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ミロコマチコ わたしの時間[『図書』2023年10月号より]

モモとわたし

 

 今から十五年前、大阪から東京に出てきた。東京での暮らしが半年くらい経った頃、知り合いの紹介で葉山のギャラリーで展覧会をすることになった。初日を迎えてギャラリーを閉めた後、店主は私の住む中野へ用事で行くので、よかったら一緒に来ませんか、と言う。そこで出会ったのが画家の牧野伊三夫さんだった。中野駅近くの焼き鳥屋で飲んでいるというので合流した。そこには、中野に引っ越してきたばかりの牧野さんの片付けをお手伝いしていたという、少し年上の女性二人もいて、合計五人で飲むことになった。その頃私は好き嫌いが多く、

 「ピーマンは食べれません」
 「モツも食べれません」

などと選り好みをしており、

 「ずいぶん正直に言うんだね」

と言われたのを覚えている。もしかしたら、初対面なのに気を使わない人だな、と思ったのかもしれない。

 そして翌朝、牧野さんから電話がかかってきた。

 「ウロコちゃん、お昼食べない?」

 こんなにすぐに誘われるとは、とぼんやり思ったが、

 「はい」

と答えていた。

 「あ、ミロコです」

と言うと、ハハハッと笑っただけだった。

 そこから私は牧野さんの家に日々通うことになる。その頃、絵の収入は一切なく、アルバイトで生活をしていた。朝、牧野さんから電話がかかってきたら、お昼を食べに行く。途中頼まれたお買い物をして。時には外食もしたが、ほぼ牧野さん宅で作り、十三時から十九時くらいまでバイトをして、牧野さんの家に戻り、晩御飯を食べて晩酌をしていた。そこにはいろんな人が出入りしていた。時には牧野さんの仕事関係の出版社の方やデザイナーもいたが、初日に出会った女性二人は常連メンバーだった。時間に融通が効くので、しょっちゅう集まってご飯を一緒に食べていた。アルバイトがない日はそのまま牧野さんの家に居続け、メンバーが多ければトランプをしたり、ひとりでベランダに来る鳥を眺めたり、牧野さんの本棚の本を読む。銭湯へ行って、はや)ばや)夕食の支度をして、お酒を飲みながら歌を歌ったりして過ごしていた。その頃の私は料理をほとんどしなかったが、牧野さんの食に対する情熱を見て、面白く感じ、その工程などを書き留めるようになった。何を作ったか、作る工程や、参加したメンバー、感想など色々書いた料理ノートをキッチンの引き出しにしまい、料理をするたびに書き加えていった。あるとき、常連のひとりがそれをまとめたい、と盛り上がり、たった十冊ほどの小さな冊子を作った。嬉しくて、表紙の絵をわたしと牧野さんの合作で描いたりもした。

 三、四年はそんなことを続けていたと思う。東日本大震災の時も牧野さんの家へ行った。余震に震えていたが、家にいても怖いだけで仕方ないから、飲みに行こうと思い立ち、中野の駅前の居酒屋に入り、いつものようにワイワイと話しながら過ごした。

 震災をきっかけにわたしは中野から引っ越しをし、程なくして牧野さんも住まいを移すことになった。少し離れたのと同時に、初めての絵本を出版することになった。運がいいことに、そのデビュー作で賞をいただき、ドキュメンタリー番組に出演したことで、一気に忙しくなった。日々、仕事の依頼がくる。わたしの絵を必要とされていることが嬉しくて、自分が何をしたいかをじっくり考えずに引き受けては、失敗をしていた。悔しい思いをするが、悔しがっている暇もなく、次から次へと来る仕事とただただ向き合っては、頭を打っていた。もちろんやりがいのあることや、嬉しい仕事も多かったが、昼夜を問わず、働いて、どんどん時短のために生活を削ることで、疲弊していった。それでも、なかなか立ち止まることができずにいた。

 出張に行く時に必ず本を持っていく。大抵は、買ったままで読んでいない本が家に溜まっていて、その中から選ぶのだが、その頃、そういう本すらなかった。つまり本屋にすら行っていないのだ。久しぶりに『モモ』を手に取る。もう何度も読んで、よく知っている物語。だけど、急いで旅行バッグへ詰め、家を飛び出した。

 わたしと『モモ』の出会いは中学生の頃、人形劇がきっかけだった。とても感動して、すぐに原作を読みたくなり、図書館で借りた。モモは、児童書の面白さの扉を開いてくれた。それから人形劇団に入り、台本を描いたりして、絵本制作を始めることになる。その意味で大切な一冊ではあったが、物語の内容を身にしみて感じてはいなかった。美しい表現と壮大さ、想像力を掻き立てられる展開や、大切な仲間の復活などへの感動が大きかった。

 新幹線の中で『モモ』を開く。そこには自分にとって大切にしなくてはならないことが、はっきりと書かれていた。星の声を聴き、仲間の話に耳を澄ませ、カメとともにゆっくりと世界を渡り歩くモモ。学生の頃に読んでいたのと違う感動が押し寄せてきたが、どれも知っている文章。しっかりとわたしの中にモモがいたことを思い出す。知らず知らずのうちにわたしも灰色の男たちに時間を奪われていたのだ。

 中野で過ごした数年間を思い出す。絵ではお金にならなくて、生活はギリギリだったけど、牧野さんの家に行けば仲間がいて、美味しいご飯をみんなで作り、お酒を飲んで歌って、眠る。なんと豊かなことだっただろう。わたしの時間を取り戻さなくちゃ、と思った。

 現在は、南の島に暮らしている。都会での暮らしは、仲間もいて楽しかったが、わたしにはどうしてもスピードの波にあらがうことができないとわかった。そしてもっともっと本質的に体が求めている絵を描きたくなった。そして出会ったのが南の島だった。ここでの暮らしはじっくりゆっくり。野菜はすぐには育たないし、海が荒れるとすぐに船は止まる。そうすると郵便は届かないし、物資も滞る。生活に時間がかかる。それってとても忙しい。けれど、生きる上で大切なことをわかっているから、みんなそれぞれが自分の時間を過ごしていて、すごく生き生きとしている。

 わたしの夫は工事ができるので、いろんなお家を修理してはお返しに野菜や魚などをもらってくる。そうでなくても、日々近所の方からもらうものが多い。夫に比べて、わたしには何もお返しできるものがないと落ち込んでいた。

 そのうちに近所の子どもたちが訪ねてくるようになった。夏休みの絵を描く宿題ができなくて、

 「お母さんに、ミロコさんちへ行ってこいと言われたー」

と言う。指導することはできないけれど、描くための場所や時間を作ることはできる。そうすると、何も言わなくても、子どもたちは集中して絵を描き、満足そうに帰ってゆく。画用紙や画材が近所では手に入らないことも多く、突然必要になった子どもたちがうちに求めにくることもある。そうだ、絵を通じてならお返しできることがあるかもしれない。

 それからは、子どもたちや集落に必要な絵であればどんどん参加したいと思うようになった。長年使って、色褪せた舟をペイントしたり、応援旗を子どもたちと作ったり、その画材代を生み出すための集落のTシャツや手ぬぐいを作って販売したりもしている。

 工事する人、野菜を作る人、魚を獲る人、絵を描く人。それぞれが自分の得意分野を交換していける場所。人と人が直接関わる暮らしは、中野での日々のような安心感をもたらしてくれる。

 津波警報が出た時、深夜に山の上へ逃げた。南の島といえど、冬の夜は寒く、山の上に住む友人家族が火を焚いて、あったかいお茶を淹れてくれた。サンダルで逃げてきたわたしに靴下と長靴を貸してくれる。次々と逃げてくる集落の人たちと声を掛け合う。見知った人たちに会えるとほっとする。不安が和らいで、夜が明けるまでおしゃべりをして過ごした。震災の時の中野の夜を思い出す。

 夏は夕方からみんなで舟を漕ぐ練習をする。舟のスピードを競う大会があるのだ。毎日表情が違う海に出ると、揺れ動く地球の素晴らしさを感じる。練習後や大会後、みんなで持ち寄ったご飯を食べる。月夜を見上げると、星たちがそれぞれ輝いて、会話をしているみたい。そのうちに太鼓がなり、踊り出し、三味線を弾き、歌う。

 ここにはわたしの大切な時間がある。また、モモを思い出す。牧野さんを思い出す。大切にしている根っこの部分が同じ人たち。今もしっかり体に沁み込んでいる

ミロコマチコ わたしの時間[『図書』2023年10月号より]

 

(みろこまちこ・画家)

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