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思想の言葉:出口康夫【『思想』2022年7月号】

◇目次◇

思想の言葉  出口康夫
内村鑑三と「二つのJ」――キリスト教ナショナリズムの系譜  赤江達也
チャールズ・テイラーの「宗教と世俗」論――「キリスト教世界」批判と「リッチ・モデル」の提唱  千葉 眞
国立図書館における中国絵画展  ヴァルター・ベンヤミン
共和国とフランス――ゼムールを巡る論争  宮代康丈
フィヒテにおける超越論哲学の理念(二)――現象論の課題と可能性  山口祐弘
悲劇・弁証法・トポロジー――ラカンによる「パスカルの賭」(下)  原 和之

【追悼 見田宗介】
見田宗介先生――思い出すこと,思う事  内田隆三
見田宗介先生を悼む――翼をもち,そして根をもつこと  大澤真幸

 

◇思想の言葉◇

「できなさ」からWEターンへ

出口康夫

 僕らは数多くの「できなさ」を抱えている。空も飛べないし、永遠に生きることもできない。「一人では何もできない」という単独行為不可能性もその一つだ。合唱や野球といった共同行為は一人ではできないが、自転車を漕ぐといった行為は一人でできるように、一見思える。本当にそうか。自転車乗りという行為を行うためには、自転車がうまく作動しなければならないし、道路・信号システムなどのインフラが整備・維持されていなければならない。また適切な酸素濃度・大気圧・重力場も必要だ。人間、人工物、生物、無生物など多種多様なエージェントによる援助や支えがあってこそ自転車に乗るという行為が成立する。そして私は、どのエージェントの働きをも完全に制御することができない。私は、自転車漕ぎという行為者性(エージェンシー)を、それら多数のエージェントに委ねざるをえないのである。結果、行為者性を委ねられた無数のエージェントからなるシステムが立ち上がる。このマルチエージェントシステムは、エージェントの多数性とシステムとしての単一性を併せ持つ点で、同じく多数性と単数性を兼ね備えた「われわれ(WE)」と呼ばれるべき存在である。自転車漕ぎという行為の主体・エージェントは、単なる私なのではなく、その「わたし(I)」を含んだシステムとしての「われわれ」なのである。


 脳を用いた身体行為である「考える」や「決める」という営みも同様である。例えば、僕らは何らかの決断を行う際に、生まれ育った環境、他人の意見、社会的価値観といった様々な要因の影響を受けている。だがこの事態を、これら様々な影響を蒙りつつも最終的には私が一人で物事を決めていると捉える必要はない。確かに最終的に決めているのは「わたし」かもしれない。だが多数の要因も「わたし」と同じく決定に参画していると考えると、すべての決定は、「わたし」と数多のエージェントからなる「われわれ」の共同作業だということになる。「わたし」は専決者ではなく、共同決定という一連の作業の中で最後のボタンを押す役割を担った最終決定者にすぎないのである。

 すると、全ての行為は共同行為であることになる。「我思う(cogito)」ではなく「我々思う(cogitamus)」、I doではなくWe doなのである。これが、行為の主体・エージェントの私から「われわれ」へのシフト、行為のWEターンである。

 一方、僕らは日々、自転車に乗り、考え、決断している。多くの行為を成し遂げているのである。これらの行為は、その都度、無数のエージェントからなる「われわれ」が立ち上がっているからこそ可能となっている。「わたし」は他の多くのエージェントにアフォードされつつ、「われわれ」の一員として行為に参画しているのである。このように、単独行為不可能性という「わたし」が持つ根源的なできなさは、「わたし」がつねに既に「われわれ」の一員として、他のメンバーに支えられてあることを示している。それは「われわれ」に対して開かれたできなさなのである。

 生きて行為をする限り、「わたし」はつねに何らかの「われわれ」のメンバーであり続ける。行為者としての「わたし」は「われわれ」なしには存在しえない。「われわれ」は着脱可能な衣装ではなく、「われわれ」を纏わずに存在する裸の私などは幻にすぎない。「われわれ」は「わたし」にとって不可逃脱的な存在であり、「われわれ」なしに「わたし」は存在しえないのである。

 行為者性は多数のエージェントに委譲され分散されている。だが身体の所有者性はそうではない。「わたし」はその身体を占有し続けている。すると身体の占有者である「わたし」がいなければ、その身体の行為を支える「われわれ」もそもそも立ち上がらないことになる。「わたし」もまた「われわれ」にとって必要不可欠なのである。

 「わたし」の「かけがえのなさ」は、従来、知的であること、身の回りのことが一人でできること、専決的に自己決定できることといった、「わたし」の「できること」に置かれてきた。だがこのようなかけがえのなさは儚く、脆い。誰でもいつかは知的能力が衰え、身の回りのことも一人でできなくなる。またこのようなできることを持たずとも尊厳を持って生きている人はいくらでもいる。一方、「わたし」はこれらの能力を一つも持たないとしても、「われわれ」にとってかけがえのない存在であり、このかけがえのなさは「わたし」が生きて行為をしている限り失われることがない。誰もが有し、決して失われることのない、このかけがえのなさは「わたし」の単独行為不可能性に由来している。「わたし」のかけがえのなさは、「わたし」のできることではなくできなさに存するのである。

 自己とは何か。この問いには唯一の正解はない。ここでは自己を行為のエージェントだとしよう。すると行為のエージェントが「われわれ」化された以上、自己もまた「わたし」ではなく「われわれ」だということになる。われわれとしての自己(Self-as-We)の登場である。このように行為主体のWEターンは、自己の「われわれ」化、WEターンをもたらすのである。

 人生を「人生する」という一つの大きな行為と捉えると、生の主体もまた「わたし」から「われわれ」へと転換する。ウェルビーイングを人生・生のあり方だと見なすと、ここでも「わたし」のウェルビーイングから「われわれ」のウェルビーイングへの転換が起こる。また行為と責任、そして責任の裏返しとしての権利は互いに密接に結びついている。行為主体のWE化は、責任と権利の主体のWEターンをもたらすのである。近代社会は自立した個人としての「わたし」を行為・責任・権利の主体と見なしてきた。すると以上見てきたWEターンは、近代社会そのもののWE化をも要請するのである。

 WEターン後の社会はパラダイスでもユートピアでもない。良い私もいれば悪い私もいるように、良いWEもあれば悪いWEもある。例えば外に対しては排外主義、内に向かっては同調圧力といったオーウェルが描いたディストピアは悪いWEの典型例だろう。問題はいかにして「われわれ」をよりよくし、よりよいポストWEターン社会を築くかである。

 「われわれ」はその外側に「われわれ」でない者たち、「彼ら」を持つ。そして「われわれ」という内集団に親近感を抱き、彼らという外集団を疎んじる。これは「われわれ」の宿痾である。それが増悪すると、彼らが「奴ら」とされ、ミサイルを落としてもよい連中だとされてしまう。このような彼らの「奴ら化」をいかに防ぐべきか。一つの鍵は、やはりできなさにある。「わたし」一人ではできないことでも「われわれ」ならできる。だがここでの「われわれ」は、特定の社会集団どころか人類すら超え、生態系や宇宙にまで拡がっている。この「われわれ」はまた、その境界を明確に画定できないという意味で「開かれたWE」でもある。境界づけられた「閉じたWE」―家族であれ近代国家であれ―は、ここで言う「われわれ」ではない。閉じたWEの外側には、つねに一定の行為にとって不可欠なエージェントたち、より広い「われわれ」が拡がっているのである。閉じたWEは、その外側にいるエージェントを必要とする。「わたし」と同様、閉じたWEも単独では何事も為すことができない。単独行為不可能性という根源的できなさは閉じたWEにもつきまとう。閉じたWEが神話であるのと同様、その存在を抹消しても「わたし」や「われわれ」が自足的に行為し続けうる奴らなるものも幻想にすぎない。ウクライナ戦争の惨禍を前に、僕たちはこのことを改めて思い起こすべきなのである。

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