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『思想』2022年2月号  [特集]ポピュリズム時代の歴史学

◇目次◇

思想の言葉………塩川伸明  

〈序言〉「民主主義の危機」と向き合う………橋本伸也
ネオ・ポピュリズムの時代に大衆独裁を呼び起こす――ファシズム,ポピュリズム,デモクラシーの収斂について………林 志弦
「ポスト・ナショナル」とはいつだったか?――ポピュリズム時代におけるインドの歴史叙述………ニーラードリ・バッターチャーリヤ
多方向的記憶を超えて――抗争するディアスポラ,ホロコーストの記憶,崩れゆく戦後体制………イヴ・ローゼンハフト
右翼ポピュリズムと格闘する――どんな種類の民主主義のためのいかなる歴史記憶か?………ステファン・ベルガー
「和解」のための歴史学――三つのモデルとその含意を批判的に評価する………ベルベル・ベヴェルナジェ+ケイト・E・ティモニー

パンデミック時代の価値選択………アラン・ルノー
マルコムXの軌跡――黒人自由闘争の歴史………藤永康政

 

◇思想の言葉◇

記憶の政治/歴史の政治

塩川伸明


 「記憶の政治/歴史の政治」という問題群が多くの人の関心を集めるようになって久しい(「記憶」と「歴史」の関係も難しい問題をはらんでいるが、ここでは立ち入らない)。そこには種々の要因が関係しているが、冷戦終焉および「現存社会主義」の退場と関係して、かつてのイデオロギー的対抗が背後に退き、それに代わって、過去への眼差しが大きな争点として浮上してきたことは確かだろう。

 もう一つの背景要因として、世界各地で話題とされているポピュリズム――これは単一の現象ではなく、その定義をめぐっても議論百出だが――があり、エリートへの反撥と「大衆」(と自認する人たち)の強烈な自己主張が注目を集めているが、職業的歴史家への不信と「大衆」的歴史像提示もその一例となっている。ポピュリズムは民主主義を掘り崩す面がある一方、むしろそれは民主主義の一つのあらわれであり、場合によっては民主主義を活性化する契機たりうると説かれたりするという両義性を持つが、「権威的」な職業的歴史家に対する「大衆」的歴史論者からの異論提示にもそうした二面性がある。

 「大衆」を自認する人たちは極度に多様であり、そうした人たちの提示する歴史像も雑多だが、一つ注目されるのは、少なからぬ人たちが「自分たちは犠牲者/被害者だ」という意識に基づく論陣を張っていることである。現代的ポピュリストは「他者」をあからさまに見下すというよりも、むしろ「権威的エリート知識人はわれわれのことを無視するが、実はわれわれこそが被害者/犠牲者なのだ」と主張することが多い。この種の言説はあからさまな事実歪曲を含むこともよくあり、それ自体としては取るに足らないが、その背景に、「被害者/犠牲者であることが正当性の証だ」という感覚の広まりがあることを見過ごすことはできない。そうした感覚が広まっていればこそ、異なる立場の人々がそれぞれに「犠牲者」たる地位を争い合うという構図が現出する。その際、あからさまな「虚偽」と「真実」が対峙していると割り切れるならまだしも話は明快だが、常にそうとは限らないという点に事態の深刻さがある。林志弦イム・ジヒョンの「犠牲者性ナショナリズム」という概念は、このような状況を摘出するものとして示唆的である。

 私自身の専門に近い例でいうと、ロシアとバルト諸国やポーランドとの間での「歴史認識論争」は、互いに相手の「加害者性」を糾弾し、自分たちは「被害者/犠牲者」だという論陣を張ることが多い(どの国にも、自国内多数派の見解に同調しない少数派のいる点も見落とすべきでないが)。そこにおいては、互いに相手を「歴史修正主義」とする非難合戦が交わされている。単著『記憶の政治』や二つの編著『紛争化させられる過去』および『せめぎあう中東欧・ロシアの歴史認識問題』でこうした問題を扱った橋本伸也がそのモチーフを拡大して国際共同研究「ポピュリズムの時代における民主主義のための歴史」を組織し、その成果の一部が本号に掲載されることは、こうした問題状況に切り込むものと期待される(但し、私自身はこの共同研究に参加しておらず、そこにおける議論の内容には不案内なまま、この文章を書いている)。

 ポーランドの場合、ドイツとの歴史論争に関する対話・和解のことや、ソ連/ロシアによる侵略・支配の歴史といった側面については広く知られているが、ポーランド自らがユダヤ人差別・虐殺の主体となった―ユダヤ人を救ったポーランド人も少なからずいたとはいえ―という側面は、歴史意識に突き刺さったトゲのようなものであり、その事実を公言することへの反撥ないし抑制も強い。ここには、歴史論争の複層性が端的に示されている(加藤有子編『ホロコーストとヒロシマ』参照)。

 過去に悲惨な紛争の経験をもったり、支配・被支配関係をもった諸国・諸民族の間で、その記憶と歴史認識をめぐって対立関係が生じる場合、その記憶が深刻であればあるほど、それに基づく現代的紛争も抜き差しならぬものになりやすい。いま触れたロシアとバルト諸国やポーランドとの関係にせよ、旧ユーゴスラヴィア諸国の間の例にせよ、またわれわれに近い東アジア諸国の例にせよ、その対立関係の厳しさに言葉を失うこともしばしばである。浅野豊美らによって構想されている「和解学」の試みは、東アジアにおける厳しい論争状況のなかでどのようにして和解をもたらすかという問題意識から出発しているが、単純に「和解」を目標として立てさえすればそれが実現するわけではなく、むしろ「和解」を論じること自体が異論を招き、論争を生み落とすということも指摘されている。『和解のために』という印象深い著作を書いた朴裕河パク・ユハが、自ら激しい政治的論争に巻き込まれたことは問題の複雑さと深刻さを象徴してあまりある。

 歴史学や歴史文学・ドラマ―最近では漫画もこれに加わっている―のほか、歴史教育の占める位置も大きい。日本における歴史教科書をめぐる政治状況は周知のところだが、歴史意識と歴史教科書の問題が深刻な意味をもつのは他の諸国でも―それぞれの教育制度の違いに応じて異なった形においてではあるが―同様である。現代ロシアの場合、立石洋子の研究によれば、歴史教科書をめぐる政治が複雑な展開を示しているのは他国と共通するが、これまでのところ政治権力による一方的な統制が完成しているわけではなく、歴史家・教科書執筆者・教師たちはそれぞれに歴史像の多様性という問題に立ち向かっているという。注目されるのは、スターリン時代という痛苦な経験を含む自国現代史について教科書が単一の「正しい」歴史認識を提示するのではなく、生徒たちに自ら調べさせたり、討論させたりするという教育スタイルが取られていることである。スターリン時代の記憶という問題が国民の間に大きな亀裂を呼び起こすことが明らかであるからこそ、そのようなスタイルを取るほかないのかもしれない。

 いささかとりとめなく、答えのない難問ばかりを書き連ねてきた。こういう状況に対する万能の処方箋はない。ともかく歴史家の最低限の任務は、異なる記憶と異なる歴史像をもつ人たちがいるということを事実として確認し、そうした人たちの間で理性的な討論が成り立つための基盤整備に努めることではないだろうか。

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