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田根 剛 『モモ』との再会[『図書』2023年11月号より]

『モモ』との再会

 

 人生のなかで、はじめて手にした本があるとしたら、それは『モモ』だったと記憶している。


 ある日、つむじ風が吹いたように、急に自分が幼い頃に『モモ』を読んだことを思い出した。そして、なぜか無性に読み返したくなった。それは忘れていた大切な何かを思い出したくなったような感覚だった。同時に、朧げながらに覚えていたこんな言葉が浮かんできた。「時間どろぼう」「時間貯蓄銀行」「灰色の男たち」……それらの言葉はイメージとなって心の中に残っていた。そしてイメージは段々と膨らみ、どんな物語だったのかどうしても知りたくなったのだ。


 カバーはオレンジ色だった。そこに物語を描いた不思議な挿絵があったはずだ──記憶を辿りながら、東京の実家で小学校の頃から使っていた本棚を、十数年ぶりにあさった。『モモ』の本は思ったよりも、素直に出てきてくれた。本を手にすると、あたたかな感触があった。同時に、幼い子どもが両手で抱えるには、大きく重い本だったろうと思った。この大きく重い本を抱えた記憶がよみがえる。忘れていた大切な記憶の底に出会えたような感覚だった。大切な本と再会した瞬間だ。人生の中で、同じ本に何度か出会うことがある。時には、それを過去のままにしてしまうこともある。または再び出会っても、いまの自分とつなぐことが出来ないこともある。でも、もしその本を、これからの自分の未来とつなげて読むことが出来たとしたら、それは本当の再会と呼べるかもしれない。本は人生を支えてくれる。それ以来、私にとって『モモ』は心の一冊となった。

『モモ』から五〇年

 『モモ』は一九七三年にドイツで出版された。そこから五〇年が経った。その頃と比べて、いま私たちの身の回りではなにが起きているだろうか? または当時からなにが変わっただろうか? いま私たちの時間はどこにあるのだろうか? 時間どろぼうはいなくなったのか? 時間貯蓄銀行はどうなったのか? 時間を通して世界を見つめ直すとき、この世界はどこに向かっていくのだろうか?


 「時間どろぼう」「時間貯蓄銀行」「灰色の男たち」といった、近代文明批判のキーワードが、いまも痛切に印象に残る。床屋のフージー氏の場面では、灰色の男が畳みかけるように計算する。「一分は六十秒」「一時間は三千六百秒」「一日は八万六千四百秒」もし彼の寿命が七十歳だとしたら、その「財産」は「二十二億七百五十二万秒」……。耳の聞こえない母との会話や、インコの世話、合唱団の練習など、彼がこれまで過ごしてきた慎ましやかな日常を無駄と断じ、人生の損失を数え、不安を煽ってから、倹約をはじめようとそそのかす。瞬く間の計算から、いますぐ倹約をはじめたら、二十年後には大資本が自由に使えるようになるとうそぶく。灰色の男は、フージー氏の未来への不安を安心に置き換え、速やかに信用を売りつける。


 未来に投資してなにがわるい?
 時間を倹約してなにがわるい?
 人生の無駄を利益にしてなにがわるい?

 ──とばかりに、近代文明は成長を必要としてきた。時間を資本として未来へと投資することで成長を重ね、未来を計算してきた。グローバルな現代社会に突入してからはさらに加速を続け、どこまでも貪欲に成長を目指す。私たちの生き方や、膨張していく情報社会、開発した土地を再開発のために壊していく街の風景……成長のために何もかもがスピードを上げていく。近代文明は「私」と「自由」を勝ち取った。「私」は「自由」を選ぶ権利を獲得したのだ。でも「私の自由」の代償として、近代文明を手にした「私たち」の時間はバラバラになってしまった。「私たち」は時間を対価にサービスを提供する「時間の従業員」となってしまった。


 『モモ』が出版された一九七〇年代に生まれた日本人に尋ねると、ほとんどの人がこの作品を読み、憶えている。単にベストセラーだというだけではなく、急激に高度経済成長を遂げた日本の社会状況と、物語との繋がりを、皆どこかで感得したのだろう。成長していく社会と、足早に通り過ぎるスーツのサラリーマン。時間に追われ、忙しくすり減らされていく毎日。気がつけば時間を失い、心が乏しくなっていく日常。そんな時代に読まれた『モモ』は、私たちに何かを教えてくれたのかもしれない。

 その一方で、驚いたこともある。フランス人の近しい友人に聞いてみると『モモ』を知らないと言われた。またイタリアの知人や友人に聞いてもみたが、『モモ』を聞いたことがない、と言われてしまった。アメリカでベストセラーとなり、世界中で読まれている本だと思い込んでいただけに、とても驚いた。しかし、それはもしかしたら文化圏での価値観の違いが現れているのかと思えてきた。ラテンの文化圏では、いまも人情や、時間をかけることが大切にされる。お金よりも愛や家族が、人生が、「いま」を生きることが最も大切だという、社会が当たり前のように守り続けている価値観がある。


 ミヒャエル・エンデはあるインタビューで、『モモ』について「あれはイタリアという国への私の感謝の捧げものであり、愛の告白でもあります」と、語っていた。(『エンデと語る』子安美知子著 朝日新聞社、一九八六年)

古い街・新しい街

 『モモ』の物語では、時折、建物についての描写がある。モモが住みつくのは、古代ローマを彷彿させるような、大都会に残る小さな円形劇場の廃墟。時間の花が咲く場所には、大きなまんまるい丸天井と、一番高いところに空いたまるい穴がある。その一方で、灰色の男たちが登場した以降の建物──たとえば〈子どもの家〉の「大きな灰色の建物」や、「スピード料理」のレストランの「道路がわいちめんにばかでかい窓のついた、よこに長いコンクリートの四角い建物」……これらは、近代的な建物を描写している。


 古い街の中にできる新しい建物。鉄やガラスやコンクリートを使った近代建築は、これまでの古い街を壊し、新しい街や新しい未来をつくろうとしてきた。古いものは忘れられ、まばゆい新しさが輝こうとする。近代文明は「新しさ」を発明した。「新しい」ことは「=未来」となった。そして新しさは、次の新しいことを求め、更新を重ねていく……。そして、新しかったものが、時間が経つと古くなることに、私たちは気づき始めてしまった。新しかった建物、新しかった街並み、新しかった生活、それらは「古さ」を受け入れられず、ただただ「古く」なり、ほころびを直すことが出来なくなっている。「新しい未来」には賞味期限があったのだ。


 観光ガイドのジジは、空想の物語として「暴君、マルクセンティウス・コムヌス」の話をした。暴君はある時から気が狂い、いまある世界を見捨て、完全に新しい世界をつくる方がいいと思いついた。自分の思いどおりの地球を求めて、「古い地球」にあった全てをつくりなおすために、「新しい地球」をつくろうとした。そのための材料は地球からとってくるしかなかった。そのため新しい地球が出来上がるにつれ、古い地球はだんだん痩せ細ってしまう……。


 新しさを求める暴君とは誰のことなのか? 「新しさ」は「古い」ものを忘却させ、私たちの未来を痩せ細らせる。これまで人類が長いながい時間を積み重ねてきた豊かな文化は、瞬く間に新しくなってしまった。古い街は観光地となって人の住まない街になり、古い民家は空き家となって置き去りにされ、豊かな自然は切り崩されて新しい街やビルが建ち並んでいく。そして新しくなった街は、次々と何もかもが新しくなり、気がつけば、それまであった伝統や風習や言語も、すっかり忘れてしまった。


 世界のいろいろな街を旅すると、いつも気になることがあった。古い街や建物はどこに行ってもあたたかいのに、どうして新しい街や建物はどこに行っても冷たく感じるのだろうか。新しい街や建物は硬くて冷たい。昼も夜もいつもまばゆく光り、賑わい、せわしく駆け回っている。けれど、古い街や建物はやわらかくあたたかで、そこには静かで穏やかな時間がゆっくりと守られている。都会の喧騒やめまぐるしさから時空を超えて、その場所に積み重なった時間や記憶があたたかく語りかけてくるのだ。

時間と記憶

 この本で最も好きなのは、〈時間の花〉の場面だ。モモは時間の国でマイスター・ホラと出会い、たったひとりで〈時間の花〉と向き合う。大人になって読み返すまですっかり忘れていたが、この場面を読んだことで、私は時間の本質に触れることができたと思っている。


 ある時から、私は記憶について考えるようになった。記憶とは過去のものだと思われているが、もしかしたら、記憶こそが未来をつくることができるのではないか。それは「新しい」ものがどんどん「古く」なり、忘れ去られていくことに疑問を持った頃だった。フランスに住み始め、そしていつの間にか東京の、自分が暮らしてきた近所の原風景が変わった。新しい建物を作って古い建物を壊し、記憶を忘却することで社会や経済は「進歩」してきた。けれども、もう「新しさ」だけでは、この先の未来を約束してくれない。そして、それは焦りとなった。いまの「新しさ」ではない、なにか違う次元の価値観で、未来を考えていくことが必要になった。


 私たちは記憶があるから生きていける。人間はすぐに忘れてしまい、世代が変われば、その人の記憶は失われてしまう。でも場所に記憶は残ることが出来る。過去を未来へと引き継いでいくこと、記憶は世代から世代へとその先を繋ぐことが出来る。記憶を残すことは、未来をつくることなのだ。


 マイスター・ホラは時間の国で、モモに「三人のきょうだいが、ひとつの家に住んでいる」というなぞなぞを出す。モモは一生懸命に考え、答えを導き出す。「未来が過去に変わるからこそ、現在っていうものがあるんだわ!」


 私たちは未来が過去になることについて考えてきたことがあっただろうか? いま「現在」のことや、未来を先取りして現在とすることばかりを追い求め、現在が過ぎれば過去は要らないと、置いてきぼりにしていないだろうか? 未来が過去となり、過去から未来へ記憶を紡いでいくこと、それがこの世界をつくってきたことを忘れてしまってはいないだろうか? 私たちは記憶と共に生きている。記憶が社会をかたちづくり、言語をつくり、建築をつくり、文化や歴史をつくる。そうして蓄積したものを失うことによって、僕らは未来を失っているのではないか。記憶を考えることは、考古学的に未来を考えていくことだ。私はそれを「未来の記憶」として考えるようになった。


 マイスター・ホラは教えてくれる。「光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ」  私たちは、時間には記憶があることを忘れていたのかも知れない。それは「新しさ」から私たちの心を取り戻すことだ。私は『モモ』と再会したことで、記憶には未来があると考えはじめた。モモと再び出会うことができたのだ。

 

(たね つよし・建築家)

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