『科学』2023年8月号 特集「動物の社会的情動」|巻頭エッセイ「ファーブルの視点」奥本大三郎
◇目次◇
【特集】動物の社会的情動
動物の社会的情動……菊水健史
イヌの社会的情動とヒトとの共生……永澤美保
ネコのまばたきの社会的な役割……子安ひかり
豊かな情動をやりとりするウマ──仲間を思いやり,嫉妬もする……瀧本(猪瀬)彩加
霊長類の共感性と社会的情動……山本真也・クリステン リン
ラット・マウスの社会的情動……尾仲達史
空飛ぶ情動──カラスの社会における個体間の反発と親和……伊澤栄一
ニワトリの社会的情動──攻撃性の消失の解明から家畜化の起源の探索へ……新村 毅
[巻頭エッセイ]
ファーブルの視点……奥本大三郎
光ビームを用いる無線給電──小型端末からドローンや電気自動車への移動中給電を目指して……宮本智之
あらゆるものを折りで実現する……舘 知宏
ポスト・ムーア時代のスパコン2 演算性能の向上は限界に近づいているのか……牧野淳一郎
[新連載]
ナナメから見る物理学1 鏡の世界が左右反対なのはなぜか……村田次郎
[連載]
3.11以後の科学リテラシー127……牧野淳一郎
研究者,生活を語る7 「逆転」生活からみた世界……佐田亜衣子
数学者の思案15 難しい試験・難しい授業……河東泰之
リュウグウのささやきを聴く12 ジッコさんの記憶……橘 省吾
これは「復興」ですか?77 防護服が示す「ふるさと」の実態……豊田直巳
[科学通信]
台風を脅威の存在から恵に──タイフーンショット計画……筆保弘徳
次号予告
いきなり子供のような言い方になるが,ファーブルは偉い人だ,と思う。しかし,彼のいったいどこが本当に偉いのか,それをきちんと言えるか,と訊かれたら,どう説明すればよいのか。
観察の鋭さ,とてつもない忍耐力,実験の手法の的確さ,それを表現する文体……と,いろいろ挙げることができるだろうけれど,彼の死後,その手法を延長し,より精密な業績を残した人は少なからずいる。
では,ファーブルのいったいどこが偉いのか──ただ楽しんで『昆虫記』を読んでいた私に,そんなことを考えるきっかけを与えてくれたのは,編集者,テレビディレクターの方々の質問である。それは今年2023年がファーブルの生誕200年にあたり,テレビ,雑誌などで,そう訊かれることが多いから,考えるきっかけも多かったのである。しかし,収録するから3分くらいで喋ってくれ,と言われても,なかなかまとめられるものではない。
ファーブルの偉さは,おそらく初めて,虫を虫としてきちんと見たことにある,と言ったら,また話がややこしくなるか。
19世紀の半ば,身の回りに,虫は,今より遥かにたくさんいた。しかし,人間はそれを素直な目では見ていなかったようである。 糞虫を例にとればよくわかるだろう。古代エジプト人は,ラクダの糞球を転がすスカラベを見ていたが,その後を追い,ちゃんと観察するのではなく,自分達の神話の中に組み入れてしまった。
中国にもスカラベの仲間はいるけれど,詳しい観察の例はないと言っていい。昆虫学者の常木勝次博士は,その著書『戦線の博物学者』(日本出版社,昭和17年)の中で,中国における,糞虫の個体数の夥しさに驚いている。しかし,中国文明の中で,糞虫はごく卑小な役割しか与えられてこなかった。
ギリシャ文明においても同様である。
近代フランスの昆虫学者は,糞虫を見て,やはり神話を作った。それは,虫同士の協力という神話で,しかも,その後はもう,実物の虫は振り返って見なかったかのようである。
しかし,ファーブルだけは,納得するまで虫の後を追いかけ,手を泥だらけにして観察し,実験した。そして,虫の心理にまで立ち入って考えようとした。
狩り蜂についてはどうかというと,家名の存続を何よりも大切にする中国人はそこに,蜂が芋虫を養子にするという教訓を見た。フランスの場合,ファーブルの先行研究としては,レオン・デュフールの「タマムシツチスガリの研究」がある。ファーブルはこれを読んで,形態の分類だけではなく,昆虫の生態観察という分野にめざめたのである。
デュフールの研究にも,蜂が獲物を保存するための,未知の防腐剤を用いるという,思い込みと問題の先送りがあった。ファーブルは,蜂が獲物の神経系を刺す,ということの発見によって,その過ちを訂正する。そして,昆虫に組み込まれた,多様な本能という行動のプログラムを発見していく。のちに,そのプログラムに進化があることを,主として日本の学者らが究明していくのである。しかし,「本能の進化」という考え方を,もしファーブルが知ったら,進化論嫌いの彼は激怒したに違いない。