【追悼 大江健三郎さん】田村久美子 水曜日のレッスン[『図書』2023年11月号より]
水曜日のレッスン
白樺の葉の揺れる白いお玄関、そのドアを開けて、私は光さんと妹さんのピアノレッスンのため大江家にうかがっておりました。光さんが一一歳のときから、二〇年ほどのあいだの水曜日に。
遠い日のことです。
大江健三郎氏のご長男・光さん誕生のころ、私の夫・田村義也は、岩波書店で編集を担当しておりました。お宅を訪ねることもありました。
あるとき、夫人のゆかりさんが、光さんのピアノのおけいこを始めたいと言われ、大江氏から、私に来てもらえないかと尋ねられたのです。「どう、君行ってあげたら」と夫は言いました。気おくれしている私に、「君の好きな白樺の木のある家だよ。一度、光くんに会ってごらんよ」と重ねてうながしたのでした。
初めて会った光さんは、お家では「プーちゃん」と呼ばれていて、ぬいぐるみのプーさんのように、黙ってママのそばに座り、ママの方しか見ないという様子でしたが、ふと、私を振り返ってくれた眼差しの、清らかな輝きに引き込まれて、私は小さなやわらかい手をとると、「ピアノを弾いて遊びましょうね」と約束してしまいました。
光さんとの水曜日の始まりです。
大江家の広いリビングルームには、明るい窓際にピアノが置かれ、少し離れたところに、ゆったりとしたソファーがあって、大江さんは、そのソファーで、スケッチをするときの画板のような板をかかえて、その上で原稿を書いたり、読書をしたりしておられました。
光さんは、妹さんの練習のあいだ、ピアノのそばに座って聴いているのが好きでしたが、だんだんピアノの前に腰かけて音のしりとり遊びや、小さな連弾ができるようになっていきました。
夢中になってつづけていると、「先生、ちょっと」とお父さまの声がして、「いま相撲の時間でして、光が好きな〇〇関の取り組みなんです。五分、三分、いいでしょ。光おいで」と光さんを連れていかれ、そのお相撲さんが勝つと大喜びで「やったー」と二人で大拍手。「よし、光もがんばっておいで」。光さんはニコニコ顔でピアノに戻ります。
ごきげんになった大江さんは、五線紙を広げているテーブルにまな板を置いて鰹を切り、ニンニク、生姜、ネギを山盛りにのせた「鰹のたたき」をご馳走してくださいました。
それからどのくらい水曜日を重ねたでしょうか。ある日の大江家のリビングには、赤い小さな実をつけたバラの枝が、白い壁いっぱいに活けてありました。その春の野原のような景色のなか、小鳥のように五線紙をひらひらさせて光さんがやってきました。そのころ光さんは、自分で気に入った曲を五線紙に書いて、よく私に見せてくれました。妹さんが練習している曲や、FM放送で聴いた曲などでした。「あっ、ベートーヴェンの『月光ソナタ』ね」などと私が当てると喜んで、その楽譜を見ながら連弾しました。
その日も「何の曲かな?」とのぞいてみると、私には思いつかないメロディーでした。じっと楽譜を見ている私の横で、光さんは何か秘密めいた笑顔です。
「これ、光くんの好きな音? 光くんが考えたの?」と聞く私に大きくうなずく光さんは、得意そう。
それは創作でした。光さんならではの特長がはっきり表れていました。8小節ほどの小さなメロディーでしたが、確かに創作でした。「光くん作曲しました!」と私は叫んでいました。歓びと畏れで、黙ってはいられませんでした。
すると、「そうか。光は自分の音楽ができるようになったのか、そうか、よかったね」と、お父さまが近づいてこられました。その穏やかなお声に、私はやっと我に返る思いでした。
五線紙を得意そうに見せる光さんに、「パパは見てもわからないんだよ」と、大江さんは明るい笑い声でした。
私は胸がいっぱいになっていました。音楽の大きな力を全身に感じて足がすくむ思いでした。
何かに突き動かされるように、私は大江さんの前に行き、「作曲を始めた光くんには、私のレッスンより、作曲家の方の授業がよいのではないでしょうか」と申し上げました。
大江さんはにこやかに、「いや、光が作曲家になるなんて考えませんよ。いまのピアノの時間の光はとても良い状態で、光らしい素質が現れていて、私たち家族は光が生き生きと確信をもって自分を表現しているのを感じています。この授業の時間は大切に思います」と言われました。
光さんと次のお約束をして、駅までの道を歩いていると、雨が降り出しそうだと心配された大江さんが、自転車に乗って、傘を持ってきてくださいました。
ある水曜日。大江家はとても静かでした。光さんもそうっとドアを開けてくれました。いつものようにリビングに入ると、「あぁ、田村さん」と大江さんの大きな声がしました。
「僕ね、ゆうべはほとんど夜通し『聖書』を読んでいました。もうすっかり首までその中に埋もれていたのです。そして朝日がさしてきたら、やっと、そこから抜け出して私に戻った。自分を取り戻したんですよ。私は、私でなければ……ね」と思いつめた厳しい表情でした。
大江さんはソファーの前の床に座り込んで、テーブルの上の開いたままの聖書に手をのせておられました。
私は言葉をのんで立ちつくしていました。光さんが、手を引いてピアノの方へ連れていってくれるまで。
この日のことは、のちに大江さんが「Graceとしての音楽」に書かれた《僕は信仰を持たない人間ですが、恩寵ということを音楽に見出すといわずにはいられません。この言葉を、品のよさとも、美質とも、感謝の祈りともとらえたい思いで、僕は光の音楽と、その背後にある現世の自分たちを超えたものに耳を澄ませているのです》(『大江光ピアノ作品集』一九八八年)、この文章と合わせて、くり返し思い出されるのです。もう決してお話しすることのできなくなったいまも。
大江健三郎氏ノーベル賞受賞のニュースが発表されたあの日、光さんと私はピアノの音や声は出さず、いつものテーブルの上に五線紙を広げて、鉛筆で書いたり消したりしながら、光さんの楽譜を見直していました。
ソファーの方では、大江さんが外国の新聞社の方やカメラマンに取り囲まれて、にぎやかな様子でしたのに。
日が暮れて、門前の報道の方たちの姿がなくなったころ、玄関を出て振り返ると、初めて見たときに若葉の揺れていた白樺は、すっかり大樹になって、灯りのついた白い壁にシルエットを見せているのでした。
この日が、光さんとの最後のレッスンとなりました。
*
のちに発表された『新しい大江光』の楽譜(全音楽譜出版社、二〇〇〇年)を開くと、光さんの最も望ましい成長を知ることができて、感動します。幼いときからの個性もしっかり生きているのが感じられ、なつかしい思いもあります。
光さんが意識して作曲するようになって、新しい五線紙に「悲しみ」と題名を書いたときの衝撃も思い出します。
《「悲しみ」は、いちばん最初のころから光にとって中心的な主題でした。……
やがては、私がその「悲しみ」の原因の一翼を担うことになるのであれ、その「時」を光は乗り越えることができるはずだし、さらに「新しい」光が、前に向かってゆく、その後ろ姿を、いまから喜ばしい幻のように見る思いもあるからです》
「「悲しみ」のクリエイティヴィティー」と題して書かれたこの文章はいま、深い祈りのように響いてくるのです。
(たむら くみこ・ピアノ教師)