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『思想』5月号 特集〈1968〉

 『思想』は1921年(大正10)年の創刊以来,哲学・歴史学・社会諸科学の最新の成果 を読者に広く提供し、揺る
ぎない評価を得て来ました。和辻哲郎・林達夫らによって、学問的であると同時にアクチュアルであることという本
誌のバックボーンは形成されましたが、それは今日に至るまで脈々と生き続けています。分野を超えて問題を根源
的に考え抜こうとする人々にとって、最良の知のフォーラムです。

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◇目次◇

  *「試し読み」として冒頭部分を掲載しています
黒人ラディカリズムの「68年」とブラックパワー………藤永康政
1968年のベ平連――生成・共振・往還の運動のなかで………平井一臣
「1968年」のアメリカ例外主義――大西洋をまたいだベトナム反戦運動………梅﨑 透
生存権・保証所得・ブラックフェミニズム――アメリカの福祉権運動と〈1968〉………土屋和代
「1968年」とマスメディア………ヨアヒム・シャルロート
警察とニューレフトの「1968年」――運動のポリシングとその遺産………安藤丈将
68年5月――ミシェル・ロカールと社会民主主義の発見………中村 督
ドイツの「1968年」を振り返る――50年後の視点からこの時代をどう捉えるか………井関正久
 
 

◇思想の言葉◇

「一九六八年」は民衆生活(思想)とどのように交錯するか
安田常雄

 千葉県佐倉にある国立歴史民俗博物館(歴博)では、昨年二〇一七年一〇月から一二月にかけて、企画展示「一九六八年―無数の問いの噴出の時代」が行われた。館内の担当者によれば、展示は当初、同時代を経験した世代の来館者が多かったが、会期半ば頃からは「若い世代」が増大したという。どのような関心がその核にあったのだろうか。
 すでに歴博では、二〇一〇年にオープンした展示室「現代」において、「世界史のなかの一九六八年」という展示を行っており、それは展示場壁面に大きな世界地図をおき、その主要な七つの地域にモニターを設置し、同時代(主に一九六八年前後の約一〇年)の主要な出来事をモンタージュした映像で表現するという構成をとっている。その七つの地域とは、日本・ベトナム・東アジア・西欧(フランス・ドイツ)、東欧(ポーランド・チェコなど)、そして北米と中南米である。展示映像では、「ゲバラの国連演説」(一九六四年)やポーランドの「一九七〇年一二月事件」(これはのちにA・ワイダの映画『鉄の男』の素材になり、ポーランドの「自主管理労組連帯」の前史を構成する)なども含まれている。それは東西冷戦体制が動揺し、環境破壊を内包する経済成長神話も問われはじめ、二〇世紀における世界史的な転換点を象徴する時代であった。こうした疑いは、世代間の対立を含みながら、新しいライフスタイルの実験として世界の各地に噴出していった。そして異議申し立ての結節点におかれていたのは、ベトナム戦争だった。ただ中東世界まで射程を延ばせば、一九六七年のエルサレムの壁崩壊が画期であり、「一九六八年」言説自体が、欧米中心の世界観であるという批判があることは重要だ(板垣雄三「六八年の世界史」、『一九六八年の世界史』藤原書店、二〇〇九年)。
 今回の企画展「一九六八年―無数の問いの噴出の時代」は、A展示室として「ベ平連」をはじめ「三里塚」「水俣病」「横浜新貨物線」などの地域住民運動をおき、B展示室として「学生叛乱」とよばれた「東大」「日大」をはじめとする全国の「学生運動」を展示するという構成をとっている。その構成の独自性とは、第一に「一九六八年」を「学生運動」に集約するのではなく、地域住民運動との複合と捉える点にあり、第二にはこうした二つの運動の「高揚」を支えたものは何かという問いを設定したところにある。言い換えれば、「一九六八年を用意したもの」という視点であり、日本における「文化革命とは何か」という問いであろう。言わば「一九六八年」言説における「前史」の重要性であり、それは戦争や政治・経済・社会の変動と同時に、個人に関わる生活・思想・感受性、さらにイメージや言葉に関わる大きな転換点であったからである。同時代のある学生は、運動の歴史的役割について「時代閉塞の予感に駆られた表現主義運動。政治的には見るべきものに乏しい」と回答していた(『全共闘白書』同編集委員会編、新潮社、一九九四年、一六四頁)。この射程によれば、「学生運動」は重要であるがその潮流の一つの顕れと捉えることもできるだろう。このように考えてくれば、問題の焦点の一つは、「学生叛乱」と「住民運動」との交錯の意味を、一人ひとりの個人の生活の内側から、同時に思想と感受性の深部から捉えなおすことであり、それは「一九六八年」言説がいかに「庶民大衆」と出会ったのかという問いであろう。劇画全盛期の同時代的形象を借りれば、「正義」の「鬼太郎」はいかに「ねずみ男」と出会ったかという問いともいえよう。石子順造は「鬼太郎」が日本庶民の肯定的人物像であるとすれば、「ねずみ男」に「素直で老獪で、冷淡でやさしく、ずるくて正直で、単純で複雑」という両義的な「庶民像」を見ていたのである(『マンガ芸術論』富士新書、一九六七年)。
 ここでは次の二点だけに絞って、今後の「一九六八年」言説の再構成の方向性についてふれることにしたい。
 その第一は「運動としての一九六八年」についてである。すでに多くの研究でも言及されているが、その焦点の一つがいわゆる市民運動の自立といえるだろう。それは六〇年安保のときの「声なき声の会」に起源をもつ「ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」に象徴され、戦後日本を牽引してきた「革新国民運動」(高畠通敏)の衰退に代わって新しい運動スタイルが定着する端緒となった。旧来の運動が、革新政党を中心に、労働組合、学生運動を同心円的に配置する構造をもち、組織中心の運動構造をとっていたのに対し、「ベ平連」型の運動はあくまでも参加する個人の自発性に基づく内発的アイディアとスタイルによって柔軟に編成される構造になっていた。そこには規約もなく、会員・役員もなく、自発的に行動するものをもって「ベ平連」とする原則にたち、政党の介入・支配を拒否し、あくまで個の自主性に運動の基礎をおこうとした。新たな運動スタイルによって、「ベ平連」は米脱走兵の援助運動などを展開し、最盛期には全国で約五〇〇の「ベ平連」が活動していたといわれる。特に重要なのはそれが自己表現の場であるとともに、囚われている自分を変えていく場としても機能したことであり、国家の被害者であることによって他国の加害者になっていることの痛覚がこの運動を根もとで支えた。こうした「ベ平連」型の運動スタイルは、「無党派」層の学生運動や多様な「住民運動」のスタイルとしても広がっていった。しかし同時代には、個人参加を原則にしつつ、被害者の心性に徹底的に寄り添う運動スタイルも存在し、たとえば「水俣病を告発する会」はその行動理念を「義によって助太刀いたす」などという土着の言葉で表現していた。ここには個人原理の自己拡張を基軸にするスタイルと、「友愛」と「義侠」と「相互性」の実現をダイレクトに希求する救済(支援)の論理とがある緊張をもって存在していたと思われる。それは文化状況的には、「ベ平連」のフォークソング指向と「水俣」の御詠歌と「怨」の旗に象徴させることができるかも知れないが、それは「一九六八年」の運動が、どのような位相と回路で「庶民大衆」と遭遇できるかという問いであり、そのせめぎあいも「一九六八年」が遺した困難な現在的課題の一つである。
 第二の問題は「学問批判としての一九六八年」といえよう。周知のように「一九六八年」は大学という場で、学生管理などに対する抵抗として火を噴くことになった。これは高度成長期における大学生の急増による大学の大衆化、「マスプロ授業」の弊害などと指摘されてきたが、そうした「生き難さ」の根に「いま自分にとって学問とは何か」という問いが存在したことが重要である。
 こうした「学問批判としての一九六八年」の問題状況は、たとえばドイツの一九六八年を用意したハーバーマスの『公共性の構造転換』や同『理論と実践』の提起、またハーバーマスと学生運動との対立と協調などが紹介され、またその延長線上に「ポスト構造主義」的学問思想が登場し、これに対する対応をめぐり、またハーバーマスとデリダの異質性と共通性という論点などをめぐって「言語論的転回」以後の今日に続いている。 また私にとって同時代のアメリカの動向では「憂慮するアジア研究者の会」(CCAS, Committee of Concerned Asian Studies)が印象的であった。なかでも当時アメリカでよく読まれた著作にThe Indochina Story (Bantam Book, 1970)がある。ここには歴史学、政治学、社会学を専攻する若手研究者を中心に、直面するベトナム戦争の同時代的歴史分析が展開され、帝国主義的なアメリカのベトナム介入の歴史的根拠が解析されている。このメンバーの一人が、J・W・ダワーであり、「ハーバート・ノーマン」論(“E. H. Norman, Japan and the Uses of History”, Origins of the Modern Japanese State, Pantheon Books, 1975)と『容赦なき戦争』(War without Mercy,邦訳は当初『人種偏見』TBSブリタニカ、一九八七年として刊行)は、同時代の「学問批判」であり、戦後アメリカの支配言説としての「近代化」論に対する文化を含めた方法的批判であった。
 それに対して日本における「学問批判」は、どのように展開したのだろうか。いうまでもなく、「学生叛乱」の時代に併走した宇井純らの「公害原論」講座は、開かれた市民との接点のなかで展開した「学問批判」の実践であり、同時にその背後には、日本の公害反対運動のエッセンスが凝集されていた。日本の住民運動は、一九七三年時点で全国に三〇〇〇余りと記録されているが、それぞれの「現場」の運動は、住民自らの自己学習運動として展開されたことが大きな特徴であった。住民たちは自ら工場廃液を採集して実験し、その有害物質を検出して反対運動の根拠を作り出していった。その意味で住民のなかの学問指向は、現実の住民運動と併走する手作りの試みとして展開していった。こうした試みの根に「生活記録運動」や「サークル運動」などの戦後日本の民衆文化運動の継承があり、加えて重要なのは、そうした地域住民運動の地味で持続的展開のなかに、「学生叛乱」を経験した「学生層」を軸にした少なからぬ「若者たち」の存在があったことである。彼/彼女らはその地域で暮らし、その問いを生きることになる。そのことによって「庶民大衆」の存在に出会い、彼らの存在と思想を「再発見」することになったのかも知れない。そこに日本における「学問批判としての一九六八年」の豊かな経験の一つが遺されているのではないだろうか。

◇試し読み◇

〈鼎談〉「1968年」再考――日米独の比較から
井関正久・梅﨑透・小熊英二
 
 Ⅰ 68年の「連帯」とメディア・イメージ「相互の連関性」とイマージナルな広がり
 ――本日は「1968年」をテーマとした鼎談に、井関正久先生、梅﨑透先生、小熊英二先生にお集まりいただきました。鼎談に先立ち、小熊先生に〈提起〉をお書きいただいています。その冒頭、「1968年」とひとまとめにされる各国の運動について、「多様であるだけでなく、相互の連関性も実はない」とありますが、その多様さや関連の有無という辺りからご意見を伺いたいと思います。
 
 小熊 「相互の連関性がない」というのは、逆の言い方をすれば、「それ以前の時代なら連関性がない現象とされていただろうものが、68年には関連したものとして構築された」ということです。 その背景にあるのは、まずメディアの発達です。それ以前の時代なら知りえなかったような遠い国の事象、あるいは遠い地域の小さな事象を、メディアが広めるようになった。
 しかしそうはいっても、同時代に起きた多くの事象のうちでも、ある種の傾向性を持ったものが選択され、連関付けられていることもまた事実です。その傾向性が「1968年」というイメージを形作っている。ではその傾向性が何なのかというと、それまでは周辺と位置付けられていた動きです。周辺というのは、担い手でいえば学生、エスニック・マイノリティー、女性、第三世界などであり、活動内容でいえば議会政治よりは運動や文化であり、非暴力の示威的行動であり、正規軍でないゲリラです。
 これは何を意味しているかというと、それまで主流とみなされていた成人男性、議会政治、政党、米ソ、正規軍といったものを中心とした秩序が、動揺してきたという意識が背景にあったということでしょう。先進国の非暴力直接行動と途上国のゲリラ闘争は、実はまったく違うものですが、「米ソの正規軍ではない」という一点において共通性をもって語られた。新左翼の各党派も、その主張や戦略はばらばらですが、「共産党ではない」という一点で一緒に集会を開いたりした。いわば、それぞれ関係のない事象は、「主流ではないもの」という一点において共通した傾向性があるとみなされていたとも考えられます。その漠然としたフレームに沿って、本来は無関係な現象が、メディアを介して構築されたのだと私は受け止めています。
 
 井関 「相互の連関性」がキーワードとして挙げられますが、国際的につながっていたのは、実はごく一部の学生たちだけだったということも関係してくると思います。国境を越えて相互に影響を与えられたのは、ごく限られたエリートだけで、実際にはピンポイントでの国際連携でしたが、メディアによって彼らがクローズアップされて、あたかも国際的な運動だったかのように語られている。
 もう一点は、メディア自体の問題です。日本と同様に西ドイツでも60年代はテレビが普及した時代で、お茶の間でいろいろなものを見ることができるようになりました。その最たるものがベトナム戦争です。まだ学生自身のメディアが発展していなかった時代で、学生たちもテレビを通していち早く国際的な状況を知るようになりました。1989年になると今度はそれがまさに「革命」と結び付くわけです。東欧革命はテレビの時代の運動でした。
 マスメディアと運動の観点から言うと、西ドイツの学生運動家たちが当時よく引き合いに出したのが1848年です。まさにヨーロッパ各地で革命が起こった年です。その頃はプリントメディアが発達した時期で、革命においてもビラやパンフレットを通して、それまで知らなかった情報が、徐々に広がっていくことになります。68年は、それがテレビになって、圧倒的な視覚的効果によってその場にいたかのように広がっていく。そして89年につながっていく。現代は自分でSNSを使って情報を発信できる時代なので、さらに運動も変わりつつありますが、そういう最先端の技術を使って、あたかも一体であるかのような感覚で運動が広がっていく様子は、昔も今と変わらず、あったのではないかと思います。実は無関係だけれども、情報を見て自分たちの思いを投影し、自分たちの運動に転化していくということは、歴史をさかのぼれば恐らくあるし、今後もあるだろうという印象を受けます。
 また、最先端のメディアというものは、運動する側やそれに反対する側、それを監視する側のいずれにも使われることになります。ドイツでは2011年の反原発運動のときにSNSが使われ、翌2012年の右翼ポピュリズムの運動もやはりそれを使い、当局側もまたそれを用いて監視する。運動とメディアの関係で言うと、歴史的に見て本質的には似たようなところがあって、それがどんどんバージョンアップしているように思います。
 井関正久氏
 
 梅﨑 小熊さんの冒頭の一文はたいへん刺激的ですね。まず、いくつか前提として押さえておきたい点があります。はじめに括弧付きの「1968」、それから「世界各地」という表現と、「多様性」です。 「1968」というのは、非常にシンボリックな使われ方をすることが多く、もちろんカレンダー上の閏年の1968年ではありません。このとき、それが「長い60年代」の中でどういう位置付けになるのか考える必要があります。学生運動の爆発、運動の最高潮、分水嶺、転換、あるいはパラダイムシフトという言葉が使われたりもしますが、「68年」が過度に強調されるのは、ヨーロッパ史の影響とメディアのイメージに加え、史学史的な問題もあるのだと思います。
 「世界各地」の現象に関連して、近年、グローバルな歴史叙述が盛んです。ナショナル・ヒストリーを乗り越えようとする歴史学的転回から出てくるところで、近代以前や近代初期を対象に描かれることが多い「グローバル・ヒストリー」の概念を「1968」に適用しようとするものです。しかし、「68年」を経ても21世紀になっても、近代の法体系や国民国家は強固に残っている。むしろ近代システムという大きな枠組みの中で、各国の政治的な文脈の上に「68年」が出現した。
 そしてその「多様性」について、ほとんどの社会運動は国家権力への対抗運動です。「68年」後の環境運動など国境を越える社会運動でも、そのターゲットは基本的に国家や国籍を持つ企業です。したがって「68年」の運動はそれぞれの国の文脈において当然多様だったのだと思います。それらの「連携」については、井関さんがおっしゃるように、「68年」に決定的で大規模な組織的接続はほとんどみられません。また、思想やイデオロギーの受容にも地域差があります。そのズレに目配せをすることなく強調されるグローバル性が、均質化された「68年」のイメージをつくっているということでしょうか。
梅崎 透 氏
 
 小熊 日本でも、「68年」という言い方でくくるのは、かなり後になってからの話です。同時代では、強いていうと「70年安保」という言い方があるくらいです。「60年安保」に対して「70年安保」があるということは強く意識されていましたが、運動をやっている人たち自身が70年の安保改定が一区切りだと思っていたのですから、68年で区切る気は全くなく、したがって「68年」というくくりがあったとは思えない。恐らく日本で「68年」というくくりで考えるようになったのはずっと後のことで、それこそ国際的な影響、あるいはメディアや出版による構築だと思います。その意味でも、コンストラクトされた、イマジナリーなくくりであるわけです。
 当時の日本の運動について言えば、実態としてはあまりグローバルとは言えない。もともと海外渡航が自由化されたのが1964年で、外国に行くのが珍しい時代でした。運動の国際的連携の事例は、小田実がフルブライト留学生でアメリカに行って英語が話せたのでベ平連は多少の連絡があったけれど、他は赤軍派などを含めてほとんど実体がなかった。小田実が、佐世保のエンタープライズ寄港反対運動を評して、英語のプラカードが一つもない、あれではアメリカ兵は何の運動なのか全く理解できないとコメントしています。イマジナリーなレベルとしては、学生たちにはベトナムやチェコやフランスと「同時代的を生きている」という意識はあったと思いますけれども、実体が伴っていたわけではない。
 ついでに言うと、国内においてもそれほど広がりがあるものでもなかったし、広がりをつくる気があったのかも疑問なところがあります。私は、山本義隆さんが編纂をして国立国会図書館に寄贈された東大全共闘のビラ類約5千点を一通り見たつもりですけれども、ほとんどの内容は学内闘争です。大学の外のことになると、安保やベトナムは言及があるけれども、在日コリアンの問題を扱ったものはほとんどない。公害も少ないし、メディアを介した情報から大きく隔たってはいない。またそもそも、学外に訴えたビラというのがほとんどない。私の見た限りにおいては、学外でビラを配ったのは、69年の安田講堂攻防戦の2日目、もう安田講堂がいわゆる陥落をする直前の時期に、御茶ノ水でまかれたというビラがあるぐらいです。そのビラですら、東大闘争における全共闘と民青の対立の経緯を踏まえないとよくわからない内容ですから、受け取った人も理解できなかったでしょう。
 その意味では、当時の運動の多くは、実は国際的な連帯の実態も、ナショナルな広がりもなかった。ただ、彼らのイマジナリーの次元では、国際的な運動でもあるし、国内でも大きな広がりのある運動だと思っていたのでしょう。
 私はこれを、必ずしも批判して言っているわけではない。18~22歳ぐらいの学生たちが中心の運動なので――東大全共闘の場合は院生もかなりいましたけれども――、非常に限られた経験の中で運動をしていたのですから、無理もなかったとは思います。しかし、客観的事実と、彼らのイマジネーションとは区別しなければなりません。
 別の意味で興味深いのは、国際的な運動であるべきだとか、あるいは学生、労働者、農民、市民の連帯があるべきだという規範意識が強かったことです。これは、国際共産主義運動の先例があり、それが反発の対象であると同時に暗黙のモデルでもあったからでしょう。実際のところ、学生のインディペンデントな運動よりも、共産党の方が実体を伴った国際運動をしていた。当時の全共闘系の学生たちは、当時の主流だった国際共産主義運動に対しては距離を取ろうとしていたけれども、人間はゼロから枠組みを作れるわけではない。反発の対象からは、やはり影響を受けるものです。全ての歴史はそういうものだと思いますが、前の時代に反発しながら受け継いでもいる。そうして作られたフレームに、メディアをはじめとした当時の新しいテクノロジーやインフラストラクチャーが加わって展開していった、というふうに私は考えます。
 東大全共闘の有名なスローガンである「連帯を求めて孤立を恐れず」というのが象徴的ですが、もともとインディペンデントな運動であろうという意識がすごく強い。少なくとも従来の共産党と国際共産主義運動からはインディペンデントであろうという意識がある。ただ、そうであるとすれば個別の運動にならざるを得ず、国内的にも国際的にも、連帯は作りにくい。各地の運動は、メディアが例えば対談とか座談会を組んで結び付けてくれることはあるけれど、逆に言うとそういう形でしか出会う機会があまりない。政権側だけではなくて、野党側のネットワークからも独立した形で始めたので、連帯を形成しようとすると難しい。連帯はせねばいかんという意識は強くあっても、メディアに頼るという形にならざるを得ないところがあったと思います。
小熊英二氏
 
 梅﨑 アメリカの学生運動は、68年まではキャンパスを舞台にすることは希でした。64年のバークレー・フリー・スピーチ・ムーブメントも、隣接する商店街での政治行動をめぐっての大学当局との対立でした。学内では知識人運動として理論的な議論を重ね、直接行動は街で市民とともに展開する。転機となったのは、ベトナム戦争と人種問題が大学と密接にかかわると認識された68年4月のコロンビア大学ストライキでした。
 
 小熊 若干補っておくと、もともと全共闘自体が全学共闘会議というものであって、学内問題の解決のための連帯行動という位置付けになっていたはずです。だから、本来そういうものだったと言ってしまえばそれまでで、同時代ではベ平連とか、全然別の形として新左翼のセクトとかは、もちろん街頭で行動したりしていたわけです。ただ日本で、この時代の強いイメージの中にある全共闘運動っていうのは、基本的には学内運動です。
 
 井関 アメリカの学生運動は、学生組織の名称にもあるように、「民主社会」を目指すわけですよね。
 
 梅﨑 そうですね。「民主社会を求める学生」(SDS)ですから、方向性としてはおっしゃるとおりです。
 
 井関 「68年」というくくりはドイツの場合もかなり後になって、およそ10年後の78年あたりから、マスコミによって頻繁に使われるようになりました。西ドイツの場合、「68年」の学生運動家たちは、学生組織である社会主義ドイツ学生同盟(SDS)の名称のとおり「社会主義」を目指し、国際主義の名のもと、国外の組織との交流も盛んでした。ドイツで当時のSDSのプロトコルを見てきましたが、たしかにベ平連の名前がブリュッセルで開かれた「ベトナムの人々との連帯のための国際会議」のプロトコルに載っていました。ドイツは大陸に位置するので、学生も他国に比較的容易に行っていますね。小熊さんがおっしゃるように、68年よりも前からそうした動きが、共産主義運動の枠組みで既に始まっていて、60年代前半、あるいはそれより前のプロトコルにも西ドイツと社会主義圏との学生交流について掲載されています。
 西ドイツの左翼の学生は、例えば東ドイツの自由ドイツ青年団(FDJ)と一緒に討論会を開いています。また1947年から世界青年学生祭典が左翼の若者たちの国際的なフェスティバルとして開かれていますが、68年にはブルガリアのソフィアで開催されるので、有志を募って、みんなで行こうという動きもありました。あとは、キューバに行こうというのも。運動のための国際連携というよりは、社会主義を一緒に勉強するような学問的な枠組みでの連携という側面があります。このように共産主義運動の中での国際連携の延長線上に、学生運動の国際連携があった一方で、それとは違う形で、より急進的な運動も生まれました。
 「68年運動」で見られた「劇場型」抗議スタイルですが、これは従来の共産主義運動と明らかに違う運動スタイルです。彼らは「スペクタクル」という言葉を使いますが、これをヨーロッパで展開していたのがフランスの芸術家集団である状況主義者(シチュアシオニスト)たちです。彼らは労働運動とは別の枠組みで、芸術パフォーマンスを用いて革命を起こそうとしていた。西ドイツの学生運動のリーダーであるルディ・ドゥチュケや、コミューン運動をしていた人たちも、もともとはこの流れを汲むグループで活動していました。今で言うところのゲリラ・パフォーマンス的な形で運動を展開して「挑発」行為を繰り返し、目立つことでマスメディアに注目され情報を発信できると考えていました。とくに、コミューン運動の人たちの「スペクタクル」は次第に過激さを増し、そこから後の極左テロに繫がる部分も出てくるわけです。
 
 梅﨑 アメリカでも「劇場型」の政治運動が際だったのは、やはり「68年」だと思います。それ以前にメディアの存在を意識した運動には、公民権運動の非暴力直接行動がありました。非暴力を貫くことで相手の人種主義的暴力を誘発し、それが新聞やテレビで報道されると、読者や視聴者は暴力を振るわれた側に感情移入する。非常に高度な戦術で世論を味方に付けたわけです。特に63年春のバーミングハム闘争では、子どもたちが警察犬をけしかけられ、消防車に放水される様子が世界中に配信されました。その後非暴力直接行動は、現代の社会運動における一般的な戦術になりました。しかし最近では、例えば沖縄で市民が機動隊に暴力的に排除されても、人々の関心はなかなか高まらない。大変残念なことに、非暴力運動のインパクトが希薄になっているようにも見えます。60年代の非暴力運動は時代に限定された運動だったのかもしれません。
 
   ~~以下、本誌をご覧ください~~

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