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荻田泰永 知的情熱を体で表現する[『図書』2023年1月号より]

知的情熱を体で表現する

 

 まだ私が極地冒険と出会う前のこと。自分には何かできるはずだという根拠のない自信だけを抱えながら、自分がいる場所から一歩も動けずにいた大学生の私は、本の中に未知の世界を求めていた。

 思えば、活字を積極的に読むようになったのは中学生の頃。三年生の時の担任で国語を教える三上先生が、何かの拍子に私に本を貸してくれた。確か、日本人作家の推理小説だった。先生が面白いと言うのだから、きっと面白いはずだ。家に帰って読んでみると、物語に引き込まれた。本は面白いな、ということに気付いた瞬間だった。それから私は、少ない小遣いを本に注ぎ込んでいった。

 高校生になったある日、久しぶりに母校の中学校に顔を出した。放課後、女子ソフトボール部の顧問だった三上先生がちょうど校庭にいた。先生に声をかけ、高校はどうだとか言葉を交わした後に、私は最近読んで面白かった本は何かと先生に尋ねてみた。

 「井上ひさしの『吉里吉里人』が面白かったな」と言う。

 井上ひさしか、読んだことなかったな。私はすぐに本屋に走り、先生が教えてくれた『吉里吉里人』を読んでみた。まあ、これがべらぼうに面白い。自分の知らない世界がまた広がった気がした。それから、他の著者の本も読みながら、井上ひさしの作品を一つずつ読んでいった。

 大学生になった私は、自分の現状に悶々とした日々を送っていた。高校を卒業した惰性で大学に進学したものの、学業に対して目的意識を持てず、エネルギーを持て余していた。自分には何かできるはず、という自信は心の内側に感じている。しかし、その自信にはなんの根拠もない。走り出したいのに、走る方向も走り方も分からず、エネルギーだけが澱のように溜まっていた。

 そんなある日、立て続けに読んでいた井上ひさしの著作の流れの中で一冊の本に出会った。それが、江戸後期に日本中を歩いて測量し、日本地図を作り上げた伊能忠敬を描いた小説『四千万歩の男』だった。

 文庫で六百ページ以上、それが全五巻というボリュームに始めは怯んだが、読み始めた途端にその世界に引き込まれた。商人として生きてきた忠敬が、息子に家督を譲り隠居してから憧れの天文学を学び、やがて日本全国の測量に旅立っていく。長年の訓練で正確な歩測を身につけ、犬のクソも避けない愚直な一歩を重ねてやがてあの偉大な「大日本沿海輿地全図」に繋がる迫力に満ちていた。史実とフィクションをうまく織り交ぜながら、井上ひさしの軽快な筆致で、読んでいる自分も一緒に旅をしているような気になった。何か、親猫が子猫の首元を咥えてどこかへ連れていくように、井上ひさしに襟首を掴まれて物語の中に連れていかれるような感覚になった。

 これは面白い。夢中で読んでいくうちに、三千ページを超える大作をあっという間に読んでしまった。

 忠敬が作った地図というのは、ある意味で副産物だ。旅に出た大きな目的の一つは、地球の大きさを測ること。南北に離れたなるべく遠い二地点それぞれで北極星の高度を測り、またその二地点間の距離が正確に分かれば、地球の大きさが分かる。その科学的な疑問を解決するため、正確な地図を作りながら、なるべく遠い場所まで旅をする必要があったのだ。

 伊能忠敬の科学的な疑問に対する真摯な姿勢。それを自らの体を使って、小さな一歩の積み重ねで具現化していく過程。小説としての物語の面白さも相俟って、私は『四千万歩の男』に夢中になっていた。

 それからしばらくして、私は大学を中退する。いよいよ学校に通い続けることの限界を感じ、心の呪縛を断ち切った。大学を中退した四か月後、偶然テレビのトーク番組で見かけたのが、極地で徒歩による冒険を行う大場満郎という冒険家だった。北極や南極で、装備や食料を積んだソリを自力で引きながら、徒歩による冒険を行っているという。存在も初めて知った冒険家だった。最初は、物珍しさもあってテレビを見ていたが、そこで語られる極地冒険の世界が、なんとも不思議だった。何よりも、この冒険家と名乗る人物が不思議だった。なんでこんなことやっているのか? それをやったらどうなるのか? 全くよく分からないが、テレビから溢れ出てきそうな情熱と、打算のない言葉に説得力を感じた。

 「こんな人がいるんだ、凄いなぁ」

 そんな実感を覚え、偶然見ていた番組から目が離せなくなった。そして、その番組の最後で冒険家がこう言った。

 「来年は、素人の大学生くらいの若者たちを連れて、北極をソリを引いて一か月くらい歩こうと思ってるんです」

 それを見た私は「自分にも行けるのだろうか」と心の奥が熱くなるのを感じた。その日以来、冒険家の語った言葉が頭から離れず、とにかく連絡をとってみようと冒険家に宛てて手紙を書いた。

 その手紙がきっかけとなり、私は二〇〇〇年春に九名のメンバーの一員として、カナダ北極圏の小さな村にいた。初めての海外旅行。初めてのアウトドア経験。凍結した海氷上を七百キロ、三十五日かけて踏破する冒険行に参加した私は、翌年より一人で北極圏に通う日々が始まっていく。気がつけば、もう二十年以上が経過している。

 今から思えば、私は伊能忠敬のように極地を一歩ずつ歩いている。『四千万歩の男』に憧れ、その物語に心躍らせたものだったが、いつの間にか自分自身がその物語の中にいた。自分の足で、未知の世界を明らかにしていく素晴らしさを私の中に醸成してくれたのは、井上ひさしと伊能忠敬の存在だった。

 こうして極地冒険の世界に出会い、毎年のように北極に通い続ける日々の中で読み始めたのが、過去の極地探検家たちの遠征記録だ。そこで出会ったのが、極地探検記の古典にして名著、英国人探検家アプスレイ・チェリー=ガラードが書いた『世界最悪の旅』である。

 一九一一年十二月、南極点に人類初到達したのが、探検家アムンセン率いるノルウェー隊。それに遅れること一か月、一九一二年一月に英国のスコット隊が南極点に到達する。そこでスコットたちが見たものは、アムンセン隊が南極点に残したノルウェー国旗だった。苦難の進行の末に、南極点人類初到達レースに敗れたことを知ったスコット隊五名は、失意の中で帰路に着く。その行程も難渋を極め、やがてスコットら五名は帰路の途中で全滅。全員死亡という悲運に終わる。

 『世界最悪の旅』は、スコット達の帰りを、大陸沿岸の拠点基地で待っていた後方支援隊員のチェリー=ガラードが書いた、スコット隊に何があったのかを書き残した遠征記である。今から見れば粗末な装備で、世界最悪の題名の通りの壮絶な描写が続く。本書は、百年前の探検を詳しく残した名著であるが、名著である所以はチェリー=ガラードが本書の最後に書いた一文にある。彼はこう書いた。

 「探検とは知的情熱の肉体的表現である」。

 とかく、冒険や探検と聞くと疲れた、寒い、痛いという肉体的に表出される部分に目が向く。だからこそ、人々はなぜそうまでして極地に行くのかと問う。しかし、チェリー=ガラードはその肉体的な表出の前に知的情熱があるのだと書いた。何かを見たい、知りたい、謎を解き明かしたいという好奇心や科学的な謎に対して、身体を用いて向き合ったとき、それが探検になるのだと言う。

 これを読んだとき、私の中に『四千万歩の男』を読んだ時の感動が思い出された。忠敬もまた、科学的な謎に身体で向き合った探検家であったと気付いた。そして、この姿勢というのは人類が知恵を持つようになって以来、何万年も変わらず繰り返してきた営みなのであろうとも思った。翻って、科学的な謎に身体で向き合う姿勢をとるのは、人間だけであることにも気付いた。であれば、チェリー=ガラードの語る言葉とは、人間とは何者であるかをも語っている。

 「人間とは、知的情熱を肉体的に表現する生き物である」。私にはそう読めてくる。

 なぜ人間は冒険するのか、という命題はいつの時代にもあるものだが、私がそれに答えるならば「人間だから」となる。人間とはそういう生き物なのだ。時々、もう地球上に地理的な未知など存在しないのだから、冒険家や探検家のやることはない、という論調を聞く。確かに地理的な未知は無くなって久しいが、変化したのは人間を取り巻く時代の方であって、人間自身ではない。時代がどうあれ、いつの時代にも未知を求める人間は存在している。冒険や探検をすることを否定するというのは、人間が知的情熱を持つことへの否定である。つまりは、人間であることへの否定だ。この世がどれだけ進歩しようが、未知はなくならない。自分自身の視座を変えれば、常識などいくらでも造作なく覆すことができる。主体的な視座の移動、それこそが、冒険や探検が本来的に持つ根源の姿勢だ。

 私は、自分自身の視座を求めて冒険する。そして、本を読む。本の中には、百年前のチェリー=ガラードの視座があり、二百年前の伊能忠敬の視座がある。しかし、本に書かれていることはあくまでも著者の答えでしかない。本の中に答えを探すのではなく、自分自身の中にある答えに辿り着こうとする主体的な姿勢と、その好奇心を身体を通して表現することで、人間として真に生きるために、本を読み、冒険をする。かつて生き方に悩んでいた私は、いかに私という人間であるかに悩んでいたと言えるだろう。

 人間はなぜ本を読むのか。人間はなぜ冒険するのか。それは、人間だからに他ならない。

 (おぎた やすなが・北極冒険家)

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