思想の言葉:大村敬一【『思想』2022年10月号 小特集|マルチスピーシーズ人類学】
【小特集】マルチスピーシーズ人類学
思想の言葉 大村敬一
マルチスピーシーズとは何か? 近藤祉秋
〈対談〉「人間しかいないわけではない世界」の人類学 久保明教・近藤祉秋
樹上性マイマイ宣言(上) マイケル・ハッドフィールド+ダナ・ハラウェイ
多種(マルチスピーシーズ)民族誌から「地球の論理」へ 箭内 匡
人間以上にリメイクされる自然──『マツタケ』以後のアナ・チン、フェラルなものの人類学 奥野克巳
埒外の生態学にむけて──寄生と依存が生み出す社会 内藤直樹
複数種と「奥山」をめぐる思考──猟師・イノシシ・ウイルス,その目線の先へ 北川真紀
マルチスピーシーズとの協働デザインとケア 川地真史
フロイトのダイモーン(下)──転移の彼岸における神話と思弁 上尾真道
「近代」と呼ばれる世界が全地球を覆い尽くし、もはやその外はなくなってしまったとよく言われる。近代の内と外を行き来しつつ、その内外の論理を自らの身を以て交錯させることで、近代批判を試みつづけてきた人類学者ほど、そうした現在の時代状況を痛切に実感している者はいないだろう。しかし、近刊予定の『「人新世」時代の文化人類学の挑戦―よみがえる対話の力』(大村敬一編、以文社)に示されているように、そうした近代の世界も所詮はネットワークでしかなく、すかすかの隙間だらけであり、その隙間では近代の論理でとらえることができない多様な非近代の諸世界が息づき、その隙間から近代にさまざまなかたちで働きかけつつあることを示してきたのも、人類学者である。
たとえば、私がそうした人類学を実践するにあたって、お世話になってきたカナダ極北圏の先住民、イヌイトの場合、一見すると、近代国民国家と資本制経済の世界システムに同化・統合され、すっかり近代のグローバル・ネットワークに呑み込まれてしまっているように見える。極北圏の領有を国際的に確立するためにカナダ連邦政府が第二次世界大戦以後にすすめた国民化政策のもとで、イヌイトが定住するようになってすでに半世紀以上。学校教育制度、医療・福祉制度、法制度、貨幣制度などの浸透を通してカナダという国民国家に統合され、毛皮や手工芸品などの販売や賃金労働を通して資本制経済の世界システムにますます依存するようになり、マス・メディアを通して流入するカナダ主流社会の消費文化の波に洗われてきた今日のイヌイト社会に、かつて狩猟採集民の典型として知られた生活様式の面影は薄い。獲物を追って季節周期的な移動生活を営んでいた時代は、もはや古老の記憶を通して語られる過去の物語である。
むしろ、今日のイヌイトは私たちと変わらない高度消費社会に生きるようになっている。スノーモービルや高性能ライフルで、狩猟・漁労・罠猟・採集からなる生業活動は高度に機械化され、セントラル・ヒーティングで暖められた家屋には、冷凍庫や冷蔵庫、洗濯機や乾燥機をはじめ、パソコンやケーブル・テレビ、DVD、スマホなどの電化製品が溢れている。行政村落に設けられた発電所は二四時間稼働し、航空機や砕氷貨物船の定期便で、ハンバーガーやピザ、チップス、清涼飲料などの加工食品をはじめ、「南」で生産された物品が運び込まれ、スーパーマーケットでいつでも購入することができる。子どもたちは日本のアニメに夢中になり、若者たちはインターネットでの通信販売に狂奔する。多くの熟練ハンターは政府のオフィスや工事現場などでの賃金労働を兼業し、カナダ政府からの福祉金や交付金、公共事業に依存しており、ニュースで報じられるカナダの政治・経済、さらにはグローバルな政治・経済の動向に一喜一憂する。
一九八九年にはじめてイヌイト社会を訪れた際、こうした状況に直面して私が実感したのは、圧倒的な勢いで迫ってくる近代の世界にイヌイト社会も従属的なかたちで呑み込まれてしまっているということだった。しかし、それ以来、三〇年にわたってほぼ毎年、彼らのもとに通ってその自宅に下宿しながら、イヌイト語をはじめ、その生き方を学びつづけるなかで、彼らが完全に近代の世界に同化・吸収されてしまったわけではないことがわかってきた。近代の論理とは異質な存在論の指針のもとに、狩猟・漁労・罠猟・採集によって獲得された食料などの生活資源を分配して消費する諸活動によって、イヌイト同士の関係と野生動物との関係からなる秩序を不断に生成・維持する生業システムを核に、イヌイトは「大地」(nuna)と呼ばれる自らの世界を維持しつづけているからである。イヌイト社会に圧倒的なかたちで覆い被さっている近代のグローバル・ネットワークのもとにあっても、そこに完全に併呑されることなく、その隙間をうまく利用しながら、そのネットワークと折り合いをつけることで、イヌイトは近代の世界と「大地」という自らの世界の両方を股にかけ、いわば二重に生きているのである。
もちろん、何の努力もなしに、こうした二重に生きる生き方をイヌイトが実現することができたわけではない。それは、一九七〇年代からつづく先住民運動の努力の成果であった。その運動を通して、カナダ連邦政府と粘り強く交渉し、土地権や生業権、言語権、教育権などの先住民権を部分的に回復するとともに、極北圏の環境汚染を抑えるために国連や国際環境NGOに働きかけることで、自らの「大地」を持続的に生成するために不可欠な生業システムを守ってきたからこそ、可能になったことであった。しかも、その先住民運動の過程では、近代とは異質な論理に従う自らの世界を守るだけでなく、そのために、他の多様な先住民と連帯しながら、カナダの政治制度や法体系、さらには国際的な政治・経済の枠組みなど、近代を支える論理や制度を問い直すことで、近代の世界を多様な非近代の世界と共存するように少しずつ変えてゆくことも試みられてきた。
こうした先住民運動の動向、すなわち、圧倒的な力で迫る近代の世界に受動的に抵抗するのみならず、その近代の論理や制度に能動的に働きかけることで、多様な諸世界の共存に向けて近代の世界に変革を求める動向は、イヌイトに限られることではない。こうした動向は、マリソル・デ=ラ=カデナやマリオ・ブレイザー、アルトゥーロ・エスコバル、アナ・チンをはじめとする人類学者たちが示しているように、今や全地球を覆い尽くしたグローバル・ネットワークに遍在する隙間のそこかしこで静かに燃え拡がりつつある。相も変わらず「一つの世界だけからなる世界」(one-world world)を目指して猪突猛進するなかでグローバル・ネットワークの網の目を稠密にしながら、その隙間を必死に埋めて自らの支配と管理を徹底してゆこうとする植民地主義的で暴力的な近代のプロジェクトに対して、そうした近代にまつらうことなく、その隙間でしぶとく息づきつづけながら、「プルリバース(複数世界宇宙)」(pluriverse)や「多数世界からなる世界」(world of many worlds)、「多としての世界」(world multiple)を目指して静かに反旗を掲げる人びと。こうした人びとは、近代の秩序にまつらうことなく、その支配と管理から溢れ出しながら、そのしぶとい生存それ自体でもって近代の「一つの世界だけからなる世界」の理想に静かに変革を求めているという意味で、近代にとって過剰なる他者であると言えるだろう。
ここで重要なのは、こうした近代にとっての過剰な他者は人間に限られるわけではないことである。人類の活動が地球の活動に思わぬ影響を与え、その影響が人類の活動に思わぬかたちで跳ね返ってくる、しかも、そうした人類と地球の活動のもつれ合いが人類の制御や管理を超えてしまっているという事実が、「人新世」というキーワードのもとで今さらながらに再認識されている現在、地球それ自体をはじめ、地球に棲まう多様な生命体たち、さらには人類が生み出した機械たちも、近代の支配と管理をはるかに凌駕する過剰な力に溢れた他者として立ちあらわれているからである。人工的に生み出された大量の汚染物質の地球環境への拡散と蔓延、地球温暖化をはじめとする急激な気候変動、六度目の大量絶滅とまで言われる生物多様性の急速な激減、思いもよらぬ病原体によるパンデミックなどの衝撃的なかたちで、こうした近代にとっての過剰な他者たちは、近代の支配と管理が隙間だらけであるだけでなく、その隙間を埋めて「一つの世界だけからなる世界」を実現することが見果てぬ夢でしかないことを教えている。この意味で、私たちが生きている二一世紀は、人間だけでなく、非人間も含め、近代の世界の支配と管理にまつらわぬ過剰なものたちが、その隙間で跳梁跋扈しながら溢れ出し、近代の「一つの世界だけからなる世界」のイデオロギーに方向転換を求めている時代であると言えるだろう。
それでは、そうした過剰なるものたちが近代の世界にその隙間から投げかける問いに、私たちはどう応えてゆけばよいのだろうか。この問題を考えるときに重要なのは、近代の限界と暴力的な支配と管理の弊害が明らかになった今日の時代にあって、その隙間を埋めて「一つの世界だけからなる世界」を実現することを断念するべきであるとしても、長大なネットワークを拡張することで多様な諸世界を繫げる近代の力能までも否定されるべきではないことである。私たちが問い直さねばならないのは、その力能に結びつけられてしまっている植民地主義的で暴力的な独りよがりのイデオロギーであり、多様な諸世界を繫いでゆく力能それ自体ではない。むしろ、アナ・チンが『マツタケ―不確定な時代を生きる術』(赤嶺淳訳、みすず書房)で示したように、その力能を活かしつつ、すかすかのネットワークでありつづけながら、その隙間で多様な諸世界がさらに増殖して豊かに開花するように助けることで、近代の世界は「プルリバース」あるいは「多としての世界」を実現するための苗床になってゆくべきなのではないだろうか。
あるいは、そうして増殖した多様な諸世界のなかには、現在の私たちには想像することもできないほど、奇怪でおぞましく変質してしまう世界もあることだろう。たとえそうであっても、そうした世界を含め、人間と非人間が生み出す多様な諸世界のすべてを肯定し、それら多様な諸世界を繫ぎながら、それらがそれぞれに特異な世界として成長しつつ相互に律し合う場に、近代のグローバル・ネットワーク自身がなってゆくべきなのではなかろうか。そうした諸世界の誕生と成長の苗床として生まれ変わったとき、グローバル・ネットワークを運営する近代のプロジェクトの目的は、人間と非人間が生み出す諸世界に奉仕し、その多様性を増大させながら、多様性という真なる普遍を実現してゆくことになるにちがいない。そのとき、そのプロジェクトに参加する私たち近代人は、その苗床をより豊かにする肥やしとして働くことになるだろう。そうしたプルリバースの苗床の肥やしに徹し、過剰性を愛することこそ、今、私たちに求められていることなのかもしれない。