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中森弘樹 社会人未経験者、社会人に社会学を教える[『図書』2022年12月号より]

社会人未経験者、社会人に社会学を教える


 私が、立教大学の21世紀社会デザイン研究科の教員になってから、今年で四年目になる。同研究科は、社会デザイン学──多様性に富んだ、持続可能な共生社会を創成するために必要な思考と実践に関する学──の旗印のもとで、人文・社会科学を中心とした学際的な教育・研究活動を行う大学院である。

 もう一つのユニークな特徴は、同研究科が「社会人大学院」であるということだ。全ての学生が現役の社会人というわけではないものの、授業の時間割が平日の夕方以降や土曜日に設定されていたり、リモートと対面の両方で受講可能になっていたりと、働きながら学生生活が送れるような工夫がなされている。

 こうした社会人をメインターゲットとする理念は、教員の顔ぶれにも反映されている。ゼミを受け持つ教員は、みな、 後に、社会的/学術的に優れた業績を挙げた者たちだ。……ただ一人、私を除いて。

 私自身が、社会人になるかの岐路に立っていたのは、今から一五年ほど前のことだ。当時、大学四年生だった私は、就職活動を始めた同級生たちを目の当たりにして、社会人になるか/大学院に進学するか、という選択を迫られていた。そのとき、ちょうど「大澤真幸の社会学」に魅せられていた私は、自然に進学を選択した、ことになっている。

 けれども、私のなかでの実情は違っていた。私には、社会人になるというハードルは、あまりにも高すぎた。私は、就活生や社会人が怖くて、面接はおろか、企業の合同説明会にすら行けなかった。つまり、就活で失敗する以前に、その土俵に上がることすらできずに挫折していたのだ。私の脳裏には、「社会」への畏れが、深く刻まれることになった。

 ともあれ、大学院に進学した私は、 と思いながらも、徐々に、社会学の世界の片隅に馴染んでいった。幸運にも、奨学金や研究費に恵まれた私は、大学の非常勤講師以外のアルバイトをほとんどすることなく、気付いたら現在の所属先に拾われていた。かなり端折ってしまったが、「社会人経験のない社会人大学院の教員」の誕生である。

 こんな私が、社会人たちに、社会学を教えることになるのだから、そこで経験するのは苦難の連続だと思われよう。就職活動すらできなかった私が、「社会」の荒波を生き抜いてきた社会人たちに、「社会」について講義するのだ。野球部の練習についていけず三日で退部した者が、大人になってから甲子園常連校の監督になるようなものである。

 だが、その心配は、今のところ杞憂に終わっている。社会人の学生たちは、私の話を本当によく聞いてくれるからだ。特に、社会学の講義の評判は上々だった。典型的な反応は、「自分がずっと悩んでいた問いがはっきりした」「これまでのモヤモヤが晴れた気がする」──彼/彼女らは、「モヤモヤ」という表現を多用する──といったものである。

 以上は、自慢のために言っているわけではない。本題は、ここからである。というのも、社会人経験のない私が語る社会学の話が、社会人たちにここまで「ウケる」のは、実に奇妙な現象に思えるからだ。

 なぜ、そう思うのかについて説明するために、すぐに思い浮かぶ、私の話が彼/彼女らに「ウケる」理由の候補をいくつか潰しておく。

 まず、学生たちが、教員である私に建前として、講義が面白いと言っている可能性について(①権力説)。大学教員は、自身のもつ権力や権威に、絶対に敏感でなければならない。特に、「社会」の上下関係のなかで、一定の「礼儀」を身に付けている社会人学生と接するときは、なおさらである。一方で、社会人学生たちは、講義への要求水準が高いという側面もある。貴重な学費と人生の時間を費やして、あえて大学院で学ぶ/研究することを選択した彼/彼女らにとって、授業が無価値であることは許されない。だから、彼/彼女らの私の授業に対する反応が全て建前だとは思えないし、実際にこちらがダメなときは不満を言われることもある。

 次に、講義の内容よりも、単純に私の話術のスキルが高いという可能性はないだろうか(②漫談説)。これについては、私しか知りえない事情から、違うと言わざるをえない。というのも、前述のように、私はここにくるまで、普通の大学の非常勤講師をいくつか経験しているが、それらの授業はことごとく失敗続きだったからだ。よって、むしろ考えるべきは、「社会」経験の少ない学生には評判が悪かった私の講義ですら、社会人にとっては面白い話に化ける、その理由とは何か、である。

 いや、そもそも、社会学は社会についての学問なのだから、社会学の話が、社会人にとって参考になるのは当然ではないか(③社会学説)。だが、社会学が教える社会と、「社会に出る」というときの「社会」には、表面上はかなりの隔たりがある。後者の「社会」は、経済的に自立した個人が協力/競争して仕事をする世界のことを指している。こうした意味での「社会」を専門的に扱う社会学の分野は、労働社会学や産業社会学になるだろう。けれども、私が研究してきた対象は、人が消えてしまう「失踪」だ。もちろん、授業では失踪の話は極力控えて、もっぱら、行為やジェンダー、資本主義、近代化、親密性といった社会学の基本概念を扱ってはいる。とはいえ、社会問題を専門とする私に、会社の仕組みを、社会人以上に詳細かつ具体的に説明することは到底できない。

 では、逆に、学問としての社会学が語る社会が、「社会」で生きる社会人にとっては全くの異世界であるがゆえに、物珍しさで興味を持たれている、ということはないだろうか(④異世界説)。だが、社会人たちが見てきた「社会」と、社会学の語る社会が全く無関係であるならば、講義によって社会人たちの「モヤモヤが晴れる」ことはないだろう。

 以上のように、①―④の説では、私の講義で起きている奇妙な現象を、説明しきることはできない。そこで私が思い出すのは、大澤真幸がしばしば挙げてきた、社会学のプリミティブな営みの事例である。柳田国男の『遠野物語拾遺』にある、以下の説話を見てみよう。

 つちぶちとちないの久保の観音は馬頭観音である。その像を近所の子供らが持ち出して、前阪で投げ転ばしたり、またそりにして乗ったりして遊んでいたのを、別当殿が出て行って咎めると、すぐにその晩から別当殿が病んだ。巫女に聞いて見たところが、せっかく観音様が子供らと面白く遊んでいたのを、お節介をしたのがお気にさわったというので、詫び言をしてやっと病気がよくなった。この話をした人は村の新田鶴松という爺で、その時の子供の中の一人である。

 大澤によれば、この説話における巫女こそが、社会学の視点を体現している。たしかに、巫女は、第三者的な視点から、別当が病気になった原因を的確に言い当てている。けれども、ここで重要なのは、別当も病気の原因を、無意識のレベルでは「知っている」ということだという。別当は、当時の村落社会の一般的な規範にしたがって、観音像で遊ぶ子供たちに注意をしている。一方で、別当は子供たちと観音様が遊ぶことを叱ることに、「やましさ」も感じていて、葛藤している。そうでなければ、観音様の祟りでもないかぎり、別当が病んだ理由を説明できないからだ。よって、巫女は、別当本人もある意味ですでに知っていることについて、教えているに過ぎない。

 以上の大澤の議論を踏まえると、「社会学」とは、学ぶ者にとって全く未知の知識を与えるものではなく、「すでに知っているのに、知っていることに本人が気づいていないような物事を気づかせる」ための新たな視点(物事の別の見方)を授ける学問的な営みだということになろう。だとすれば、社会人未経験者である私の社会学の授業で、社会人学生たちが何らかの気づきを得るのも、説明可能なものとなる。それは、むしろ豊富な「社会」での経験によって、ある意味で社会について「知っている」彼/彼女らだからこそ、成立しうる現象なのだ。例の「モヤモヤ」も、「すでに知っているはずなのに……」という状態を形容する表現なのだろう。

 ただし、社会人未経験な私は、説話の「巫女」とは違い、社会人たちの悩みの原因を、的確に言い当てることはできない。私が行っているのは、社会学の基本的な概念の紹介だけである。ジェンダー、資本主義、感情労働、権力、文化資本、親密性……これらの概念を使って、社会人学生たちは、「社会」で経験してきたことを、以前とは違った形で捉える。社会学の知には、私たちにある種の反省をうながす性質が、「あらかじめ」そなわっているのではないかと思う。

 ところで、先に私は、自分自身が大学院に進学してから、ちょっとした違和感を覚えてきたと述べた。それは、社会学の世界で行われている研究が、かならずしも大澤のいう「巫女の視点に立つ」ものばかりではないように見えたからだ。説話にたとえるなら、病の当事者としての別当の視点に徹底的にコミットすることも、似たような経験をした別当をたくさん集めて観音像と病の関連性を調べることもまた、社会学の重要な営みである。現実的には、社会学者はかならずしも「巫女の視点に立つ」わけではない。

 だからこそ、かつて魅せられた「巫女の視点に立つ」社会学の営みが、自らの授業においてほんの一部でも再現されているのだとしたら、それは私にとってはこのうえない僥倖なのだ。授業というものは「水物」で、私の講義の評判もいつ転落するか分からない。よって、いま私が経験していることを、書き留めておこうと思った次第である。

 (なかもり ひろき・社会学)

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