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『図書』2022年1月号[試し読み]関川夏央/兵藤裕己×松浦寿輝

◇目次◇

「晩年」とはいつのことか?……関川夏央
〈対談〉近代小説の文体、そして文学の可能性……兵藤裕己、松浦寿輝
沖縄との五〇年……柳 広司
ルッキズム――美しさという「力」 あるいは「特権」への怯え……栗田隆子
自伝的グラフィックノベルの愉しみ……原 正人
キリンの斑と雪と土器……阿部成樹
歌声喫茶から離れていたい……片岡義男
北杜夫と躁うつ病とZ旗……高橋 徹
心のアトリエ……岡村幸宣
一月、おめでたい動物たち……円満字二郎
ジャーヌ・バトリ……青柳いづみこ
あのここな偽り者め……時枝 正
平賀ヤヤシの虎杖丸……中川 裕
奇跡の復活『おらんださん』……四方田犬彦
こぼればなし
一月の新刊案内

 (表紙=杉本博司) 

 

◇読む人・書く人・作る人◇

「晩年」とはいつのことか?

 関川夏央

 
 人には程度の差はあれ全盛期がある。

 体力があって健康な青年期、活発に仕事をこなした中年期、人それぞれだ。加齢して回想すれば、全盛期とはあの頃か、あれがそうだったか、と思いあたる。回想には寂しさがともなうが、やむを得ない。人の一生とはそういうものだろう。

 では晩年は? 自分の晩年はいつからだったか。

 たしかに加齢した。あらゆる欲望に淡白になり、体力は衰えた。記憶は不確かさを増し、「五衰」の相が顕著である。だが、それがいつ始まったものか、覚えがない。

 昔は若かった。昔の空は青かった。それらはたしかに消え果てた。といって、いまが晩年だとは認めない。認めたくない。若干の未練をこめて昔を回想し、連れ合いや旧友とひっそり語りあいながら、淡々と日を消す。

 いつからが自分の晩年だったかは、死ねばわかる。そのときまでは、同時代を生きて、その全盛期と晩年を送った人たちの人生にふれて、たのしむのがよい。

 昨年末、新たに三巻が加わった『人間晩年図巻』のタイトルは、山田風太郎の名著『人間臨終図巻』の変奏だが、古今東西の有名人、九百余人の亡くなり方を没年齢ごとにえがいた山田本と違い、この『人間晩年図巻』は、現代を生きて死んだ有名人・無名人の全盛期とその長い晩年を年代順に記述した。

 それは他人事に見えて他人事ではない。自分もその一端に参加した現代史の「物語」である。

(せきかわ なつお・作家) 

◇試し読み◇

〈対談〉
近代小説の文体、そして文学の可能性
兵藤裕己×松浦寿輝 
 
兵藤 フランス文学の研究者で小説家でもある松浦さんには、日本近代の言説の変遷を論じた『明治の表象空間』(新潮社、二〇一四年)という大著があります。高く評価された本ですが
、国文学ではあまり取り上げられません。私は国文学者ですが、松浦さんが扱われたテーマと関心の重なるところがありまして、ご著書の刺激も受けながら、一昨年の十一月、岩波書店から『物語の近代』という本をまとめました。
 
松浦 それはまことに光栄なことで、嬉しく存じます。僕は国文学の世界はよく知らないのですが、兵藤さんはかなり異色の存在なのではないでしょうか。国文学者というのは「自分は源氏をやる」とか「平家をやる」とか若い頃に決めると、ずっとそれを続けていくんでしょう。実際、それぞれの主題について一生かかっても読みきれないほどの研究文献の蓄積があるわけだし、「専門家」の店を張るためには仕方のないことなんでしょうが。
 ところが兵藤さんは『太平記』の校訂と注釈という非常に手堅い実証的なお仕事をされて本道を行きつつも、実にいろいろなところに触手を伸ばして、僕のような門外漢にとっても刺激的で興味をそそられる本を書かれている。そういう人はあまりいないのではないですか。
 
兵藤 いませんよね(笑)。
 
松浦 『物語の近代』は広いフィールドを駆けめぐって、一種ゲリラ的なフットワークで多種多様な思考を展開なさっていますが、それでいながら、どの論点に関しても荒っぽい通り一遍の通念で片づけることはなく、実に丁寧な考察を繰り広げていらっしゃる。肝心な箇所では具体的なテキストに即して精細に解読し、議論の独創性に説得力を与えている。兵藤さんならではの「読みの芸」ですね。それがいちいち快く、驚きと刺激に満ちたご著書で、楽しく読ませていただきました。
 

遠近法的には捉えられない世界

松浦 『明治の表象空間』に対しては国文学の研究者からのレスポンスがほとんどなく、ちょっと拍子抜けだったのですが、明治期の文学の領域では、この本で扱った私の問題意識に引っかかってくる作者は、北村透谷、樋口一葉、幸田露伴の三人だったわけです。
 これはみんな言文一致体の外にいた文学者たちです。明治二十年代、三十年代以降、言文一致体が文学作品の言語としても、一般庶民の書き言葉としても汎用化されてゆく。その一方で文語体、漢語体の言語は抑圧されていったわけですが、この流れの中で縊り殺された文学的可能性があったのではないか、それをもう一度復権したいというのが僕なりの考えでした。そのあたりの問題意識は兵藤さんも共有してくださっているように感じます。透谷については兵藤さんも取り上げていらっしゃいますが、僕が触れずに終わってしまった泉鏡花を重視して、あの華麗な物語世界を魅力的な手つきで分析されています。鏡花は以前からお好きだったのですか?
 
兵藤 以前から好きでしたが、論文やエッセイとして書き出したのは、この十年あまりでしょうか。鏡花の世界は、時間や空間が歪んだり、捻れてしまったり、そこから変な「もの」が出てきたり。
 
松浦 同時に、それらを表象する文章の姿そのものも歪んできたり。
 
兵藤 能の舞台などもそうですが、現在の我々が見ている世界と、鏡花のような感性を持つ人が見る世界はずいぶん異なっています。近代になると、世界は一元化された均質な空間になってしまう。明治中期の言文一致体という言説によって作られた世界ですが、言文一致の成立に関連して、風景/内面の発見ということが言われます。が、世界をそのように自我と外界として単純に切り分けるのではなく、もっと複雑な、捻れた空間と時間のあり方を考えないと、古典、たとえば『源氏』や『平家』の物語は読めない。
 テキストだけを読めば、『平家物語』は、平清盛がどうしたという歴史小説です。でも、琵琶法師の声でパフォーマンスされたのは、ふつう「夜」「深更」です。深夜に語られて聴かれる声のリアリティがあった。『源氏物語』も、たとえば「雨夜の品定め」(帚木巻)で、それぞれの体験が物語られるのは日中ではなく、ジメジメと雨の降る夜です。それから朝顔巻や若菜下巻では、光源氏の不用意な寝物語が、話題にした「昔」の死者たちの霊をこちら側の「今」へ呼びだしてしまう。そのような「ものがたり」が作る空間や時間の歪み、それを近代の日本文学で探そうとした時に、鏡花を真面目に論じてみようかと思ったわけです。
 
松浦 『物語の近代』の冒頭にもありますが、「ものがたり(物語)」には「ものを」語る面と「ものが」語る面と、その両方があるわけでしょう。話者とは、作者とは誰なのか。近代に入ると、個人が主体として自分の声で語るという事態が一般化しますが、本来物語というのは「もの」が「もの」を語るのだ、と。主体も客体もなく、主客未分の境位に匿名の声だけが響いていて、それは他界から聞こえてくる声のようでもある――物語とはそもそもそういうものなのかもしれない。となると、あらゆる物語は怪異譚だという言い方もできる。
 視覚的な遠近法の秩序が貫徹した近代の世界になると、そうした「もの」の跳梁は特殊な、ごく例外的事態だと見なされてしまうわけですが、どちらが普遍でどちらが例外かは一概には言えません。そうした視点から兵藤さんは、鏡花の小説を改めて、近代以前の「もの」の世界やラフカディオ・ハーンなどが興味を持った土俗的な感性と結びつけつつ、読み解かれていったわけですね。そして鏡花に続いて北村透谷が登場する。
 
兵藤 松浦さんも『明治の表象空間』の中で透谷について論じていました。透谷は言文一致体に向かわなかったわけですが、言文一致に対する松浦さんのお考えをお話しいただけますか。
 
松浦 言文一致によって日本語の、そして日本文学の「近代」が開かれたというのが通説ですよね。言と文が一致することで初めて風景や内面の表象が可能となったのだ、と。それはある程度正しいと思うのですが、しかし僕はずっと、そういう考え方自体に、一種の予定調和的というか、目的論的な言説という側面があるのではないかという疑いを持っていました。もっと言ってしまえば、「近代化=合理化」を唯一必然の歴史の進行と考える、十九世紀の西欧を席巻した「進歩史観」の一症例でしかないのではないか、ということです。
 言文一致体の普及が日本語や日本文学に大きな可能性を開いたのは事実です。森鷗外や夏目漱石といった大才の手になる「国民文学」的な作品群もそれによって生まれたし、明治期のナショナリズムの礎も築かれた。しかし、その半面、開花を禁じられ芽を摘み取られてしまった可能性もあったのではないか。
 たとえば一葉も透谷も露伴もすばらしい作品を残していますが、今日の日本人にとってはどこか縁遠いものになっている。それは文学にとどまらず、あらゆる書き言葉において言文一致体が一般化し、文語体や漢文体が特殊な教養の閉域に囲いこまれてしまったからです。教育制度においても「現代国語」と「古文」に分裂してしまっているわけですね。そして、小説というものは言文一致体で書かれるのが普通で、文語文の古典は現代語訳で読むということになってしまった。しかし、一葉にしても透谷にしてもたかだか百数十年前の文学者です。
 僕が親しんできた外国語はフランス語ですが、十八世紀のルソーやヴォルテールなど、今日のフランス人の若者がごくふつうに読める文章で書かれている。もちろんその時代特有の言い回しや語彙はあるから、多少は辞書を引かなければなりませんが、今の日本の一般読者が江戸期の文人の文章に感じるような疎隔感はありません。それはフランス語の文章体は連続的に変化して今日に至っており、言文一致のようなラディカルな切断は起こらなかったからなんですね。
 だから僕は、言語の「近代化」を楽天的に言祝(ことほ)ぐ気にはとうていなれません。そこにはもちろん歴史的な必然性もあり、一概に批判しても始まりません。ただ、言文一致による日本語の革新を、プラスの記号付きの「進歩」とのみ考えるのは安易にすぎると思う。風景や内面が描けるようになったのはいいとしても、それと引き換えに、もっと大きなものが失われたのではないか。そういうことが鷗外や漱石以前の、一葉や透谷の遺したテキストを精読することで見えてくると思うんです。
 

語る主体が捻れていく

兵藤 樋口一葉の『にごりえ』についても論じておられますが、この作品は圧倒的な内的独白体の小説ですね。
 
松浦 あれはすごい。
 
兵藤 似た作品として、『大つごもり』があります。あれもヒロインのどうしようもなく行き詰まった感じ、絶望するヒロインの内的独白の語りです。
 
松浦 『大つごもり』は和田芳恵が一葉の「奇蹟の十四か月」と言った、その皮切りに位置する小説で、独創的な作家としての自分を一葉が発見したという意味で画期的な作品だと思います。
 一葉の文章の骨格には井原西鶴のリズムがある。上野の帝国図書館に通って西鶴を耽読したと言いますね。他方、明治期の近代化・都市化されつつある社会の現実を引き受け、女性でありながら家長の役割を務めなければならないという苦しい責務もあった。それらを西鶴の文体でなんとかねじ伏せつつ、しかも西鶴にないような微妙な女性の心理を描こうとしたところに、ああいう恐ろしい作品が生まれ落ちたわけでしょう。
 
兵藤 『好色一代男』もそうですが、西鶴の文章には、なんというかどっしりした風格があります。でもところどころ、会話文がいつのまにか地の文になってしまう、あるいはその逆になったりもする。こういう文体の影響を、一葉の『大つごもり』に見て取ることができます。
 泉鏡花は、『大つごもり』が発表された明治二十七年の時点では、尾崎紅葉宅で玄関番(内弟子)をしていましたから、鏡花も、紅葉が企画して出版した『西鶴全集』(明治二十七年五月刊)を読んでいたと思います。西鶴のあの「 【曲流文/きょくりゅうぶん】」ともいわれる不思議な文体は、一葉や、後年の鏡花にも影響を与えました。語りの主体が捻れてしまうこうした文体は、たしかに言文一致体が作りだす遠近法的に整序された世界では生まれない文体です。
松浦 王朝から現代に至るまでの「ものがたり」の中で、「もの」をめぐって「もの自体」が語るという人=霊=言霊の世界というのは、これは西欧の近代文学の概念では捉えきれないものでしょう。それはむしろ、近代的な合理主義の反措定としてフロイトが掘り起こしてきた「不気味なもの」が跋扈する異界に近い。主語と述語の関係が明確な、インド=ヨーロッパ語のセンテンス分節の慣習に取りこまれてしまうと、その衝撃は消えてしまうから、西洋諸言語への翻訳はとても難しいと思います。
 その一方で、漱石から村上春樹まで、言文一致体で書かれた近代小説は、簡単に翻訳できる。西洋の読者にとってむしろ親しみやすいテキストであり、読み物として多くの読者を獲得できるかもしれないけれど、他者に触れるという刺激やおののきのない作品に文学的体験としての意味があるのかどうか。
 それが『源氏物語』、一葉、鏡花となると、これはいったい何なのかということになる。『源氏』にしても、英訳も仏訳もありますが、印欧語の構文に組み替えて明快なセンテンスの連なりにせざるをえないわけで、そうすると、冒頭にお話が出た「雨夜の品定め」で我々が感じるような、他界から陰々とくぐもった声が響いてきて時空の歪みが生じるといった不気味な感触は、翻訳では伝わらないだろうと思います。
 

和文と漢文

兵藤 平仮名が成立するのは九世紀ですが、これは、宮廷周辺の女性が仮名文を書く、今で言うとSNSに近い感覚の文章だったと思います。そんな仮名文、いわゆる女手を使って、紀貫之は「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」と断って『土佐日記』を書きます。日記は本来、男性貴族が政務の備忘録として漢文で書いたものです。漢文の公的世界を生きる男性官人の貫之が、女手の日記のスタイルを示したことで『蜻蛉日記』が生まれ、その延長線上で『源氏物語』も登場します。
 似たようなことが、近代文学でもいえるかと思います。江戸の戯作の口語文があって、明治になると、英語やドイツ語やフランス語の教養が知識層に広がる。欧米語は、主語―述語―目的語と、構文が漢文と似ているわけですが、漢文が平安朝の女手の口語文に与えた影響と、明治期に欧米語の翻訳文が戯作調の口語文に与えた影響は類比的に捉えることができる。もしも鏡花みたいな文章ばかりだったら近代国家は生まれません。
松浦 言文一致の功罪ということを言いましたが、明治日本の思想的基盤を据えるに当たって、たとえば福沢諭吉の文章が果たした役割には途方もない重要性があった。徹底的に論理的であり、平易で明快、かつ漢文訓読体の格調も具えている。国民の教育者という使命を完璧に果たした偉人だったと思います。
 もう一人、福沢と一種の相補的なスタンスをとっていた思想家が中江兆民ですね。平易とも明快とも縁のない、癖の強い、詰屈した漢文体で、野党的な反骨の姿勢を貫いた。兆民の場合は言文一致体は採用しなかったけれども、漢文の論理性を貫徹させることで旺盛な散文精神を発揮した。和洋漢に相わたる大変な教養をベースとしたレトリックが、むしろ異様な訳の分からなさや不透明感を醸成しているところまで含めて、本当にすごい文人だったと思います。
 おっしゃる通りで、グローバルな経済圏に参入し、先進国に伍して国民国家の体裁を整えていくに当たっては、鏡花や一葉のような「もの」のナラティヴだけではどうにもならない。科学や思想や欧米の近代小説を翻訳するのに、平仮名主体の和文脈は役に立たない。そういう苦境のさなか、多種多様な言語的実験が沸騰していた明治前期というのは、本当におもしろい時代だったと思います。
 
兵藤 福沢諭吉と中江兆民では、声の技芸でも対照的というか相補的ですね。「演説」をスピーチの訳語としたのは福沢ですが、不特定多数の聴衆を理屈や情で説得する演説にたいして、声の力で非合理な世界へ聴衆を巻き込んでゆく声の技芸があります。
 保安条例で東京を強制退去になった中江兆民は、大阪に活動拠点を移してから文楽・義太夫節に入れ込みますが(『一年有半』)、義太夫節のあの圧倒的な声、理屈を超えてしまう声の力に共振する何かが兆民にはあったのでしょう。
 

作者とは何だろうか

兵藤 明治二十年代の小説で、声の圧倒的な力を感じさせるのは、松浦さんも扱われた露伴や一葉でしょう。とくに一葉の内的独白体がその本領を発揮しはじめた『大つごもり』は、明治二十七年に発表されました。彼女をライバル視していた鏡花は、当時まだ自分の名前で小説を発表できない立場でした。
 『大つごもり』に前後して発表された鏡花の初期作品『義血侠血』は、新派芝居の『滝の白糸』として有名ですが、鏡花が考えたタイトルの原案は「瞽判事」といいます。その草稿と清書稿が慶應大学の図書館に残っていますが、それを見ると、師匠の紅葉が、朱と墨字で、句読点の打ち方からセンテンスの切り方、さらにタイトルやストーリーまで変えているのがわかります。今は鏡花作品として有名ですが、紅葉が生きている間は、『義血侠血』は鏡花作ではなかった。新聞に掲載された時の作者は匿名の「なにがし」、翌年に単行本化された時も、奥付の「著者」は尾崎徳太郎(紅葉)です。紅葉は明治三十六年に亡くなりますが、明治末年に『鏡花集』第一巻が春陽堂から刊行される時、『義血侠血』は初めて鏡花作となります。版元の版権上の都合からですが、鏡花本人は内心忸怩たるものがあったでしょう。
 こう考えると、改めて作者とは何だろうと思います。いわゆる著作権が小説(物語冊子)で確立する以前、版権を握る版元とその工房によって「作者」は作られる。これは江戸前期の西鶴や、後期の戯作小説も同じで、そんな慣習が明治二十年代くらいまで続いていました。たとえば、明治二十年に出版された二葉亭四迷の『浮雲』第一篇が、表紙に「坪内雄蔵(逍遥)著」と大書されたことはよく知られています。
 前代以来のメディアの慣習を引き継いだところに、作者の輪郭の曖昧な鏡花物もある。主体の輪郭が曖昧だから、言葉の隠喩的な連鎖がそれ自体でストーリーを紡いでしまったり、なにか変な「もの」をこちら側へ呼び入れてしまったり、そんな独特の小説世界も生まれるのでしょう。同じく言文一致体以前の作家でも、透谷や一葉とはかなり異質です。一方に一葉がいて、透谷がいて、鏡花がいる。それが一律に自然主義的な確固としてそこにある現実、まさに言文一致体という言説が作りだした現実ですが、そんな現実を記述する近代小説へ転換してゆくのが明治三十年代でしょう。
 
松浦 『明治の表象空間』に鏡花は登場しないのですが、何とか僕なりに論じてみたいという思いは連載中もずっとありました。結局、手が出なかったのは、鏡花の文章がたたえている不気味さのようなものに臆してしまったのでしょうか。『春昼』『春昼後刻』など、本当にすごい作品ですし、僕なりの鏡花論を書きたいという気持ちは今もあるのですが。
 読点と句点の話が出ましたが、鏡花の文章は、センテンスの意識がほとんどないでしょう。あれがこわい。それに比べると、一葉の文語体は西鶴張りですが、ずっと読点で続いていって、どこかで句点で切れており、それを近代的と呼ぶかどうかはともかく、一応は言説単位の分節化が施されている。鏡花はそれを無視してしまう。あれが不気味というか、僕には何か気持ちが悪くて、その気持ちの悪さに耐えているのが玄妙な快感に転じるといった、一種倒錯的な体験を強いられるところがある。でも今回、兵藤さんのご著書から多々啓発されるところがありましたので、また改めて取り組んでみたいと思っています。
 鏡花の場合、当時の師弟関係を律していたエートスもあるのでしょうが、先生がどんどん手を入れて、作者のオリジナリティが曖昧化していく。一葉の初期作品でも半井桃水との関係でその問題がある。これは前近代的とも言えますが、物語文学の系譜における署名と匿名というおもしろい問題が出てきますね。
 西欧の文学理論でいうと、「作者は死んだ」という命題が一九六〇年代に登場します。ロラン・バルトとミシェル・フーコーによる打ち上げ花火のような、二つの画期的な文章が大きな影響力を持つことになる。「Author」というのは「Authority」を持つ人のことで、語る権威を具えた作者が個人として実在し、それが物語を全能の神のようにコントロールしているというのが作品創造の伝統的な図式でした。それを根底から覆し、作者の審級を無化して、あらゆる言説を匿名のテキストとして、インターテクスチュアルな共鳴関係の中で読めばいい、というのがバルトらの提唱です。
 でも兵藤さんがこの一冊で展開されたような物語論の流れからすると、そんなことは日本文学では大昔から実践されてきた常態で、近代の百数十年がむしろ例外状況だったという考え方もできる。
 
兵藤 作者の死というのは、国文学をやっている自分のような者からすると、西洋の議論だという感じです。日本の近代文学、言文一致体以後の文学をテキストとして読む場合はあてはまるでしょう。
 『源氏物語』の作者が紫式部だというのは、ある時点でそう言われだしたわけで、今読まれているのは、藤原定家以後に作られたテキストです。最初に書いたのが女性だったのはたしかですが、冒頭から、「いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに」と、作者は責任回避するように語り出します。そんな物語をつぎつぎの女性読者が引き受けてゆく。語り継いで書き写してゆく中で、テキストの真正性を担保する「作者」など存在しない「ものがたり」、オリジナルの不在な物語が生成する。
 にもかかわらず、平安末期以後の危機的な政治状況の中で、公家社会が自らの文化的アイデンティティを創出する必要から、『源氏物語』は古典として再発見される。ほぼ同時に、テキストの起源として紫式部という女性がなかば神話化されて浮上します。院政期以降、公家社会では男性もお歯黒や紅・白粉を付けるようになりますが、これも『源氏物語』の影響かもしれません。
 
松浦 和歌や俳句は、歌人や俳人の名が添えられますから一応は個人の作品ですが、日本の詩歌は巨大な相互引用の織物と言えます。本歌取りはその典型ですが、兵藤さんがここで使った言い方をすれば「フォーミュラ」というか、定型的なイメージやレトリックがいろいろあって、それをいかに巧みに応用して新味を出すかというところで成立していく。
 フランスでも『ローランの歌』や中世武勲詩のように作者不詳で、むしろ民衆の集合無意識によって語られ歌われていたような詩歌がある。日本では、大歌人の定家や俳聖芭蕉など、聖人伝のように語られるビッグネームもあるけれど、彼らの作品自体はむしろインターテクストの網状記憶の中で成立しているようなものですから。
 

人でないものが語る文学

兵藤 定家の渾身の自信作は、『百人一首』(定家撰)所収の自薦歌、「来ぬ人を待つほの浦の夕凪に焼くや藻塩の身も焦がれつつ」です。自らを「待つ女」に擬した題詠の歌ですが、これを詠んだ時の定家は五十代後半です。子規以後の近代短歌ではありえない作歌主体のあり方、アルチュール・ランボーの「私は他者である」とでもいいますか。
 そんな「他者」化する一人称に関連して、松浦さんの初期の小説「ひたひたと」(『花腐し』収録)を読んでいると、語るわたしの輪郭――過去の少年時代のわたしと今のわたしとの境目が融けて分からなくなってゆくような不思議な感覚でした。
 
松浦 「ひたひたと」に言及してくださる読者に初めて出会って感動しております(笑)。あれは初出が雑誌発表でなく、単行本のために書き下ろしたもので、そのせいか時評などでも無視されまして……。しかし、僕が書いた短篇小説の中では恐らくいちばんよいものなんです。話者も主人公もどんどん移り変わって、しだいに何が何だかわけが分からなくなっていくという趣向の小説ですね。
 
兵藤 鏡花を読んでいるような気分になって、「現代の鏡花」は松浦さんだと思いました(笑)。それから現時点で文学を読むということでは、松浦さんが二〇一七年に発表された『人外』、まさにパンデミック後の世界を描いてますね。
 
松浦 『人外』は最初はまさに、「ものは――」とか「それは――」という主語で書けないかと思った小説なんです。吉田健一の遺作になった『道端』に「山野」という奇怪な短篇が入っているのですが、その主人公は枯れ葉が集まって立ち上がり、歩き出した「人間のやうなもの」なんです。吉田さんは何しろ過激な人で、生涯の最後の最後になってとうとう、登場「人物」なんてものが小説に必要なのかと挑発的に問うに至った。
 「それ」はドイツ語では「エス」で、フロイトは無意識の領界をそう呼んだわけですね。精神分析という思想の成り立ちそのものに、文学は大きな寄与をしていて、フロイト理論のうちにはおびただしい文学作品の引用があります。「それ」としか言いようのない意識の「外部」という発想自体が、詩や小説には古来すでに内在していたものなんでしょう。
 「それ」があった場所に自我が生成する――「それ」がかつてあった(過去形)ところに自我が成立する(現在形)とフロイトは言ったわけですが、いったん自我という主体の輪郭が明確になるや、「それ」は抑圧され、意識の外に放逐されてしまう。何かそういうプロセス自体を「ものがたり」に乗せられたらおもしろいだろうなと思いました。創作者として、言文一致的な秩序からどうやって逃れようかと、あれこれ試行錯誤していますが、なかなか難しいです。
 
兵藤 鏡花の小説は、口語体で書かれていても、いわゆる言文一致体的な世界にならない。その系譜上で、松浦さんの作品を今後とも楽しませていただきます。
 (ひょうどうひろみ・日本文学・芸能論) 
 (まつうらひさき・詩人・小説家・仏文学者) 
 (二〇二一年七月、庭のホテルにて)  
 
 
 
◇こぼればなし◇
 
◎ 明けましておめでとうございます。本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

◎ 昨年一月号の小欄では、トランプのアメリカからバイデンのアメリカへと大国がどのような転換を遂げるのか、とりわけ中国との関係が焦点となることにふれました。オンラインによる初の首脳会談が行われたものの、両国の対立の火種は絶えることなく、予断を許さぬ情勢に変わりはなさそうです。

◎ 新型コロナウイルス感染症はといえば、日常化したこの非日常の世界に人類が呑み込まれてから、早二年が経とうとしています。新たな変異株出現の報などに接するにつけ、まだまだ「コロナ後」の時代は遠いのかと嘆息させられる新春です。

◎ この二年間、とりわけ緊急事態宣言下には、自宅で録画や配信により映画やテレビドラマを楽しむ時間が増えました。困難な状況のなか、作品制作に携わる方々には感謝の気持ちで一杯ですが、スタッフやキャストの皆さんが創造の現場で味わってこられたであろうご苦労は、察するに余りあります。

◎ 感染対策はもちろんのこと、そもそも設定をどうするか、人と人の距離をどう取りながら描くのか、フィクションにどうやってリアリティをもたせるのか……。俳優たちがオンラインでのみ共演する「リモートドラマ」の秀作も生まれました。

◎ フィクションということでは、虚実の関係を鮮烈な手法であぶり出す写真作品で世界的に活躍するのが杉本博司さん。本号から、同氏の表紙シリーズ「portraits/ポートレート」が始まりました。「真を写すとは如何なることか」を長年探求してきたアーティストならではの「虚」の世界に魅入られること必定のシリーズとなるでしょう。

◎ 杉本さんが構想・設計し、完成まで約二〇年を閲したランドスケープ「小田原文化財団 江之浦測候所」をご存知でしょうか。この施設の始まりから現在に至る数奇な物語が、自作の和歌、文、写真、渾然一体となって展開する杉本さんの著作『江之浦奇譚』も、この機会にどうぞお手に取ってみてください。

◎ 先月号小欄で「昭和天皇拝謁記」(全七巻)、一〇月号で「岩波講座 世界歴史」(全二四巻)と、歴史関係のシリーズ刊行開始をご案内させていただきました。歴史系の新シリーズは他にもありますが、ここでは社会科学系の二つの新シリーズをご案内いたします。

◎ 一つは、一一月から開始した「シリーズ ソーシャル・サイエンス」(全八冊)。実験的手法や数理的・統計的分析の進展が著しい経済学、社会学、政治学等、各分野の気鋭の研究者が自らの学問の魅力と方法論を提示し、社会科学のイメージを刷新する画期的な叢書です。

◎ もう一つは、一月開始の「クリティーク社会学」(全七冊)。大澤真幸さんほか、第一線の社会学者七人が理論と現実社会の接点で独自の「問い」を展開、社会と社会学に対する批評となる、こちらも叢書シリーズです。ご注目ください。 
 

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