思想の言葉:篠原久【『思想』2023年11月号 特集|アダム・スミス──生誕300年】
【特集】アダム・スミス──生誕300年
特集にあたって
──新しいスミス像をひらく
野原慎司+新村 聡
福祉国家思想の先駆者としてのスミス
──『国富論』における平等主義・公教育・累進税
新村 聡
『国富論』における過剰取引と市場の不安定性
立川 潔
資本のロジック
──資本主義と市場の違いと世論
野原慎司
ポリス(治政)論の組み替え
森岡邦泰
公平な観察者は公正価格を導き出せるか?
──スミス『道徳感情論』と『国富論』第一編第七章の価格論との関連
出雲 孝
スミス「自由主義」再考
──焦点としての「被治者の自由」
太田寿明
法の支配をめぐるスミスとベンサム
戒能通弘
『法学講義』における議会と司法制度
佐藤高尚
スミスの家族論とジェンダー論
細谷 実
『道徳感情論』における尊厳論
山本陽一
共感と観念連合
──『道徳感情論』第五部に関する考察
太田浩之
「正義と礼節」と「適宜性感覚」──アダム・スミス書簡からの展望
一七六五年九月、バクルー公爵の旅行付添家庭教師としてトゥールーズに滞在していたアダム・スミスのもとにパリから一通の書状が届けられた。それはデイヴィッド・ヒュームの近況報告で、駐仏大使秘書として多額の年金が確保され「可能なかぎり快適な身分となった」ものの、「この幸運を軽減するような新たな悩みの種として、今後の終の住処をどこにしようかと大いに迷って」いると記されていた。ロンドン、パリ、エディンバラを候補地として挙げたあと、ヒューム自身は「フランスに戻る意思がある」と述べていた。これに対してスミスは(自身の定住地はロンドンになりそうだとの考えを述べたあと)ヒュームの思い(パリ好み)をきっぱりと否定する次のような返書を出している。
「パリに定住しようという貴兄の考えは間違っていると思います。外国ではいつも排除されるようになるものです。この国民[フランス人]は自分たちの人情と礼節(humanity and politeness)を自慢していますが、それらは一般的に、わたしたち自身の国のものよりも卑劣な意図をもち、彼らの友情の誠実さも、わたしたち同国人のものに比べてそんなにあてにできるものではありません」。
スミスのこの意見は、彼がその後パリの「サロン」での歓待を経験したあとの、アンドルー・ミラー宛「ヒュームへのことづけ」でも変わりがなかった(1)。
ヒュームが早くからパリの「礼節」のほうを高く評価していたことは、彼が二三歳のときに旧学友マイクル・ラムジ宛に出した手紙(2)で明らかになっており、ミッコ・トロネンはこの手紙を土台に次のようにヒューム道徳理論を整理している。すなわち、ヒュームの(「プライド」規制論を含む)道徳的制度としての「礼節」論は、マンデヴィルの「セルフ・ライキング(self-liking)」概念を継承発展させたもので、これはもう一つの道徳的制度、すなわち「自愛心(self-love)」規制論としての「正義」論と対をなすものだというものである(3)。したがって、この「二つの道徳制度」はヒュームの『道徳原理の研究』では次のように定式化されることになる。
「社会における相互の衝突や、利害関係と自愛心(interest and self-love)の対立によって、人類は正義の法(law of justice)の樹立を余儀なくされ、相互援助と保護の利点を維持したように、交際における自負心と慢心(pride and self-conceit)の絶え間ない対立の結果、人々は礼儀作法や礼節の規則(rules of GOOD MANNERS or POLITENESS)を導入して、精神的交流を助長し平穏な交際や会話を促進させてきたのである」(4)。
「セルフ・ライキング」はマンデヴィルの『蜂の寓話第二部』第三対話で初めて登場した概念(造語)で、「自分を真の価値よりも高く評価する」という性向のことなのだが、これには「自分を過大評価しているのではないかという意識や懸念」が伴うので、自分の高評価を裏書きするために「他人の推賞、愛着、同意」を求めるようになることが強調され、この性向が過度になると「プライド」と呼ばれるようになるのだとされている(5)。
『蜂の寓話第二部』とルソーの『人間不平等起源論』との関係にいち早く注目したのがアダム・スミスの『エディンバラ評論』第二号(一七五六年)への寄稿論文(「ヨーロッパの学界展望」)で、その末尾では、ルソーからの長文の引用(翻訳)に先立って次のように述べられていた。「この著作[『人間不平等起源論』──「まったくレトリックと描写だけからなる著作」──]を注意深く読む人は誰でも、『蜂の寓話』の第二巻がルソー氏の体系を生み出したということに気づくでしょう。しかしながらルソー氏の体系においては[「文体と哲学的化学のたすけによって」]、イングランドの著者の諸原理は、やわらげられ、改善され美化され、そして、原著者の場合にそれらの原理の不評をまねいた腐敗放縦の傾向はすべて剥ぎ取られています」(6)。
スミスのルソーとのこの「出会い」は、従来「スミスへの衝撃」として過大評価されることにより、スミス思想を──「商業社会の道徳的腐敗」を強調したなどというふうに──誤解する端緒になったものだ、との新説を打ち出しているのがポール・セイガである。彼によれば、スミスが重視するのは(ルソーの問題提起への対応ではなく)マンデヴィル=ヒューム路線の継承であって、これに比べれば「社交性(sociability)」に関するルソー理論は、たんなる「遅れた水準」の表明にすぎなかったのである(7)。
この「路線」への注目自体はスミス理解としては正しいものと思われ、オックスフォード留学時代(一七四〇―四六年)から大きな影響を受け続けた「ヒューム道徳論」の「批判的」継承が、スミスに与えられた大きな課題であった。「二つの人為的道徳制度」としての「正義と礼節」というヒューム理論の枠組みのうち、「正義」に関しては『道徳感情論』(TMS)初版第二部の「感情」論による正義の動機づけと、第四部の(是認感情をめぐる)「効用」観点批判とに基づいて、「人為的徳性」としてのヒューム正義論が批判されることになるが、(マンデヴィルを継承した)「自尊心(self-liking)」を土台とするヒューム「礼節」論(への論評)のほうは、『道徳感情論』の第六版(であらたに追加された)第六部「徳性の性格論」第一篇の(自己への配慮としての)「慎慮」論と、第三篇の「自己規制論」を待たねばならなかった(8)。
あらたな第六部で登場する「慎慮ある人」(第一篇)と、(過度な自己評価としての)「高慢な人(proud man)と虚栄的な人(vain man)」(第三篇)の性格論では、エディンバラ公開講義(一七四〇年代後半)以来の「文芸批評」での「単純な人(simple man)と率直な人(plain man)」の性格論が取り入れられることにより、「修辞学講義」でのテーマである「感情の自然的表現」(および「相互の思考の自然的適合」)(9)との接合が行われ、「装いと偽装と隠蔽」を容認するヒューム「礼節」論批判の側面が表面化するようになる。「第六部冒頭」の「慎慮」論自体は、「自愛心(self-love)」(自己保存、物質的財貨の確保)と「自尊心(self-liking)」(社会的評価への配慮)双方にかかわるものとしてとらえられ(10)、「自尊心」にもとづく「過度の自己評価」への対処としての「自己規制」は、「第六部の結論」においては、「適宜性感覚(sense of propriety)」、すなわち「中立的な観察者の諸感情への顧慮」という規制原理(『道徳感情論』全体のテーマ)に還元されることになった(11)。
以上が、ヒュームとスミスの「終の住処」をめぐる議論に誘発された「脱線的展望」であるが、両者の「終生の定住地」は、パリでもロンドンでもなく、結局、双方の故国スコットランドのエディンバラとなった。
(1)篠原久・只腰親和・野原慎司訳『イギリス思想家書簡集アダム・スミス』名古屋大学出版会、二〇二二年、三一二、三一四、二八八、二八九、二一二頁。
(2)David Hume to Michael Ramsay, Rhiems. Sept. 12 1734. Letters of David Hume, ed.J.Y.T. Craig, 2 vols. (Oxford, 1932), vol.1, pp.19-21.この手紙でヒュームは、シュヴァリエ・ラムジの助言―ロンドンの「心底からの礼節」と、「その表現の仕方に長じた」パリの礼節とを対比して前者の優位を示唆するもの―とは逆に、「真の礼節」はフランスのほうにみられるとの結論を出している。なお、学友ラムジとシュヴァリエ・ラムジ(Andrew Michael Ramsay 1686-1743, known as the Chevalier Ramsay)との関係は不詳である。
(3)Mikko Tolonen, Mandevill and Hume, anatomists of civil society, Oxford, 2013.この著作の第四章「第三節」と「第四節」の表題はそれぞれ「自愛心と正義(Self-love and justice)」、「セルフ・ライキングと礼節(Self-liking and politeness)」となっている。
(4)David Hume, An Enquiry concerning the Principles of Morals, ed. Tom L. Beauchamp, Oxford, 2000, p.67.渡辺俊明訳、晢書房、一九九三年、一二五頁、訳文加筆。「平穏な交際や会話」のためには、ヒューム礼節論では「装い」と「偽装」と「隠蔽」が必要とされる(Ibid.p.67.訳一二五頁)。
(5)Bernard Mandeville, The Fable of the Bees: or, Private Vices, Publick Benefits, ed.F.B. Kaye, 2 vols., Oxford, 1924, vol.2, pp.130-1.泉谷治訳『続・蜂の寓話』法政大学出版局、一九九三年、一四一―二頁。‘self-liking’は泉谷訳では「自己愛」となっているが、マンデヴィルの『名誉の起源』の訳書では(‘self-love’の「自愛(心)」と峻別するために)「自分好き」とされている。壽里竜訳『名誉の起源 他三篇』法政大学出版会、二〇二二年(以下、本稿では仮の訳語として「自尊心」としておく)。トロネンは、「自尊心(self-liking)」をめぐる『蜂の寓話第二部』はホッブズ主義に基づいた『第一部』とは「別の著作」であることを強調し、これを克明な出版史研究によって裏付けようとしている(Tolonen, op. cit. Chapter 2 (‘Intellectual change in Bernard Mandeville’), Chapter 3 (‘The publishing history of The Fable of the bees’)。
(6)「『エディンバラ評論』同人たちへの手紙」、水田洋ほか訳『アダム・スミス哲学論文集』名古屋大学出版会、一九九三年、三二七、三二九頁。
(7)Paul Sagar, Adam Smith Reconsidered: History, Liberty and the Foundation of Modern Politics, Princeton University Press, 2022, Chapter 3: ‘Smith and Rousseau, after Hume and Mandeville’ (pp.113-42).
(8)第六部第二篇(他者への配慮)は、他人に「害」を加えない「正義」論と、他人に「善」を施す「慈恵」論に分けられているが、前者の純粋法学的考察は「自然法学」(‘natural jurisprudence’)の対象となるもので「現在の主題には属さない」とされている(TMS VI. ii. intro.2.水田洋訳『道徳感情論』岩波文庫、下一〇九頁)。
(9)水田洋・松原慶子訳『修辞学・文学講義』名古屋大学出版会、二〇〇四年、九六―七頁。二種類の性格対比の土台である「単純な文体」と「率直(平明)な文体」は、「著者の性格と合致する」という意味での「自然な文体」のヴァリエーションとして登場させられたものであった(『文学講義』第七講参照)。
(10)「外面的財産(external fortune)の諸利益が本来われわれにとって望ましいものとされるのは、身体の必要と便宜を満たすためであるとはいえ、われわれがこの世にながく生活していれば必ず、われわれの同等者の尊敬、われわれが住んでいる社会のなかでわれわれの信望と身分が、それらの利益をわれわれが所有する程度、あるいは所有すると想定される程度に、大いに依存することを悟らずにはいない。この尊敬の適切な対象となること、この信望と身分に値し、それを獲得することへの要求は、おそらく、われわれのすべての欲求のなかでも最も強いものである」(TMS VI. 1. 3.訳下九五頁)。
(11)TMS VI. concl.2.訳下二一三―四頁。「適宜性感覚」は、『道徳感情論』第二版以降の第一部(「行為の適宜性について」)第一篇の表題となったもので(この篇の第一章は「共感について」)、これによって第二部の‘sense of merit and demerit’と第三部の‘sense of duty’との(表現上の)整合性が保たれることになっている。