寺地はるな モモとわたし[『図書』2023年8月号より]
モモとわたし
小学校の図書室にあった『モモ』はとても人気があって、なかなか借りられなかった。棚にさしてあるのを見つけると、とびつくようにして借りていた。何度読んでも飽きなかった。
わたしの家には、謎の細長い部屋があった。なんの目的があってこんなに細長くつくったのだろうと思うようなその部屋の押入れの前に、茶色いアップライトピアノが置かれていた。押し入れからものを取り出せなくなると困るので、ピアノと押入れのあいだには数十センチの隙間があった。わたしはその隙間に住みついていた。ドア代わりに古いマットレスを立てかけて、毎日そこで図書室から借りた本を読んでいた。
家の中にはたいてい誰もいなかった。だから居間や座敷で過ごしてもよかったのに、そうしなかった。狭くて外界から遮断されている空間が心地よかったのかもしれない。
両親は忙しい人たちだった。父は「世界を平和にするために活動をしているんだ」と言っていた。「核兵器反対」と書かれたビラを刷ったり、そのチラシをご近所にポスティングしたりして、けっこう嫌われていた。下校中に知らない大人から「あんたのお父さんは〇〇だね」と睨みつけられたこともある。〇〇という言葉の意味を、当時のわたしは知らなかった。今は知っているけれども、ここには書かない。
母は病人を見るとほうっておけない人で、誰かが入院すると病院に日参するため、よく家を留守にした。なぜだか母の周囲には病気の人が多かった。
そういうわけで、と言ってしまっていいかどうか迷うが、そういうわけで、わたしは小さな円形劇場の廃墟にひとりで住みついた女の子にとても憧れていた。モモには家族はいないけれども友だちがたくさんいて、みんなに好かれている。ぼろぼろの身なりをちっとも恥じておらず、堂々としている。
モモは他人の話を聞けるからみんなに愛される、とある。「ほんとうに聞くことのできる人は、めったにいないものです」。当時はあまり意味がわからなかったけれども、大人になってたしかにそうだなと納得した。わたし自身も含めて、他人の話をほんとうに聞くことのできる人なんて、なかなかいない。たいてい求められてもいないアドバイスを口にしたり、「わかる! わたしもね……」などと自分の話をはじめたりしてしまう。
子どもが本を読むよろこびのひとつとして、「本の中のごちそうを食べる」がある。物語の中に登場したおいしそうな食べものは、実際の食事よりも鮮明に記憶に残っている。
『モモ』にもとびきりのごちそうが登場する。マイスター・ホラから供される金褐色にパリっと焼けたパン、金色のバター、金の液体のように見えるはちみつ、そしてチョコレート。当時は固形のチョコレートしか知らなかったから、「ポットからチョコレートをついで」という箇所でしばし手を止めて悩んだ。チョコレートを、つぐ? いったいどういうことだ?
大人になってから、なんどかホット・チョコレートを飲んだ。毎回、飲めるチョコレートだ、と思って、いちいち「じーん」としてしまう。
すこしさびしくもある。わたしはもうあの頃のように一日じゅう飲めるチョコレートの味を想像するような、そんな時間の過ごしかたをしない。
子どもの頃は、時間の感覚が今よりもっとぼんやりしていた。めったに時計など見なかった。『モモ』を何度も読んだわたしは、今でも気に入った本はくりかえし読む癖がある。しかしわたしのこの読書スタイルは、周囲の一部の人たち(おおむね若者だが、わたしと同世代の人もいる)からすると、信じられないことなのだという。
彼らは同じ本を、二度とは読まない。だから本は一度読んだらすぐに捨てるか売るかするのだそうだ。そもそもよく知らない本を読みたいとは思わない、と言う。インフルエンサーが紹介していた本なら間違いなくおもしろいから読む、なんならあらすじや引用された数行の文章だけでもう読んだ気になって満足してしまうこともあるのだ、と。
彼らは「タイパ」という言葉をよく使う。タイムパフォーマンスの略だ。費用対効果ならぬ時間対効果を常に意識して行動しなければならないと、わたしにもアドバイスしてくれる。金銭も時間も浪費することが許されない時代になった。
現代の多くの人は、子どもの頃から習いごとや勉強で忙しい。同じ本を何度も読んでいるようなひまがないのは、当然といえば当然のことだ。
『モモ』の後半、モモと仲良くしていた子どもたちが〈子どもの家〉に収容され、大人の監督のもと、決められた遊びをする、という場面がある。その遊びには「なにか役にたつことをおぼえさせるためのもの」という目的がある。つまらなそうだな、かわいそうだな、と思いながら、同時に自分も自分の子どもに同じようなことをしてきたような気がして、ひやりとした。
わたしが自分の子どもにしてきたこと。たとえば、たくさんの絵本を読み聞かせること。あれやこれやと知育玩具を買い与えること。スイミングや学習塾に通わせること。良かれと思ってしたことばかりだけれども、もしかしたら〈子どもの家〉で子どもたちの遊びを管理し、自主性を奪う行為と同質のものだったのかもしれない。
忙しい子どもは、やがて忙しい大人になる。さほど忙しくない子どもだったわたしも、なぜかやたら忙しない大人になってしまった。わたしの日常は「タスク」といちいち横文字で呼ぶのもためらわれるような些事で構成されている。そのせいか頭の中が常にとっ散らかっており、出かけるついでにゴミを出そうとしてうっかりゴミ袋ではなく自分の鞄を放り投げたり、打ち合わせの時に編集者相手に「それはお母さんがやっとくわ。貸して」と口走ったりする。とても恥ずかしい。
そして、気がつくと、「時間がない」「ああ、時間がない」とぶつぶつひとりごとを言っていたりする。言いながら、へんな言葉だなあ、と思ってもいる。時間が「ない」とはどういうことなのか。だって、時間は常にそこに「ある」に決まっているのに。
数年前から「ていねいな暮らし」という言葉をよく見聞きするようになった。手間と時間をかけて、暮らしを整える。素敵だが、わたしには真似できない。あなたの生活はていねいではない、と責められているように感じて、勝手に落ちこむ。自分ひとりで「あれもしなければ、これも済ませておかなければ」と焦っているだけなのだと、わかっている。こういう余裕のない心をもったわたしみたいな人間が灰色の男たちを生み出してしまうのだろうなあと思うけれども、どうしようもない。
それにしてもあの時間どろぼうの灰色の男たちは、子どもの頃にはただ不気味な悪の存在だったけれども、今読んでみるとなんだかちょっとかわいそうだ。だって、彼らはちっとも楽しそうではない。人間から奪った時間でつやつやぴかぴかの良い顔になっているならこちらも「うわあ、なんて悪いやつ!」と堂々と憎むことができるのに、彼らはただひたすら灰色の顔で葉巻の煙をくゆらして忙しく働きまわっているだけで、なんとも切ない。
『モモ』がわたしたちに伝えたかったのは、時間に追われてキリキリしながら生きるのは馬鹿げているよ、もっと星空や花を眺めたり友人たちとゆったりお喋りしたりしようよ、それが豊かな生きかただよというような、そんな単純なメッセージなのだろうか。わたしは違うと思う。そもそもこれが正解だよ、と誰かに定義されたとたんに、その「正解」は色や輝きを失ってしまう。
忙しかろうがのんびりしていようが、自分の時間の使いかたに自分自身が納得しているかどうか。それがいちばん大事なことなのではないだろうか。「タイパ」と「ていねいな暮らし」は相反する姿勢に見えて、でもそのどちらにもわたしが反発してしまうのは、他人から勝手に生きかたの正解を決められてはかなわない、と常々思っているからなのだろう。
物語のおわり、人々はモモのおかげで時間を取り戻す。でもわたしたちは自分自身で見つけなければならない。時間、すなわち、生きるということへの向き合いかたを。
物語には問いはあっても、答えが用意されていない。そのことに心もとなさや物足りなさを覚える人も一定数いるかもしれないが、わたしはそのほうがいい。こうしなさい、こうするべき、と定められることなく、あくまで自分自身の手にゆだねられている。それはおそろしくも、とても幸福なことだ。
わたしは忙しい。でも、わたしを忙しくさせている些事の積み重ねによって、わたしの人生の大事が構成されているのだと思う。だからけっして放り出すようなことはしない。自分の忙しさに、時間の使いかたに納得したい。
この世から消えていく時に、わたしも「これでいいんだ」と言えたらいいなと思っている。
(てらち はるな・作家)