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吉田篤弘 灰色の男の葉巻のけむり[『図書』2023年4月号より]

灰色の男の葉巻のけむり

 

 これは、「時間」と「心」による戦いの物語ではないかと思うのです。

 しかし、それにしても、おかしなもので、われわれは、「時間」も「心」も、一度として目にしたことがないのに、いつでも、そのふたつが自分のすぐそばにあると信じています。

 というより、このふたつは、本当のところ、あるのかないのか誰にも分かりません。しかし、「ある」と考えた方が、どうやら、この世のあれこれを理解しやすくなるようで、それで、誰も見たことがないのに、「ある」ということにしようと、いつからか、そう思い定めたのでしょう。

 では、どうしてそうなったのか──。

 『モモ』をひさしぶりに読み返しているあいだ、頭の中を駆けめぐっていたのは、この「どうして?」でした。

 この問いに対する自分なりの答えは、とてもシンプルなもので、すなわち、それらは目に見えないのだけれど、おそらく、「時間」と「心」こそが最も大事なものであると、われわれは知っているのです。

 それはつまり、そのふたつのどちらもが、われわれが「生きている」ことを示す拠り所になっているからではないでしょうか。

 「時間」と「心」の戦いと書きましたが、戦いというものは、さて、どうしてなのか、本来、ひとつであるべきものが起こすものです。ですから、この物語で語られる「時間」と「心」は、きっと同じものなのでしょうし、「時間」と「心」が結びつくところに、この物語の尊さがあるように思います。

 われわれは、なぜか、「心」のありかを自分の中にあるとみなし、一方、「時間」の方は、自分の外にあるとみなしているようです。

 これまた、おかしなもので、たしかに、「時間」を示す時計は自分の外にあるかもしれませんが、誰ひとりとして、「時間」そのものを見たことはないのです。見ているのは、あくまで時計であり、この錯覚によって、「時間」と「心」は遊離し、この物語においては、遊離した「時間」が灰色の男たちによって奪われていきます。

 目に見えないがゆえに、「時間」と「心」が入れかわっても誰も気づきません。その盲点を突いて、灰色の男たちは、「時間」の節約を提唱しつつ、実際のところ、人々の「心」を節約したのです。

 彼らは、人々から「時間」を奪い、そうすることで、もともと「時間」とひとつのものであった「心」までをも侵食していきます。

 それで、一体、どうなってしまうのか。

 案じることはありません。

 この物語が、どのような結末を迎えるかは、あらかじめ、本の表紙に記されていました。

 「時間どろぼうと ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語」

 まさにそのとおりの展開になり、最後は、「めでたし、めでたし」ということになるのですが、その名も「モモ」という桃色を想起させる女の子が──もしくは、『モモ』という一冊の本が──この世が灰色に染まっていくのを阻んでくれるのでした。おそらく、この本がここにこうしてある限り、灰色と化していく世界を桃色にひっくり返してくれるに違いありません。

 しかしです──。

 それは本当に、「めでたし、めでたし」なのか、この本を初めて読んだとき、少しばかり戸惑いました。

 というのも、そのころ──十代の終わりごろです──自分は演劇に夢中で、小さな劇場や移動式のテント劇場に足繁く通っていました。

 とりわけ、唐十郎率いる〈状況劇場〉のお芝居に心酔し、毎年二回の新作のみならず、過去の作品もすべて戯曲を読みあさったほどでした。

 精読してみると、いくつかの作品に共通する物語のパターンが見つかり、きわめて簡素に要約してしまうと、多くの作品に次のような展開が繰り返されていました。

一──町の片隅の誰からも忘れられたような一角に、ひとりのヴァガボンド──放浪者、もしくは浮浪者──があらわれます。彼あるいは彼女は、なんらかの理由で社会から疎外されていて、その理由は、彼や彼女が抱えている過去の因縁と関わりがあります。

二──彼らの夢や希望は、「時代の流れ」から取り残された、ともすれば非現実的なもので、しかし、そんな彼らに賛同する者があらわれたりします。と同時に、「時代の流れ」を振りかざして、彼らを駆逐しようとする者たちもあらわれます。

三──その対立と争いに巻き込まれる人々による事件、ロマンス、回想、思想──等々が渦巻き、思いがけない事実が明らかになっていきます。

四──そうした果てに、遂にヴァガボンドは「時代の流れ」と権力に屈し、夢と希望を奪われて挫折してしまいます。場合によっては、命を落とすこともあります。

五──しかし、彼らの夢や希望が、最後の最後に、儚い幻影となって顕現するのです。

 初めて『モモ』を読んだとき、ここに要約した物語の流れによく似ていると感じ、要約していない細部においても、共通するイメージが多々見つかりました。

 ただし、結末が大きく違っています。

 ヴァガボンドである裸足の少女モモは、物語の終盤で、この世の命運をかけた大変な重責を背負わされます。しかし、命を落とすようなことはなく、亀のカシオペイアにたすけられて、「時代の流れ」を見事に覆してみせます。モモは灰色の男たちとの戦いに勝利し、そこに、この物語のカタルシスがあるのですが、そこに勝者がいれば、かならず敗者がいるわけで、戦いに敗れることもまた、大きなドラマを生みます。

 とりわけ、演劇の場合、終演と共に観客は劇場の外へ送り出され、フィクションから現実への回帰をいささかの苦味と共に味わうことになります。それゆえ、カタルシスは、あくまでも幻影としてあらわれ、その幻想の残火を胸に宿して劇場を後にするというのが、敗者の物語の受けとめ方であると学びました。

 さらに言うと、それらの芝居においては、主人公であるヴァガボンドを追い詰める者たちが、悪魔の魅力とでも言うべきチャーミングとエロスを兼ね備えていました。彼らは権威を盾にして正論を突きつけながらも、ひとたび、その表層的な肩書がはがれ落ちてしまえば、彼らもまた、どことなくヴァガボンドによく似た面構えをしているように見えました。

 まさに、本来ひとつであった者たちによる、仲違いの「戦い」として映ったのです。

 『モモ』における悪魔は、「灰色の男たち」ということになるでしょうが、初めて読んだときは、ハッピーエンドのカタルシスに目が眩んで、悪魔の魅力をうっかり見落としていました。

 いまあらためて読みなおしてみると、モモとの対話を試みた灰色の男が、つい気を許して、自分たちの企みを明かしてしまう場面が印象にのこりました。

 あるいは、灰色の男が立ち去ったあとに消えのこる、葉巻の「青いけむり」が妙になまめかしく感じられ、

 「この世界を人間のすむよちもないようにしてしまったのは、人間じしんじゃないか。」

 といったセリフが、そこだけボリュームを上げたようにはっきりと聞こえてきました。

 「灰色の男たち」とは何なのか──。

 目を凝らして彼らの姿かたちを見きわめようとしても、それこそ、煙のようにぼんやりとして輪郭を見失います。

 まずもって、作者自身による挿絵に、「灰色の男たち」は見当たりません。彼らの葉巻や帽子といったものは描かれているのに、その姿かたちは描かれていないのです。

 この物語における、最も神に近い存在と言ってよいマイスター・ホラは、「灰色の男たち」を「悪霊」と呼び、

 「やつらの生まれるのをたすけたのは、人間じしんなのだから。」

 と説きます。

 悪魔は自分の外にいるわけではないのです。

 作者は、「悪霊」である彼らを、闇をまとった「真っ黒な男たち」とはしませんでした。彼らは、白にも黒にもなり得る「灰色」で、白の世界にも黒の世界にも属さない者たちなのです。

 したがって、彼らは至るところに偏在し、どこにでもあらわれるのに、その姿は、なんとなくぼやけています。

 再読におけるカタルシスは一抹の哀愁をともない、最後のひとりとなった灰色の男のセリフに極まりました。

 「いいんだ──これでいいんだ──なにもかも──おわった──」

 そう言って、灰色の男は静かに消えていくのです。

 この、「いいんだ──これでいいんだ」の響きは聞き捨てなりません。

 作者は、敵対するものが自分たちの外にあるのではなく、他ならぬ自らの中にあることを、「時間」と「心」を戦わせることで示しました。そして、そのふたつは、どちらも同じ、「生きている」ことを意味していると教えてくれたのではないでしょうか。

 本を閉じたとき、「これでいいんだ」と言いのこして消えた灰色の男の声が聞こえてきました。

 「さぁ、それで君はどう生きていくのか?」──と。

(よしだ あつひろ・作家)


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