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思想の言葉:岩崎稔【『思想』2022年6月号】

◇目次◇

思想の言葉  岩崎 稔 
花粉から花序へ――「個」をめぐるロシア思想とノヴァーリス  細川瑠璃
多種を真剣に受け取ること――ビーバーとギンザケのマルチスピーシーズ民族誌から  近藤祉秋
フィヒテにおける超越論哲学の理念(一)――1804年講義の真理論  山口祐弘
悲劇・弁証法・トポロジー――ラカンによる「パスカルの賭」(中)  原 和之
ストークリー・カーマイケルとブラックパワーの興隆――黒人自由闘争の歴史(終)  藤永康政
ルカーチvs.アドルノ問題再考(後)  髙幣秀知
文学部とは何か――国際的・歴史的観点からの考察  縄田雄二

 

◇思想の言葉◇
 
記憶と忘却の問題系をめぐるある死角
岩崎 稔
 

 コロナ渦ですでに予兆があったものの、突然のウクライナ侵攻をきっかけにもっとはっきりと、わたしたちを取り巻く言説のモードが「戦中」または「戦前」のそれに転換したのではないか、それによってこれまでの議論や実践が陳腐化しているのではないか。そう指摘する声に何度か出会った。もちろん「いまさら何を驚いているのだ。同様の軍事侵攻や無差別攻撃、大量の難民流出、そして人間の生がむき出しのゾエーとなる事態は、グローバルノースから遠いと感じられていたところでは常に繰り返されてきたではないか」と返すこともできる。確かに、わたしたちのいまさらながらの驚きは、無自覚なレイシズムやエスノセントリズムがいかにこの社会の感受性に根を張っていたのかを証しているのかもしれない。しかし、それでもやはりこの二月二四日以後の事態が何らかの転換を暗示しているのは確かなようである。

 ただし、「戦中」または「戦前」というモードに転換したという言い方には既視感がある。かつて柄谷行人が『〈戦前〉の思考』(文藝春秋、一九九四年)でまったく同じ表現を用いていたからだ。それは冷戦秩序が終焉したように見えた一九八九/九〇という切断についてのかなり早い時期の考察だった。そこで柄谷が論じたのは、長く慣れ親しんだ「戦後」的な概念編成が無効になったということだ。たとえば民主主義と自由主義とはまったく異なった系譜において成立している概念でありながら、戦後の「繁栄」とともに可能になっていた自由民主主義に対する暗黙の信頼によって、そのことはそれまでは見えないできた。それらがいまやまったく別の系譜であることが露わになるとともに、それぞれがナショナリズムをめぐってきわめて剣呑な動態を示している、ということだった。これ自体は、すでにカール・シュミットが一九二〇年代に『現代議会主義の精神史的状況』(樋口陽一訳、岩波文庫、二〇一五年)のなかで、ある凶兆とともに突きつけた論点である。しかし、自由主義と民主主義の乖離が深刻な現実となって差し迫ってくるという予言は、たとえばいまハンガリーで「非自由主義的民主主義」という言葉を批判者からのレッテルとしてではなく、自らの政治的な主張として掲げるオルバンのような政治家が実際に権力を握っていること、ロシアを含む世界各地で形だけの議会制に基づく権威主義的な体制が顕著に増えていることを考えると、やはり慧眼だったと言わざるをえない。ヤン=ヴェルナー・ミュラーの『試される民主主義 ― 二〇世紀ヨーロッパの政治思想』(板橋拓己、田口晃監訳、岩波書店、二〇一九年)やヤシャ・モンクの『民主主義を救え!』(吉田徹訳、岩波書店、二〇一九年)に代表される「危機に立つ民主主義」論がこのところ非常に熱心に議論されてもいる。

 もっとも、『〈戦前〉の思考』には大見えを切るようなふるまいも混じっていて、「今後の危機において出てくるのはファシズム以外にありません」としながら、次のように言い切っている。「そのときに抵抗しうるのは、社会民主主義者ではなくて、頑固な自由主義者だけであろうということをつけ加えておきます」(九三頁)と。

 こうした断言が即座に可能だった時点から約三〇年。この隔たりをどう振り返ることができるのだろう。いまはまさにこの「自由主義者」であろうとすることの意味こそが激しく揺らいでいる。新自由主義的な心性が迫り出してきているなかで、「自由」ということ自体が複雑な変容を遂げているからである。自分の手で自分自身をそこへと追いやっていかなくてはならない奇妙で安楽な隷従とでもいうべきものが広がっている。

 ところで、冷戦体制の崩壊以後をとらえ直す試みであった『思想』の「〈1989〉」特集(二〇一九年第一〇号)では、キャロル・グラックの長いインタヴュー「一九八九年の希望と失望」が、あらためてこの三〇年を多元的に総括している。彼女は、その時期の数ある特徴のひとつとして、「記憶の問題のうねり」が現れてきたことを強調する。その点についてグラックは、フランソワ・アルトーグの「現在時の専制」という現代批判の概念を引証しながら、「当時の未来の革命や変革に対する希望こそ持続するべきだったのに、皮肉にも過去の記憶のほうが三〇年間持続することになっているのです」(一六頁以下)という。

 彼女がいう「記憶の問題のうねり」とは、記憶と忘却という概念を用いて、それまで不可視にされてきた犠牲者たちの声を聞き取る理論的、実証的作業が、さまざまにこの三〇年間の言説空間を満たしてきたことである。この指摘が妥当であることはおおかたの認めるところではないか。記憶と忘却という補助線が引かれたことで、初めて可視化され気づかれるようになった痛みや傷の例が間違いなく無数に存在している。とはいえ、これらの記憶論争の主題や争点、論じ方を振り返ってみると、ただ多岐にわたるだけでなく、かなり混乱し、ときに不幸なまでの行き違いも生み出してきた。一見すると同じように記憶にかかわる語彙を使って論じ合いながら、実はまったく違ったことを参照していた局面もあった。また、「記憶」という語彙が、あたかも敵に投げる礫か何かのようにただ攻撃のレトリックとしてだけ用いられる場合も紛れ込み、そのためにある種の道徳的狭隘化を生むこともあった。これらの記憶と忘却の論争過程の混乱を解きほぐし、つぎの世代に橋渡ししていくことはおそらく現時点での大事な課題であろうし、歴史と記憶の論争にコミットしてきた者の義務とも感じている。ここでは、それらをあらためて概観するだけの紙数はないから、網羅的というには余りに不完全であることを承知の上で、この時期の議論状況のなかから拾い上げた論点を、あえて一〇の視座に整理して表示することにとどめておこう(表)。

 

 ところで、これらを俯瞰しつつ再整理していくという課題を前にして、あらためてこれまでの記憶と忘却に関する議論のなかにある欠落があったということを痛感している。そして、そのこともまた新自由主義的な今日の言説の特徴と深くかかわっている。不明にもわたしがやっとそのことに気づいたのは、クリスティン・ロスの印象深い作品である『六八年五月とその後』(箱田徹訳、航思社、二〇一四年)を読んだときだった。ロスは「一九六八」という出来事の「その後」の、「時代にかなった」軽やかな語りの洪水を徹底的に批判している。とくに、かつてその運動の代表者であり、当事者であるがゆえにその解釈変えに特権的な役割を果たし、その後マスコミの寵児ともなる一部の知識人たちが作り上げた「記憶」を仮借なく腑分けする。したがって、ロスのこの著作は、一九六八年の記憶についての書であるだけでなく、記憶と忘却の問い方そのものをめぐる論争の書ともなっているのである。こうした批判は、すべてとは言わないにしても、記憶と忘却に関する論争状況のなかでこれまでほとんど等閑視されてきていた。ロスは言う。

 本書が「その後」という表現を用いるのは、「五月」のあやまちや成果の一覧表を作るためでもないし、当時の運動から「教訓」を引き出すためでもない。「六八年五月の出来事」として知られる一連の事柄をめぐる議論は、社会的記憶と忘却との関係を無視してはもはや成り立たないことをはっきりさせるためである。そうした記憶と忘却は物質的な形態を持っている。本書がたどるのはこの形態の歴史である。「五月」の記憶の管理――出来事の政治的意義が解説や解釈で骨抜きにされるプロセス――は、三〇年以上を経た現在、「一九六八年」が提起する歴史問題の核心をなしているのである。(一〇頁、強調は岩崎)

 ロスが論証しているのは、一九六八の意味が、一九八九/九〇年以後の新自由主義に親和的な「解放された個人の自由」言説のなかにいかに取り込まれてしまっているのか、ということであった。それと同時に、今日の記憶と忘却の理解のなかには、いつの間にか第二次世界大戦とホロコーストの無力な被害者と犠牲者を範例とするある傾向が生まれてしまっているという。このバイアスが、「カタストロフィ、行政的虐殺、残虐行為、対独協力、ジェノサイド」の集合的記憶を、「心的外傷」や「抑圧」といった精神病理学的用語を通じた理解へと導く。そして、こうしたカテゴリーや表現にはあてはまらない一九六八年の集団的な出来事の記憶は、端的に表現するなら闘争の記憶は、一九八九/九〇年以後の空間のなかで語られる余地がなくなっていく。

 同じことを考えさせてくれるもうひとつの実例が、エンツォ・トラヴェルソの『左翼のメランコリー――隠された伝統の力 一九世紀~二一世紀』(宇京賴三訳、法政大学出版局、二〇一八年)である。たしかに表題の「左翼メランコリーlinke Melancholie」という言葉自体は、ヴァルター・ベンヤミンが一九三一年に書いたケストナーの詩集についての辛辣なエッセーに出てくる、新即物主義的な文学の微温的な内実を突き刺す言葉でしかなかった。(『批評の瞬間 ベンヤミン・コレクション4』浅井健二郎編訳、ちくま学芸文庫、二〇〇七年)。しかし、トラヴェルソは、その同じ術語を使いながら、しかも自身は(「政治的ベンヤミン」の発見者であったというダニエル・ベンサイードに学びつつ)長くベンヤミンとともに考える姿勢を貫いてきた思想家であるが、この「左翼メランコリー」という概念を救出し、それをベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」のもっとも実践的な読解へと転換している。左翼メランコリーとは、さまざまに言い換えられているものの、それはただ喪にとどまらない敗北の在り方であり、それこそ回復復元と行動能力を含めて多様な可能性に開かれたプロセスのことであるという。

  だから、ロスにしても、トラヴェルソにしても、記憶論争のなかで重要な理論的貢献をしたとされてきたピエール・ノラやアライダ・アスマンたちの仕事をかなり手厳しく批判している。とくに記憶についての論争がマルクス主義的記憶との断絶として表れたことが一九八九/九〇年以後の決定的な特徴であるという。

 知的歴史の劇場では、マルクス主義は、記憶が満身に脚光を浴びて入ってくると、拍手もカーテンコールもなしに舞台から消えていった。この交代劇の帰結の一つは、マルクス主義と記憶の関係が、もちろん、たとえそれが存在しなかったことを意味するものではないとしても、決して真剣には研究されていなかったことである。マルクス主義は、これを標榜する集団運動に一〇〇年以上もの間宿っていた過去の期待、ヴィジョン、認識の鏡として、記憶の概念を前提にし、その具現化でさえあったのであるが。(八一頁、強調は岩崎)

 そして、「一九世紀から二一世紀までの左翼文化のメランコリックな広がり」を、思想、文学、そして映像の具体的な読解を通じて探訪するかれのカルチュラル・スタディーズは、一九八九/九〇年を覆った漠然としたメランコリーとは異なったものを浮かび上がらせるが、それは簡単に言えば、近年の記憶論の支配的な議論よりももっとずっと不穏なものである。トラヴェルソはさらに次のように述べている。

 この敗北のメランコリーは今日、遍在しているが、また同時に、犠牲者にしか席を与えない公的な記憶によって「検閲され」、隠蔽されている。革命は、一九世紀と二〇世紀、即ち、ジェノサイドの犠牲者の喪を唯一の遺産とする炎と血の時代のアルカイズムとして現われる。そこから生じたメランコリーは非政治化され、麻痺した順応主義的なものである。それは、反抗を引き起こすどころか、抑えようとする公的な記念儀式に示されている。本書で問題のメランコリーは、犠牲者を哀れむのではなく、救済しようとする文化、奴隷を同情の対象ではなく、反抗する主体と見る文化のメランコリーである。(二三八頁)

 記憶と忘却の問題系を「記憶論的転回以後の問い」として論じてきた者として、今頃になってこうした欠落を自覚することは身の不明であるには違いないが、これは記憶と忘却の問題の全体を描きなおしていくためのこれから不可欠な筋道である。

 しかも、ロスが「一九六八」の再読においてもっとも重要な文脈として見ているのは、今日の新自由主義的な語り方のなかから何よりも消去されている植民地主義批判の文脈である。たとえばそれは一九六八年が、その数年前、一九六一年一〇月一七日のパリの事件との、つまりFLN(アルジェリア民族解放戦線)が組織したアルジェリア人の非暴力の大衆デモに対して、警視総監パポンに命じられて警察が襲いかかり、拘束後も激しい殴打を加えて、二〇〇人と推計される死者を出しながら、完全に同時代的には消去された事件との関係をもっていたということであった。支配的な一九六八年論の言説からはそれが跡形もなく消されてしまう。

 トラヴェルソの『左翼のメランコリー』もまた、マルクス主義的批判の系譜と植民地主義批判の系譜との関係にフォーカスしている。そのために、フランクフルト学派の西欧マルクス主義と第三世界論との「出会いそこねと出会い直し」が同書の後半の主題となっている。「この反逆のメランコリーはまだ発見すべきものであり……メランコリーと革命は並走する」(二三九頁)。重要なことは、それぞれの文脈のなかで出てきているこうした新しい試みが、記憶と忘却の論争過程のなかで消し去られていた次元、順応主義的な、もっぱら犠牲者を雛型とする記憶の語りを突破するという点であるのだ。記憶と忘却をめぐる論争過程で見いだされた蓄積を、たんに一過性の流行として雲散霧消させてしまわないためにも、新自由主義的言説の罠の背面でいつの間にか隘路に入り込んでしまった「喪の仕事」を、あらためて闘いの記憶に、とくにレイシズムと植民地主義の記憶に突き合わせることを通じて、もっと不穏な闘いの言葉へと開いていくことが必要と考えている。

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