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『図書』2022年4月号[試し読み]佐藤年/平野啓一郎

◇目次◇
遠き日の昔のことども 佐藤 年
鷗外の政治思想~『阿部一族』論 平野啓一郎
萎れた花束 谷川俊太郎
「一即一切、一切即一」 桂 紹隆
玄奘 荒川正晴
柳家小三治とその周辺(下) 矢野誠一
朔太郎の『猫町』 司 修
娘十九はまだ純情よ 片岡義男
黒石の文学 四方田犬彦
絵本を作る人 筒井大介
四月、花が咲けば心も浮き立つ 円満字二郎
絵が綻ぶ 岡村幸宣
すききらい 時枝 正
金成マツの虎杖丸 中川 裕
マダム・マサコの洋裁店 斎藤真理子
こぼればなし
四月の新刊案内
(表紙=杉本博司)
 
 
◇読む人・書く人・作る人◇
遠き日の昔のことども
佐藤 年
 
 幼い時の記憶というのは、歳月を経ても不思議に色褪せないもののようだ。現在俵屋旅館の新館のある処に、四軒の小さな家が二軒ずつ向かい合わせに建っていた。その南東の家に、幼い頃の私は両親と上の姉たち、弟と暮らしていた。マッカーサーが飼っていた犬の系統と謂われる仔犬を譲ってもらい、その犬が仔犬を五匹も産んだ。長い廊下に敷いていた鍋島緞通を犬たちの居場所にして使っていた為に緞通がすっかり駄目になってしまうほど、犬たちを溺愛していた。これだけ聞けば贅沢な話のようだが、常は始末な暮らしぶりそのものだった。

 大凡華やかではない地味な京都の暮らしぶりの中にも、子供心に胸躍る瞬間があった。娘たちのそれぞれの誕生日には、お祝いに来てくれる友達の為に、母がわざわざアイスクリームやケーキを頼んでくれたりと、ちょっと贅沢なもてなしをしてくれていた。今は店を閉めていられるが、寺町姉小路辺りに、富岡鉄斎筆の威圧感のある程立派な看板を掲げた『桂月堂』という重厚感がある洋菓子店があった。其所の赤茶の美しい塗りの岡持の蓋をそっと開けると、氷菓(アイスクリーム)の冷たさで薄ら白く霜のついた華奢な足付きの銀の(カップ)が見えた。受け皿(ソーサ―)にはレース状に切った紙が敷いてあったことまで鮮明に覚えている。

 紫野に移転なさったが、『嘯月』というお菓子屋さんもよく両親が頼んでくれた。食籠(じきろう)に美しい主菓子(おもがし)を納めて、御用聞きに時々訪ねて来られた。父と「今日はこれでお茶を喫もうか」などといいながら御菓子を選ぶのはどんなに心弾むことだったか。
(さとう とし・俵屋旅館十一代目) 
 
 
◇試し読み◇
鷗外の政治思想~『阿部一族』論
平野啓一郎
 
 『阿部一族』(一九一三年一月)については、史実との相違、出典となった『阿部茶事談(あべさじだん)』との相違が夙(つと)に研究されており、所謂「歴史其儘」とは取れないが、だからこそ、創作箇所に着目することで、小説家としての鷗外が、何を表現したかったのかが、よくわかるとも言える。
 『阿部一族』の主題は、根本的には、鷗外が終生拘り続けた自由意志と不可抗力との相克である。劇的な構成だが、例によって端正を極めた抑制的な筆致であり、それ故に、却って随所に、息を呑むような緊迫感が漲っている。
 
 鷗外が、乃木希典(のぎまれすけ)の殉死(一九一二年九月十三日)に衝撃を受けて、一気呵成に『興津弥五右衛門(おきつやごえもん)の遺書』を書き上げて発表し、翌年にこれを大幅改稿した事実はよく知られている。今日では初稿と決定稿との両方を読むことが出来るが、その一番の違いは、弥五右衛門の殉死が主君に正式に認められたものであったのか(決定稿)、否か(初稿)であり、この問題は、『阿部一族』にそのまま引き継がれている。
 事件の発端は、熊本藩の家臣阿部弥一右衛門(あべやいちえもん)が、藩主細川忠利(ただとし)の臨終に当たって、殉死の許可を得られず、結局、勝手に切腹してしまったことだが、その理由はと言うと、忠利から何となく嫌われていたからである。 
 これは、いかにも素朴な話のようであるが、今日のように〝自己責任論〟が猛威を揮う新自由主義の社会では、その欺瞞を暴露する核心を衝いた問いである。他者から愛されるか否か。これは、本人の意志と努力が必ずしも功を奏せない領域であり、しかも、現実的には、そのような私的な好悪の感情は、社会制度の運用上、決して排除されてはいないのである。
 実際、阿部弥一右衛門は、非の打ちどころのない忠勤を示しており、寧(むし)ろそのことが、忠利には「意地で勤める」ように映って、ますます不興を買っている。主君のみならず同僚たちからも何となく嫌われるというこの弥一右衛門の特徴は、『舞姫』の太田豊太郎にも認められる。
 
 『舞姫』の中には、次のような一文がある。
 「余は我身一つの進退につきても、また我身に係らぬ他人(ひと)の事につきても、決断ありと自ら心に誇りしが、この決断は順境にのみありて、逆境にはあらず。」
 しかし、鷗外はその後、順境/逆境を問わず、個人の生が、凡そ自由意志による決断とは無関係に、政治制度、イデオロギー、人間関係、「意識の閾の下」、偶然、病、……等によって翻弄される様を、一作ごとに、科学的な実験を思わせる厳密な条件設定の下で考察し続けている。しかもその筆は、凡そ不可抗力的なものに衝き動かされる、ということとは対極的な理智的なものだった。
 結果、鷗外の登場人物たちに読者が抱くのは、文字通り「仕方がなかった」という、一種の憐憫である。決して、個人の〝自己責任〟に帰することは出来ない。それが自己意識となれば「諦念」となる。阿部弥一右衛門も、周到にそう描かれているが、他方、絶対的な権力者である細川忠利も、決して自らの「決断」を恣(ほしいまま)としている人物ではない。
 
 鷗外は、忠利について「五十余年の久しい間治乱(ちらん)の中(うち)に身を処して、人情世故(にんじょうせいこ)に飽(あ)くまで通じていた」と記している。殉死という非人間的な制度に対して、忠利は、まず「残刻(ざんこく)だとは十分感じて」おり、また、跡継ぎの光尚(みつひさ)の保護のために、深く信頼している家臣たちは残しておきたいとも考えている。彼は、自分一人の命に対して、十八人もの人間が道連れにされる非対称性に意識が及んでいる。これは、今日の我々の目から見ても真っ当な思考である。
 その一方で、彼は、「光尚の周囲にいる少壮者共(わかものども)から見れば、自分の任用している老成人等(としよりら)は、もういなくて好いのである。邪魔にもなるのである。」と、組織の新陳代謝を考え、年下世代の怨(うらみ)、娼嫉(そねみ)に耐えて生き永らえろと命じることも、「通達した考えではないかも知れない」と思い直して慰藉(いしゃ)を得る。こちらは、もしその家臣等に〝暇を出す〟という程度の話であれば、今とて合理的とも見做されようが、藩という組織に不要であることが即ち生の意味自体の否定に直結するという飛躍は、殉死という制度の非人間性に、一周回って再帰している。君主を変えること自体は、阿部一族の討手となる近臣竹内数馬(たけのうちかずま)の父の場合のように、必ずしもあり得ぬことではなかった。しかし、そこで効果的に設定されているのが、島原征伐という細川藩の命運を決した戦の意味である。
 
 殉死は、いかにも理不尽な制度であるが、主君のために命を差し出す、という一点から見れば、戦で死ぬことと変わらない。否、戦はまだしも、敵を倒すという目的があり、殉死にはただ忠孝の表現以外、何もないではないか、と反論されようが、作者たる鷗外は、まさに戦を武勲による忠孝の表現のみとして描いており、両者が本質的には同じであることを繰り返し強調している。主君の「許(ゆるし)」のない殉死を、戦場での「犬死(いぬじに)」に擬えるのはそのためであり、逆に、竹内数馬が、殉死しなかったという噂の屈辱に耐えかね、阿部一族追討で討死しようと決心するのもまた、その故である。「ただ一刻も早く死にたい。死んで雪(すす)がれる汚(けが)れではないが、死にたい。犬死でも好いから、死にたい。」と願い、実際にその通りに死ぬ数馬にとって、阿部一族の殲滅(せんめつ)は、実のところ、目的にさえなっていないのである。
 そもそも、忠利が病に倒れた際、三代将軍家光が格別の慰問を行ったのも、細川家が島原征伐で「大功(たいこう)を立てた」故であり、この忠孝は、更に藩内の君主と旗本・御家人たちとの関係に於いて、相似的に反復されている。
 
 偽書とされながら、近世に広く読まれた『東照宮御遺訓(とうしょうぐうごゆいくん)』には、「武士は武道の外(ほか)他事なく、義理のせんさく強く、かざりへつらう事なく、心底と詞と二つなく……」とある。「義理」とは、元は宋学に於いて発展した「理」という超越論的価値と「義」という規範概念とが結びついた理念である。九世紀に日本に輸入されて以後、更に独自に発展し、武家社会の台頭を通じて実践的な教訓として土着化した。近世以降は、「家来として守るべき主従間の道理」(源了圓『義理』)とされ、正に家光時代に発布された『諸士法度』(一六三五年)の第一条に「一、忠孝をはげまし、礼法をただし、常に文道武芸を心がけ、義理を専(もっぱら)にし、風俗をみだるべからざる事」と掲げられるに及んで、儒教的イデオロギーによる幕府の支配が確立されてゆく。『阿部一族』の事件は、この六年後の一六四一年のことである。
 
 鷗外は、光尚同様に、家光も「名君の誉(ほまれ)の高い」と表現しているが、これは無論、この体制に於ける評価である。つまり、『阿部一族』の悲惨な事件は、幕藩体制が理想的な安定期に入ったまさにその時に生じた矛盾の核心を成す出来事と解釈されているのである。それは、「普請中」であった日本の官僚組織で生きていた鷗外が、日露戦争を経て、共に出征した乃木希典の殉死にどのような衝撃を被ったかを再認識させてくれる。
 登場人物たちは、「義理」という儒教的イデオロギーに自らの生死を以て完全に同一化している。その典型が、殉死を前にして家族と酒を飲み、安らかに昼寝をし、淡々と食事をして、所用にでも出かけるような調子で「菩提所(ぼだいしょ)東光院(とうこういん)へ腹を切りに往った。」と描かれる内藤長十郎(ちょうじゅうろう)の場合である。
 この日常生活の隅々にまで浸透した忠孝のイデオロギーは、しかしながら、個人の内面に於いては私(ひそ)かな葛藤を引き起こし、動揺し続けている。長十郎にせよ、「自分の発意(はつい)で殉死しなくてはならぬと云う心持(こころもち)の旁(かたわら)、人が自分を殉死するはずのものだと思っているに違いないから、自分は殉死を余儀なくせられていると、人にすがって死の方向へ進んで行くような心持」である。彼にこのイデオロギーを強いているのは、「名聞(みょうもん)」であり、それに反する場合の「辱(はじ)」である。この「辱」の感覚は、作中のあらゆる人物に共有されており、統治システムを実効的に機能させているが、しかし、それが言わば過剰化した果てのエラーが、阿部一族の事件であり、そうなると、彼らは体制側からは一転して「敵」と見做されてしまうのである。これは後に、芥川龍之介が『或日の大石内蔵助』で再度取り上げた主題である。
 
 もう一点、この雁字搦(がんじがら)めのイデオロギー支配が、一分の隙もなく機能しているかのように見えながら、一種のグレーゾーンを設定しているのが、本作の妙であり、それこそが「いつどうして極(き)まったともなく、自然に掟(おきて)が出来て」いたという、殉死者の人選である。鴎外は、所謂「剥き出しの生」そのものを生きる『高瀬舟』の喜助と弟との間に起きた殺人を、一種の例外状態と見做して、「オオトリテエ」としての主権者の「決断」を問う物語を描いているが、『阿部一族』もまた、そうした主権者の振る舞いへの着目に於いては、政治的に極めて先鋭的な小説と言うべきである。 
 鷗外の炯眼(けいがん)は、この統治体制を支えているものが、島原の乱に代表される戦闘であることを見抜いている。それは忠孝という生死をかけた概念の実体化であり、殉死という極めて象徴的な行為を現前させるのは、その具体的経験であり、記憶であり、歴史なのである。
 ここに、鷗外が乃木希典の殉死から受けた衝撃の根源がありそうである。
 
 こうした鷗外の政治思想的な洞察の凄みは、残念ながら、今日に至るまで、十分に理解されてきたとは言えない。フーコーやデリダ、シュミットにアガンベンと、政治を巡る現代思想の議論は今日も盛んだが、鷗外作品は、その理解のための精妙にして複雑な沃野であろう。
 (ひらのけいいちろう・小説家) 
 
 
 
 
 
◇こぼればなし◇ 
◎三月号小欄で『柳田國男自筆 原本 遠野物語』をご案内いたしました。紙幅の関係で触れられなかったお話を、もう少しだけ記すことをお許しください。

『遠野物語』の初版は三五〇部の自費出版でしたが、前年の一九〇九(明治四二)年春に同じく自費出版されていたのが、日本民俗学の原点とされる『後狩詞記(のちのかりことばのき)』。農商務省法制局参事官だった柳田が九州視察の旅の合間に九州山地を歩いて見聞を広め、特に宮崎県椎葉村の狩猟に関わる文化や儀礼、焼畑農業についてまとめた記録です(ちくま文庫版『柳田國男全集 5』等)。

◎『遠野物語』同様、『後狩詞記』も地元のインフォーマントからの聞き書きから成った書物でした。『図書』一九三九(昭和一四)年一一月号掲載の柳田の回想エッセイ「予が出版事業」には次のような記述が見られます。「…実は又私の著書では無く、日向の椎葉村の村長の口授を書写、それに或旧家の猟の伝書を添えて、やや長い序文だけを私が書いたもの」。「…気がついて見ると旅費が二十何円か剰って居る。是であれを本にしてやれと思って、積らせて見たところが丁度五十部だけ出来るという」。

◎この『後狩詞記』が出ていなければ『遠野物語』もなかったと言われます。柳田自身は『遠野物語』についてどう述懐しているでしょう。「…私の心の中には出版者心理が働いて居た。西南の生活を写した後狩詞記が出たからには、東北でも亦一つは出してよい」。「…前々年の経験、味をしめたと謂っては下品にも聴えるが、人には斯ういう報告にも耳を傾ける能力があるということは、あの時代としては一つの発見…」。

◎聞き書き、速記、対談、座談会……。「声を読む本」は昔も今も多く刊行されている一方、近年、日本でも市場が伸張してきているのがオーディオブックです。小説はもちろん、ビジネス書や学術書等々、多様なジャンルの本が朗読され、聴かれています。

◎カセットブックやCDの時代から、現在はネットで音声データをダウンロードする形。スマホでいつでもどこでも、何かをしながら「聴く本」を楽しめるようになりました。小社の一部コンテンツも各社のラインナップに加わっています。

◎耳で楽しむ物語の愉しさや感動を知ったのは、私事ですが、家族に、目が不自由な方のために音読CD作成のボランティアをしていた者がいて、本人とともに、皆で、工夫を凝らして吹き込まれた作品を聴く経験を通してでした。心地よい臨場感に場が包まれ、豊かな時間を共有したものです。

◎四方田犬彦さんの連載「大泉黒石」は本号で最終回。ご愛読ありがとうございました。黒石の、まさに波瀾万丈の生涯と「創造的宇宙」とが、皆様の脳裡に深く刻まれたことと思います。

◎今年は森鷗外生誕一六〇年、没後一〇〇年。小社でも記念企画の刊行が始まりましたが、小誌は全三回の短期連載「鷗外、この一冊」をお届けします。初回は平野啓一郎さんの『阿部一族』論です。

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