森田真生 時間どろぼうとともに[『図書』2023年9月号より]
時間どろぼうとともに
「時間がない」というのは考えてみれば不思議な表現である。そもそも時間は、石や、人や、山が存在するようには存在していない。時間に触ることはできないし、目で見ることも、耳で聞くこともできない。その意味で時間は、端からどこにもないと言ってもいいかもしれない。
もちろん、時計は目で見ることができる。触ることもできる。だが時計は、時間そのものではない。それはちょうど、数字が数そのものではないのと似ている。数字は数を表現する手段ではあっても、数そのものではない。数字は目で見ることができるが、数そのものは、触ることも、見ることもできない。
だから、数があるかのように感じられるためには、長い訓練が必要になる。近代の教育は、そのために大きな労力を割く。子どもを教室に集め、「学級」という集団にまとめ、なるべく手短に、効率的に、数の概念を獲得させていこうとする。それでも数を理解し、操ることができるようになるには、何年も学び続ける必要がある。
学校は、読み書き計算を教えるだけではない。現代の子どもたちは、読み書き計算に加えて、時計の読み方を真っ先に学ぶ。分単位で刻まれた「時間割」で学校は動くから、時計を読むことは子どもたちにとって必須の技術だ。自分とは無関係に、淡々と同じ速さで進み続ける「時間」があるかのように感じられなければ、現代の学校生活はままならない。
しかし時計を読むことは簡単ではない。特に、分針まで正確に読み取れるようになるのは難しい。誕生日に腕時計をもらったばかりの四歳のわが家の次男も、まだ時計の読み方はほとんどわかっていない。数を正確に数えられるようになってから、時計が読めるようになるまでには、意外なほど長い道のりがある。
時計が読めることは当たり前ではないし、人間として「自然」なことでもない。そのことを僕たちは、もっと自覚してもいいのかもしれない。何しろ、分の単位で時間を区別できるほど正確な時計は、数百年前までこの地上に一つも存在しなかったのだ。
「分=minute」とは本来、「微小」や「微細」であることを意味する言葉である。もともとそれは、人間には識別できないほど微小で、微細な時間の単位のことであった。
現代の都市は分刻みどころか、秒刻みで物事が進んでいく。身体的には感じ分けることが不可能な精度で時計が時間を刻み、僕たちはその時計が刻む時間に合わせて、生きることを求められている。学校では早々に、子どもたちはそのための準備を始める。そうして「不自然」な時間感覚を体得していく。やがて誰もが、多かれ少なかれ「時間がない」と感じ始めるようになる。
モモは不思議な少女だ。世間がみな「時間がない」と忙しなくしているとき、彼女だけはなぜか、時間欠乏の病に感染しない。なぜ彼女だけに「免疫」があるのか。その秘密は、彼女が学校に行っていないことときっと無関係ではない。
見た目には年齢が八つにも十二ぐらいにも見える彼女は、「いくつだね?」と聞かれると「百」とためらいがちに答える。彼女はだれにもまだ数をならったことがない。そもそも「数をあらわすことばをほんのわずかしか知らない」。だから自分の年齢を知る由もないし、時計の読み方もおそらくまだわかっていない。
時間を数え、測り、計算する方法を知らない彼女にとって、「時間がない」という観念はそもそも成り立ちようがない。時間を、さも数えられるものであるかのように、それゆえ、失ったり、無駄にしたり、盗まれたりできるものであるかのように感じられるためには、長い教育を受ける必要がある。彼女はその教育に、まだほとんどさらされていない。
そんな彼女が、周囲のだれよりもよくできることは、聞くことと待つこと──何の見返りを求めるわけでもなく、ただだれかのために「時間をかける」ことである。
「時間がない」と叫ぶ周囲の大人たちは、時間という「支出」に対して、見返りを最大化しようという考えに夢中だ。だから、聞くことや待つことに、時間を割くことができない。モモはといえば、そもそも時間を数える方法を知らない。彼女が知っているのは経験された、生きられた時間だけである。その時間は、他の何かと交換することができない。
数に置き換えられた時間は、お金と同じように貯めたり、交換したり、失ったりできるものになる。灰色の男たちは「時間損失額」の合計を正確に計算しながら、「時間金庫」の残高を心配し、時間の「節約」を説く。彼らはまるでお金について語るように、時間について語ろうとする。これこそ、時間どろぼうを可能にする条件そのものなのである。
マイスター・ホラにモモが「どうして(灰色の男たちが)いるようになったの?」と問う場面がある。これに対してマイスター・ホラは、「人間が、そういうものの発生をゆるす条件をつくりだしているからだよ」と答える(岩波少年文庫、二二五頁)。時間を数え、測り、計算できるようにすること──これこそ、時間どろぼうの発生をゆるす最も基本的な条件である。
灰色の男たちは実際、時間を盗む際に、素早い計算で人間を煙に巻く。第六章で、床屋のフージー氏は、目の前で自分の四十二年(十三億二千四百五十一万二千秒)の生涯すべてが無駄だったという「計算」に圧倒されて、「さからう元気もなく、なにもかもあいての言うとおりだと認める気に」なってしまう。
時間を数えること自体が悪いのではない。時間を数え、測り、計算しているうちに、時間が一つしかないという考えに染まってしまうことが、時間から生命を奪っていくのだ。
時計は、時間を数に置き換える。しかしその「数」とはあくまで、(十二章でマイスター・ホラが語る言葉を借りれば)時間を「きわめて不完全ながらもまねて象った」ものでしかない。
正確な時計の存在は、時間が一つしかない、また、時間が一つの向きにしか流れないのだと、僕たちに錯覚させてしまう。しかし、それは時間そのものの性質ではない。それは時間を表現するために使われている時計の、あるいは、時計が表現しようとしている「数」が抱える限界でしかない。
時計が表示する数は一次元である。小さい数から大きい数に向かう、一つの方向しかない。だが、「生きるということ、そのもの」(八三頁、一〇六頁)としての時間には、決められた一つの向きもなければ、固定された絶対の尺度もない。
貨幣が表現する数もまた一次元である。貨幣の暴力は、あらゆる価値を、この一つの次元に潰してしまうことである。すべての価値を一次元に並べてしまえば、価値は比較可能となり、交換可能となる。
哲学者の内山節は『時間についての十二章』のなかで、時間を貨幣の価値に換算することで、「豊かな畑」が「貧しい畑」に変えられてしまう過程を印象的に描写している。汗水流して育てた野菜が実り、大地の恵みが食卓を飾る喜びや豊かさも、時給に換算してしまえばたちまち貧しいものに変わってしまう。
貨幣は便利な道具だが、それが「きわめて不完全」な道具でしかないことを忘れてしまえば、比較不能で、交換不能なはずの価値まで一次元に潰されてしまう。同じように、正しい時計が一つではないことを忘れてしまえば、時計は、人生を灰色にしてしまう。
モモが訪れた「時間の国」では、「ぜんぶの時計がみんなべつべつの時間をさしている」。絶対的に正しい一つの時間があって、そこから各々の時計がそれぞれいろいろな仕方でずれているのではなく、時間そのものがべつべつにいくつも存在しているのだ。その異なる多様な時間の全体が、「気もちのよいざわめき」のように、調和した音色を響かせている。ここに全体を統べる絶対の時間はない。
ところで、時間が本来、複数あるのだとすれば、カシオペイアが見通す「三十分後」とは、どの時計で測られた「三十分後」なのだろうか。あるいは、「時間の花」が咲く「一時間」とは、どの時計で見たときの一時間なのだろうか。この物語はいくつかの重要な場面で、客観的に計測可能な時間の存在を前提としているように思える。この客観的な時間は、「時間の国」の時間の複数性と、どのように両立するのだろうか。
おそらく、著者のエンデも、物語の読者も、時間の観念に関して、モモのように完全に無垢ではあれない。僕たちはすでに、時間について教育されている。その意味で、時間どろぼうの「発生をゆるす条件」の成立に、少なからず貢献している。あえて少し大胆な言い方をすれば、著者も読者も、すでに時間どろぼうに大なり小なり冒されている。だからこそ、『モモ』は、物語として成り立つことができる。
不完全な人間は、不完全にしか、時間を象ることができない。だからこれからも、その隙に乗じて、時間どろぼうはいくらでも生まれてくるはずだ。
肝心なことは、どろぼうを一掃することではない。どろぼうを忘れないこと、気づき続けること。そうすれば、どろぼうはその仕事を完遂できない。そのために僕たちは、何度でもまた『モモ』を開いて、「時間がある」という奇跡に、子どものように驚く心を、ふたたびくりかえし思い出していくだろう。
(もりた まさお・独立研究者)