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田中優子 『野の果て』の世界[『図書』2023年7月号より]

『野の果て』の世界

 

 私は小説であろうと評論であろうと、すらすらと早く読み進める方だが、志村ふくみさんの『野の果て』は数ページ読むと、その場を離れ、心を落ち着かせて呼吸を整え、再びその世界に入る、という読み方になった。

 圧倒される、言葉が食い込んでくる、追い詰められる──いろいろ表現を探してみたが、どれも少しずつ違う。人が自然界の中で自分の命をつなげる必要に迫られたとき、こんなふうになるのではないか?

 私は毎朝、近くの小高い丘にある林道を一時間ほど歩く。登り降りがあって息が切れる。同時に、全ての名はわからないほどのさまざまな木々や、季節の花々が目に入り、春からは数種類の鳥がにぎやかで、冷たい風、突然降りはじめる雨、道の残り雪など、それぞれの季節の道の違いに気をつけないと、滑りそうになる。

 それは確かに「自然」ではあるが、所詮、行政の管理する公の林道で、私はあくまでも安全であり、他の歩行者ともすれ違う。登山も幾度か経験したが、これも登山ルートというもので管理され、スキーをしても範囲から外れるなと言われ、水泳をしても見守られている。

 『野の果て』の言葉から離れて呼吸を整えているときに、突然そんなことを思い巡らしていた。私は『野の果て』を読みながら、そういう管理された「自然を楽しむ」という気分とは全く異なる自然に向き合っていたのである。自然を見る、愛でる、その美しさを堪能するのと、自然界の一つ一つの命に、覚悟の上でとことん関わるのとでは、次元が異なる。私は森にいるのでも海中にいるのでもなく、書斎で本を読んでいたのであるが、そこにある言葉の一つ一つの力が、この世の向こう側に、自分を引き込むようであったのだ。

 「あの世」とか死の世界、という意味ではない。それは自然界なのだが、私たちが日常に接する目に見える自然界であるだけでなく、志村ふくみの言葉で言うところの「色の背後」にある「一すじの道」であり、色の背後にある「植物の生命」である。「本当の赤はこの世にない」と言う時の、「純粋無垢な赤」が存在する、この世の「背後」なのである。

 それらの言葉で「説明」されるだけなら、私の胸は苦しくならなかっただろう。しかしある種の小説が、この世ならぬ存在をリアルに描写する時に、読者が恐怖しながらもその魅力に引き込まれるように、私は志村ふくみの染めの現場からありありと、その「生命」を感じ取ってしまった。この書のあらゆる箇所にそれが潜んでいる。たとえば「一色一生」にはこういう文章がある。

……甘い物(麩、酒、水飴等)辛い物(石灰)を欲しがっている時が、藍の顔をみていると自然にわかるようになった。

 朝夕静かにかい)を入れて攪拌すると、藍は心地よげに身をゆだね、思いがけぬ静穏がひととき訪れる。……程よく温められた甕には、力のある艶々とした藍が健やかな香りを放ち、……

 ここでは、染色家である志村ふくみが藍を建てているのではなく、「藍が」、その身を志村さんに委ねている。そこに糸を静かに入れると「糸は藍の中にひそみ、盛んな色素と香気を吸収」する。ここでは、志村さんが糸を染めているのではなく、「糸が」みずから藍甕の中に沈み、色と香りを吸収するのである。糸は引き上げられ空気に触れた瞬間、「目をみはるような鮮烈な緑」となる。さらに水で洗われて再び空気にふれると、涼しく深い藍色が「誕生」する。それを「健やかな子供の笑顔となって私にほほえんでくれた」と書く。ここで初めて志村さんの顔が見える。それは、藍染めの糸と向かい合って互いに微笑む「二人」である。

 本書には人間以外の自然が躍動し、主体となり、主語となって動き、生きている。そういう状況に慣れない私の心はざわめき、時々その場を離れ、「落ち着けよ」と自分に言い聞かせる。

 「かめのぞき」という一文では、藍は揺籃期から晩年まで変貌し、最晩年には「かめのぞき」という色になる、とある。しかし「あっという間に短く燃え尽き、よう)せつ)してしまう甕もあれば、一朝毎に熟成し、薄紙をはぐように静かに老いてゆく甕」もあり、「その力を使い果たしてある朝こつ)ぜん)と色を無くした」甕もあったという。まさに藍が命として、本書の中で生き、寿命をまっとうする。

 志村さんが染色を語るとき、主語は志村さんではない。色であり、糸であり、木々や葉や花や実や虫など、色や糸が出現するさまざまな植物・生物であり、その背後にある水と空気と土、つまり風土である。さらに言えば、その全体の向こうにある目に見えない「自然の理」である。

 私がそれに気づいたのはつい最近のことで、二〇二一年に新版が刊行された鶴見和子さんとの対談本『いのちを纏う──色・織・きものの思想』(藤原書店)の「序」を書いた時だった。なんと遅かったのだろう。見れども見えず、読めども読めず、であった。そこで私は次のように書いている。

 これらの言葉は、色や自然が「主体」である。「なりたがっている」「受ける苦しみ」「姿を隠す」など、主体として動詞をもっている。……「ひとりひとり」と言う。「主張」と言っている。「蓄え」「訴えている」と表現する。

 そのことの重大さをこの時、私は自分の問題として初めて受け止めたのだと思う。さらにそこで志村さんは色が人間の思考の領域を超えていること、見えない世界からのメッセージであることを、随所で語っておられた。考えてみれば、見えない世界から出現してまたそこに戻っていくのは、人間も同じである。生命はことごとくその向こう側の世界をもっていて、そこから一瞬、この世に現れ、生きて、消えていく。色と人は、同じく「くう)」なのであり、それは同時に、光も闇も含めた全てのつながりの中で存在しているのだということを、私は志村さんの書を読むたびに思い起こし、感じ取るのである。

 読むたびに思うもう一つのことがある。それは「色」を表す言葉、つまり色名や、その表現のことだ。不覚にも私は「色名」というものに意味があり実体があると思っていた。江戸時代に生まれた言葉で「四十八茶百鼠」というのがある。実際に数えてみると茶色は七十五色名、鼠色は六十一色名あり、それを見分けられる江戸人の鋭い感性に感心していたのである。しかし本書でも志村さんはこう書いておられる。

 楊梅、つるばみ)団栗どんぐり)五倍子ふし)はん)、栃、梅、桜、よもぎ)げん)しょう))、薔薇、野草、およそ山野にある植物からすべてから鼠色は染め出せるのです。しかも一つとして同じ鼠はないのです。

 自然界においては「同じ色」など実在しないのである。同じ色と違う色が分類できるから色には名前がつけられる。しかし同じ色が存在しないのなら色名は単なる「おおまかな指標」でしかない。不正確であるし、実体がない。では色名に意味はないのか。それについて志村さんはこう書く。「どんな名を冠しても、一つの情緒的な世界をかもし出すことが出来たのでしょう。夕顔鼠など、たそがれに白々と咲く夕顔に翳の射す情景を想像したのですが、その色は紫がかった茶鼠色なのです」と。色名と色の描写が、ここでは「情緒的な世界」と表現されているように、日本の古典文学には、色が多くのものをもたらしたのだった。それは本書の「日本の色」に見える。

 とりわけ志村さんが注目したのが『源氏物語』である。いくつもの例を引いて、『源氏物語』の中の「なまめかし」について書いている。志村さんの「なまめかし」は、藍を染めている最中の実体験に基づいていた。それは「初染めのはなだ)色」で、「力がみなぎ)っている。艶である。清々しい。その時思わずなまめいてみえた」と。しかし『源氏物語』の「なまめかし」はそれを超えてさらに「複雑多様」であった。喪の色である「鈍色」。そこに『源氏物語』は「いとどなまめかしき」を見ている。「今までのはなやかな、艶々とした色彩が否定されていく」その対比が白黒の世界を際立たせ、「いとどなまめかしき」ものになるのだ。志村さんにとっても、もちろん読者にとっても、驚くべきことだ。

 そこから考えると、色とは関係の中に立ち現れるものであり、色名もまた実際の色と一対一対応するものではなく、他の言葉との組み合わせで、多様な情感を構成するものであったろう。それは和歌に導かれた日本の文学の世界で熟成されてきた。私自身も、歌合に使う色の表現や、物語におけるかさね)の色目に関心を寄せてきたが、色と言葉の関係は自然および生命の表現として、さらに深く立ち入って考えるべきことだと気がついた。人間は、とりわけ日本人は、見える自然界、見えない自然界、その両方から立ち現れる「色」に心打たれ、戸惑いながら、懸命にそれを布に写し、言葉に置き換えてきたのである。

 冒頭からいきなり、心揺さぶられる体験ばかり書いてきてしまったが、本書の成り立ちと構成について述べるべきであった。

 本書には、お孫さんの志村昌司さんによる、構成についての詳しい解説がついている。それによると本書は、志村ふくみさんご自身が、今までお書きになった多くの随筆の中から選ばれた自選集であるという。見事な構成を成している。「私」「仕事」「思想」の三章でできており、「私」では、染織に携わるようになった経緯と覚悟が書かれている。実母との出会い、柳宗悦、富本憲吉、富本一枝、黒田辰秋、稲垣稔次郎、今泉篤男など、さまざまな芸術家や評論家から受け取った言葉を、心深く理解し書きつけている。それらの言葉は、志村ふくみの仕事への覚悟と姿勢を明瞭にしていったものとして、読者の心にも届く。

 「もうそれ以上の着物は織れないかもしれない」とは、実母の言葉だ。志村ふくみが残り糸で織った屑織「あき)がすみ)」のことである。全てはそこから始まった。「必ずゆきづまりが来る。何でもいい、何か別のことを勉強しなさい」と富本憲吉から言われた。志村ふくみにとってそれは文学であった。志村さんが染織家であると同時に、多くの人の心を打つエッセイストであることは本書でもお分かりになるだろうが、その言葉は膨大な読書から吸収したものであろう。富本一枝からは「家庭を捨てるなら思い切って捨てよ。……本当に捨てたものは、また別の形で必ずかえって来る」と言われ、志村さんは決断できた。稲垣稔次郎はセザンヌやモンドリアンを例に挙げながら、「自然」について語った。「このふしぎな力をもった世界のありのままの姿をとらえ、その中にひそんでいる原理をあやまたず表現すること」と。

 この「私」という章があることで、次の「仕事」という章は、影響を受けたこれら先達の言葉とも響き合って、本書全体の山場になっている。本書は「私」が序奏で、「仕事」が山場つまりは山登りで、「思想」がそれまでの言葉を別の角度から平易に表現した着地点である。そこで納得した。途中で私が息継ぎをしたのは、自然なことだったのだ。それは「山登り」だったのだから。その「仕事」の章については、すでに冒頭で、息継ぎとともにご案内した。

 「思想」の章では、柳宗悦の考える「美」の本質と自らの仕事との関わり、共感、違いが、繰り返し書かれる。ゲーテの『自然と象徴』における色彩論、ルドルフ・シュタイナーの『色彩の本質・色彩の秘密』をはじめとする数々の著書、パウル・クレーの言葉、鶴見和子と中村桂子の「自然と人間を取り結ぶ道はないのか?」という切羽つまった問い、石牟礼道子の能『不知火』、そして伊原昭の、日本文学における色彩表現の研究に及ぶ。

 その中で延暦寺の「しち)じょう))のう)))」のことを「思想」の章に組み入れていることに注意が向いた。千二百年前に最澄が唐から持ち帰った、死者や乞食の))で作られた袈裟である。「この世で最も汚れたもの(糞掃)と、最も尊いもの(法の命)とが一体となって今私達の前に存在する。その比類のない深い泉のような美しさはただごとではない」「この世に顕現される)))))))))」という言葉に行き当たり、なるほどこの文章は「思想」に入れるべきものだと納得する。これこそ、志村ふくみが目指してきた織物に違いない。

 意外なことに、読み終わると『野の果て』という書物の全体から、「色即是空」が励起してくる。「花は紅、柳は緑といわれるほど色を代表する植物の緑と花の色が染まらないということは、色即是空をそのまま物語っているようにも思われます」「咲き誇るあでやかな花の色のすぐ傍に、ちょう)らく)のきざしがあるということでしょうか」。植物と向き合い、染めてみなければわからないことがある。その究極が、花から色は染まらない、ということと、葉の緑を染めることはできない、ということである。緑が染まる植物は存在しない。これは衝撃でもあるが、何やら腑に落ちる。

 今日も窓の外をみると緑に満ちている。目の前が栗畑で、ちょうど葉が茂る季節であり、葉は風に揺られて表と裏の異なる色を交互に豊かに見せている。それは植物の命の、光によって人間の目に見えるある種の経過点であり、固定された実体ではない、ということなのだ。全てが経過しうつろう。染めるとは、その「ある時点」の命を糸に移すことである。二度とやってこないその存在の、その時が、糸にしっかりと移る(映る、写る)のである。それは驚異であり、奇跡である。

 私はある時から、着物そのものへの関心から布への関心、糸への関心に移り、大学の裏の畑で綿花の栽培をし、チャルカで綿花を糸にし、佐渡で染めと織りをおこなった。染織とは、そんな一時期の体験だけでは到底知り得ないものだ。志村ふくみの存在との無限の距離がわかっただけでも、その体験は役に立った。

 志村ふくみの言葉は、染織を通して、生命と自然の向こう側をさし示す言葉である。さし示すだけでなく、その入り口に導く。それはかつて宗教指導者たちが行った営為であるが、今の世ではそういう人々に出会う機会に恵まれない。志村ふくみの言葉との出会いは、その稀な機会に相当する。しかし入り口から向こうへどう入っていくかは、読む者それぞれの仕事と生き方と姿勢しだいであろう。

 そう思いながら、私は入り口に立った。

(たなか ゆうこ・江戸文化)


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