には「反民主的」などと理解されることになる独立性であるのだが、しかし、コンテンポラリー・アートこそが、そこら諸国家の民主主義よりもはるかに民主的なのである。なぜなら、出生、つまり、血統主義や出生地主義などに基づく生得の国籍によって定義された文化的国境を越え、コンテンポラリー・アートは誰に対しても訴えかけるからだ。我々の時代においてもなお、民主主義は貴族的な特権思想の過去を引きずっており、非市民よりも市民に対して特権を与えている。この点において、普遍主義を訴えるコンテンポラリー・アートは、民主的であるばかりでなく、それを超越して、超民主的と言える。この意味において、コンテンポラリー・アートの世界は、新しいナショナリズムの保守主義に対抗する砦であり続けていると言えるだろう。(訳=三上真理子)
Boris Groys, Contemporary Art as Super-Democracy.Copyright 2017 by Boris Groys/Translated by permission of the author
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