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榎本空 黒人神学とあなた 【『図書』2022年8月号より】

黒人となるとは、自分の心、魂、思考、そして身体を、奪われた者たちの生きる場に置く、ということである。--James H. Cone,Black Theology and Black Power
 
 日本にあって、どうしたら黒人神学を近くに感じることができるだろうか。そんな問いは、黒人神学の泰斗、ジェイムズ・H・コーンの遺作である『誰にも言わないと言ったけれど』(二〇二〇年、新教出版社)を訳して以来、幾度も問われたことがある。二〇二二年五月一四日、ニューヨーク州バッファローのスーパーで一〇名もの命を奪った銃撃事件を駆り立てた憎悪と人種主義も、Mr. Morale & the Big Steppersでケンドリック・ラマーが頭にかぶった荊冠(けいかん)も――私はこれを、ヒップホップの誠実なフォロワーではないことを恥じらいとともに告白しつつ書くのだが――、どこか遠い日本にあって、なぜ黒人神学なのか。
 
 アメリカにいた私は、うまく答えられないでいた。そのような問いに答えようとして、いや実は皆知らないかもしれないけれど、コーンの神学はブラック・ライヴズ・マター運動を理解する上で不可欠でねなどと、彼の思想をわけ知りに、魔法の杖のように振りまわすことはしたくなかった。
 
 結局のところ、私と黒人神学やコーンとの出会いはきわめて私的なものであって、その次元において必然性や切実さをもっていたとしても、それを無理に一般化する必要があるようには感じられなかったのだ。だから『それで君の声はどこにあるんだ?』(岩波書店)は、黒人神学と私の近密な関係を、親しい友人にただただ語るように書いたつもりだ。それで十分だと思った。
 
 しかし、山間のウグイスが長閑(のどか)に鳴く日本に帰ってきた今、同じ問いは、まさに自分が否応なく向き合わざるを得ないものとして目の前にあるようだ。時差ボケでぼんやりとした頭で、私は思う。黄色いスクールバスから転がるように降りてきて、グランマの胸に飛び込んだ黒人の男の子の後ろ姿。ガソリンスタンドで給油中、向かいでノズルを握っていた背の高い黒人女性。アフロをなびかせたその女性と、最近ガソリンが高すぎる……と愚痴をひとしきり交わしたこと。そんな記憶が徐々に鮮明さを失っていくなか、私は黒人の苦しみや抵抗という言葉を、以前と変わらぬ具体性をもって語ることはできるのだろうか。そしてもしそれが困難なのだとしたら、私はいかにしてこの日本という地で、コーンの炎を燃やし続けていくことができるのだろうか。
 
     *     *     *
 
 ここで想起したい一つの歴史の瞬間がある。一九七五年五月のこと、コーンは在日大韓基督教会の招きによって、来日した。一カ月弱の短い滞在中、彼は多くの講演や説教をこなし、在日コリアンのキリスト者や黎明期の「民衆神学」と出会い、大統領緊急措置第九号布告(一切の政権批判を禁じた)直後、軍事独裁政権下の韓国を訪れている。
 
 もっとも、コーンにとって日本や韓国への旅は、決して必然性が感じられるものではなかったという。米国における人種差別の現実とその抑圧からの解放運動という、非常にローカルな状況への応答として生まれた黒人神学が、そこから遠く離れたアジアで、なぜ学ばれなければならないのか。コーンはわからなかったのだ。しかし彼の不安は、すぐ杞憂に変わる。在日コリアンのキリスト者が同じ黒人霊歌を異なる言葉で歌い、解放者なるイエスの姿を祈り求めている姿と出会ったコーンは、こんなことを書いている。
 
 「日本において、当地のコリアンの経験と米国黒人の経験の類似性を感知することは、難しくなかった」(Virginia Fabella, ed, Asia’s Struggle for Full Humanity, Orbis Books, 1980, p.179)
 
 コーンが感知したのは、奴隷制のその後の生を生きる黒人と、植民地支配のその後の生を生きる在日コリアンとのあいだの、歴史経験の共鳴であろう。自らの土地にあってよそ者とされ、使い捨て可能な商品とされ、取替え可能な部品とされる。彼らはともに、奪われるという経験を唯一の相続物としてきたのであり、そのような歴史経験こそが、これら二つの場をつなぐ回路となったのだろう。
 
 コーンの神学はこの小旅行を一つの契機とし、それまでとは違った拡張性をもつようになる。それは確かに、黒人の解放を一義的な目的としていたが、エキュメニズム(キリスト教の教派を超えた一致をめざす運動)を背景としつつ、他のアジアやアフリカ、ラテンアメリカの解放の神学との対話を通して、彼の神学は米国の社会的文脈のみには収斂(しゅうれん)され得ない越境性を獲得していくのだ。
 
 黒人神学のダイナミックな瞬間は、コーンの思想形成において周縁的に扱われることも多いが――彼の神学にとって決定的なターニングポイントとなったのは国内の黒人神学者やウーマニスト神学者からの批判だとされる――、しかし私はこの瞬間もまた、黒人神学にとっての後退不能な一歩として受け止めたい。彼が黒人という言葉を使うとき、私は誤解を恐れずに書くのだが、それは単純に肌の色だけを指しているのではない。多様な肌の色をした人々が参与し得る回路が、コーンの言葉にはきっと無数に開かれている。
 
 もちろん、コーンと日本の出会いは、一方通行ではなく相互的なものであった。それを何よりも雄弁に体現するのは、彼の来日を準備した在日コリアンの牧師、李仁夏(イ・インハ)だろう。彼が牧会をしていた在日大韓基督教会川崎教会を中心とした川崎の在日コミュニティの闘い――特に一九七〇年代前半の日立就職差別裁判がよく知られている――と黒人神学の邂逅については土屋和代の優れた論考(「「黒人神学」と川崎における在日市民運動」樋口映美編『流動する〈黒人〉コミュニティ』二〇一二年、彩流社)が、李仁夏亡き後の教会の痛みと、彼の意思を次代の在日コリアンが持続させることの困難と複雑さについては、磯部涼の身を切るようなルポタージュがある(「移民とラップ 第二回 川崎を歌う」『文藝』二〇一九年冬季号)。これらを読むと、日本において黒人神学はすでに出会われ、出会われ続けてきたのだと納得させられる。
 
     *     *     *
 
 そう、私が日本でコーンを読むことの意義を思い巡らすずっと以前から、黒人神学は日本にあって出会われてきた。黒人神学を、その地理的な距離にかかわらず不思議にも近くに感じ、それと格闘し、自分たちの声としてきた人々がいた。そんなある種当然の気づきの前に、私は今一度、身を正すような気持ちになる。結局のところ、黒人神学は狭義の学問にも紋切り型のキリスト教信仰にも包含し得ない過剰を孕んでいて、それこそが異なる場と時にあって共鳴を生むための条件だったのだろう。
 
 拒否すべきは、その神学を強情な教条主義と硬直した護教主義に押し込むことであり、同時に真摯に学ばれなければならないのは、この神学がいかにして様々な場にあって生きられているのか、ということなのかもしれない。
 
 川崎だけではなく、被差別部落においても、沖縄においても、また他の人々が人間となることを求めて闘っている場においても、黒人神学の痕跡を見つけることは難しくない。もちろんコーンの神学は、ブラックボックスの中を通過するようにして単純に再生産されるのではなく、それぞれの歴史的に固有な場における創造的で批判的な対話の中で揉まれ、再解釈され、人々の声の一部となっている。
 
 それを「状況化された知」と名付けたのは、フェミニストのダナ・ハラウェイだった。おそらく、これからの解放の神学者たち――そんな人々がどこかにいるのだと信じたい――に求められる重要な仕事とは、神学は歴史的に固有な場への参与から生まれるセカンドステップであるという、解放の神学の古典的なテーゼを覚えつつ、そのような状況知の限界と可能性をエスノグラフィックに描き出すことなのだろう。
 
     *     *     *
 
 黒人神学が生きられてきた場を学び直すこととともに、黒人神学が日本において出会い損なわれてきた歴史をも心に留めたい。一九七五年、黒人と在日コリアンの経験との間に共鳴を聴いたコーンは同時に、日本人神学者の聴衆と白人との間の共通性を見抜いている。
 
 「日本人は優越的な態度を保持し、被抑圧者にどう向き合うべきかという彼らの問いは、米国白人のそれと酷似していた。ほとんど例外なく、教会でも神学校でも大学でも、日本人キリスト者は、キリスト教信仰における解放を強調することに反感を示し、ヨーロッパや米国の支配的な神学を分析することにより興味をもっていた」(Fabella前掲書p.179)
 
 コーンさん、あなたの神学には、罪と赦しの概念が欠けているようですね。カール・バルトが論じる神と人間の関係について、あなたはどうお考えですか? 彼らにとって黒人神学とは遠くの思想であり、新奇な神学として消費することはあっても、自らの生をもって応答せざるを得ない切迫さをもったものではなかったのだ。
 
 もっとも、コーンと再び出会い直そうとする私たちの多くにとって――それは神学者でも、またキリスト者でもない人がほとんどだろう――彼の言葉が無視できないのは、それが私たちの痛みの多い現在に対して、不思議な説得力を伴って響くからではないか。
 
 人種とは、私たちと彼らを分けるための言葉であり、その彼らを他者として、人間以下の存在として扱うことを可能にするための言葉である。それが単純に米国の白人と黒人の間だけではなく、グローバルに配置されていることを口酸っぱく強調したのはブラックスタディーズの古典であるThe Racial Contractを著したチャールズ・W・ミルズだが、ますます苛烈さを増す私たちと彼らの境界にあって、誰かが少しでも自分の存在を疑っているのだとしたら、黒人神学の言葉はそんなあなたのためにあると思う。
 
 差別も戦争も、憎悪も無関心も、もうたくさんだ。終わりに向けて着実に突き進むこの日暮れの社会で、私たちは、せめてこの命を祝いたい。コーンの言葉は決して魔法の杖ではないのだけれど、それはあなたが生き延びるためのレパートリーのひとつとなるかもしれない。そんな言葉が、私たちにはもっと、もっと必要だ。
 (えのもと そら・神学・人類学) 

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