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思想の言葉:OKI【『思想』2022年12月号 特集|北海道・アイヌモシㇼ──セトラー・コロニアリズムの150年】

◇目次◇
 

【特集】北海道・アイヌモシㇼ──セトラー・コロニアリズムの150年

思想の言葉 OKI
主権と無主地──北海道セトラー・コロニアリズム 平野克弥
政治的想像力としての「北方」──河野広道の北方文化主義と北海道独立論 葛西弘隆
思想として消費される〈アイヌ〉 石原真衣
いま,戸塚美波子「1973年ある日ある時に」を読む マーク・ウィンチェスター
ヒロインとしてのアイヌ──「ゴールデンカムイ」における傷の暴力 内藤千珠子
劇映画におけるアイヌ表象──内田吐夢『森と湖のまつり』(1958年)と成瀬巳喜男『コタンの口笛』(1959年)を中心に  鳥羽耕史
「消されぬ毒」──北海道における使い捨ての未来と先住民族の土地との関係性 アンエリス・ルアレン
「犠牲区域」から拡がる環境危機──先住民研究の知見と,紡がれる関係性のなかで 石山徳子

 
◇思想の言葉◇
 
民族と呼ばれて
OKI

 イランカラプテ……静かな電車内に車掌の低い声が響く。アイヌ文化に親しむために「ニーハオ」みたいな軽い意味でアイヌ語を使っているだけなのだが、このアナウンスが流れてくるとつい身構えてしまう。気配を消したい気分になるのだ。旭川で電車を乗り継いだ隣町に我が家がある。農業中心の町だが、移住者も多くなってきた。お父さんが新冠のアイヌでお母さんがフィリピン人という若者が引っ越してきた。これでこの街はアイヌが二世帯ということになる。この街が気に入って引っ越してきただけでここは昔からアイヌの村があった場所ではない。アイヌ人口の多い阿寒や白老とは環境が異なるのだ。私がアイヌでミュージシャンだということは知られているけれど周囲に溶け込んで普通に暮らしている。町内会では持ち回りで役職が回ってくるが私は神社委員を担当している。

 二年前にオープンしたアイヌ国立博物館ウポポイの宣伝効果だと思うが北海道は今もアイヌブームが続いている。北海道の地方新聞には毎日のようにアイヌの記事が載っているのでみんなウポポイのことは知っていた。隣の農家のおじさんとの会話にもウポポイが登場した。各方面から批判もされているウポポイだが国立の博物館ができたことで北海道の中でのアイヌのステータスが少し上がったと感じた。ひっそりとしていたものに光が当たった感じだ。

 TVをつけるとアイヌを題材にした映画を複数製作中というニュースをやっている。どの映画も主役はアイヌではなさそうだ。アイヌを出演させろという声もあるがこのご時世、アイヌが出演しなくても気にしない映画には怖くて出られない、様子を見ようという声が多い。それはある種悔しい思いでもある。自ら脚本を書き監督をした自分たちの映画を作れないアイヌがそもそも問題なのだ。私が監督ならアイヌの銀行強盗の話にする。シャモ側三〇人、アイヌ側も確実に三〇人は死ぬ。役者には事欠かない。

 先日妻が腰痛を患いあまりの痛さにペインクリニックに行った。優しいおじいちゃん先生だったそうだが、先生にはなんとアイヌ民族否定論者という別の顔があった。「アイヌ先住民族、その不都合な真実」、「国立アイヌ民族博物館は反日勢力との関係が深い噓と捏造にまみれた利権団体」、「アイヌ団体と背後にいる北朝鮮による地方自治体乗っ取り計画」という内容の本を出版している。本の中の先生のアイヌ嫌いは相当なもので妻がアイヌだと知ったら治療方法が変わるのか気になる。

 

 アイヌ協会の前身であるウタリ協会は一九八九年からアイヌ文化祭を始めた。プログラムは「アイヌ文化とはこういうものです」という和人学者の基調講演の後に「今のアイヌの人たちはこんな感じです」といった感じで伝統の踊りや歌、アイヌ語劇などを披露する構成になっている。なんとも植民地主義的な構成なのだが、私たちはそんなことは気にせず文化祭、そしてアフターパーティを楽しんだ。毎年会場となる地区が変わるので普段会えないような人にも会うことができた。

 アイヌという言葉を聞く機会は格段に増えたがほんの十数年前までは自分たちのことをウタリ(仲間、同胞)とも呼んでいた。ウタリとは喜びも悲しみも愛も憎しみも全部混ざったような響きだと思う。民族というくくりではない何かを感じる。

 一九九〇年代にアイヌ文化に特定した法律が制定されたのをきっかけにこれからはアイヌと堂々と名乗ろう、ということでウタリ協会もアイヌ協会に名称変更となった。その後文化祭はアイヌ民族文化財団が引き継ぎ文化普及をテーマに年に数回、全国の都市の比較的大きなホールで開催されるようになった。基調講演、保存会の踊りという過去のアイヌ文化祭の構成はそのままに一般市民向けの啓発イヴェントに変容した。時代が変わったのかもしれないが文化祭のアイヌの社交の場としての役割は終わった。広めることと深めることは違うのだ。

 そのことに気づかされたのは太平洋を臨む日高、三石で開かれたアイヌ音楽祭だ。三石は日高山脈を背にした昆布の産地としても有名だが歴史も興味深い。一七世紀に川の西側を仕切っていた幕府お味方アイヌのオニビシとシャクシャインの抗争が松前藩を巻き込んだ戦争に発展した。シャクシャインの砦は静内川の東岸にある。三石も東のシャクシャイン側だ。

 

 三石アイヌ協会会長の「アイヌ・ミュージック・フェスティバルをやるぞ!」の一声で個人やグループ活動している六組のアーティストが選ばれた。伝統を演じる保存会の参加がないのは新しかった。研究者の基調講演もない。私は舞台の制作を担当することになった。今年一〇月二三日、ホールは開演時間になっても着席できないほど超満員だった。日高はアイヌが多い地域なので多くのアイヌが駆けつけてくれた。アイヌ語の先生も来ている。実はアイヌや先生の前で歌や演奏を披露するにはちょっとした覚悟がいる。昔のアイヌが偉大すぎて今のアイヌは先祖の創作したものを越えられない、自分は大丈夫なんだろうか?アイヌ語は間違っていないか?自分たちにかかる重圧をはねのけながらのステージになるからだ。それでも歌が始まってしまえば歌い手は駆けつけた親戚のおばちゃんの声援に励まされ、拍手喝采を浴び心配しすぎていたことに気づくのだ。

 フィナーレの歌合戦では樺太アイヌの弦楽器トンコリのリズムに合わせて全員で思い思いの各地域のアイヌの歌を繫いでいった。各アーティストの個性は強く表現方法も様々だけれども私たちには共通のアイヌという基盤がある。全員で歌を紡ぐことで私たちは基盤を再確認しその思いは観客席とも繫がっていった。近年は各種キャンペーンに駆り出されることの多かったアイヌだがここでもう一度アイヌ文化は誰のものなのかを考え直しても良いのではと思う。しばらくの間自分たちが楽しむのを忘れていなかったか?アイヌ音楽祭は久しぶりにウタリらしいウタリのためのお祭りだった。

 

 終演後ロビーで記者が何曲演奏したのか尋ねてきたが、そこは全然大事じゃないしどうせ記事には載らないのでそれには答えずに「アイヌ民族の音楽、魂を揺らすってタイトルになるんですよね」とジョークで返した。翌日新聞に載ったタイトルは「アイヌ民族の歌、演奏 心震わす」だった。四〇〇字ほどの記事に記者によるコンサートの内容の説明は「最後に出演者らが一緒にムックリを演奏したり歌ったりした」と三〇文字程度。確かに歌ったり踊ったりはしたが、高学歴であるはずの新聞記者がなぜこのような底の浅い書き方をするのか不思議だ。「このメンバーが一同に集まるのはレア」というお客さんの感想を実名入りで載せるくらいなら記者自身の観て感じたことを書けばいいのにと思うのだ。

 北海道新聞にはアイヌ関連の報道には必ず「民族」と表記する決まりがある。アイヌと呼び捨ては失礼ということらしい。例えば私が記事になるとすると「アイヌ民族のトンコリ奏者」となる。こんな大げさな文字が新聞に載るのは田舎で普通に暮らしている自分にはいささか居心地が悪い。「大和民族の歌手◯◯◯◯」とは普通書かないだろう。新聞はアイヌ民族と表記することを決めたばかりに民族に忖度して均一化した報道をすることになった。

 

 先住民族という表現は国連で一九九〇年代に一〇年にわたって開催された先住民族作業部会でも議論された。先住民ではなく複数形の「先住民族」と名乗って集団の権利を獲得する道筋を作ろう。俺たちは民族だ、民族のように存在しにくいのは同化の圧力のせいだ。民族として認められ民族らしさを取り戻したい。そのためには土地、漁業権なども返して欲しい、それは自らが放棄したものではない。同化のために民族の活気を失ったのだ。だから政府は反省し環境を整えて欲しいと先住民族側は訴えた。世界の先住民族の発言力が増してくると日本政府は日本にはアイヌなどいない、いるのはウタリ民族だなどと苦しい言い訳を言っていられなくなり、アイヌを先住民族と認めることとなった。新しいが制定されても不十分と批判されるのは先住民族の基本的な権利行使が文化に限定されているからだ。実は新聞が私たちを民族と呼ぶほどアイヌは先住民族の権利を行使していないのだ。

 

 漁業権を主張している地域もあるがアイヌ全体が自治権を含めた権利を行使したいと思っているのかというとそうでもない。一九九二年一二月一〇日国連総会「世界の先住民の国際年」記念演説でウタリ協会の野村理事長は国からの分離独立はしないが民族自決権を要求すると演説した。ところが一九九六年、野村理事長の突然の辞任の後、自民党系の新理事長が就任するやいなや突然アイヌ文化振興法が制定された。それはアイヌがそれまで主張してきたものとは違いアイヌ文化の啓発に限定された法律だった。アイヌ親分衆は自治権獲得という気の遠くなるようなテーマより文化に限った法律を受け入れた。野村理事長の時代はアイヌが一つになろうとしていたが今はアイヌが多く住む各地域の個性が際立ってきたように感じる。これは先住民族の権利の主張が影を潜めアイヌは骨抜きにされたように見えるがそうではない。ここにはアイヌ流サヴァイヴァルの極意がある。アイヌは生き延びるためにアイヌと名乗ることもアイヌ語も一度は捨てた民族なのだ。不満はあるが波風は立てずに新しい法律を受け入れよう、先ずは先祖がいちど遠ざけたアイヌ文化を取り戻そう、そこから次のことを考えようという道筋が生まれたのだ。私たちは変化を受け入れながらもしたたかに生きて先祖の残したものを伝え続けるだろう。

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