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【追悼 大江健三郎さん】新川 明 出会い[『図書』2023年11月号より]

出会い

 

 「三十歳の私は、沖縄タイムスのほぼ同年の新川明さんが、石垣島のサトウキビ畑を猛然と走らせるジープに乗って耳を澄ませていました。沖縄の若い世代は爆発しないか?
 かれらを閉じ込める、二重三重の暴力。戦前、戦中、戦後をつらぬくそれについての、強く鋭い言葉。
 ところが真っ暗の宿舎に横たわっていると、同じ記者の集めて歩いた伝承や歌謡がよみがえってくる。(略)私は東京に残している、三歳になるが言葉を聞く・発する気配はない長男を考えました。八重山の海と四国の森をまっすぐ結ぶようにして……」(『定義集』二〇一二年、朝日新聞出版)

 右は、大江健三郎が私との“出会い”を記した一節である。

 「大江三十歳」は一九六五年。沖縄タイムスは、文藝春秋と提携、著名作家を講師とする「文春講演会」を続けており、同年は大江健三郎、有吉佐和子、石川達三がらい)おき)、大江、石川は日時を替えて石垣島の八重山会場に来島した。

 労組活動が原因で同島(八重山支局)に配流されていた私はその接遇にあたり、初めて大江と対面する。

 「出会い」という言葉が含み持つ、心が通い合うイメージではなく、所属する組織が招いた賓客を、組織末端の人間が職務として対応する応接であり、個人的に密に接する時間も場面も無かった。

 冒頭の記述は、その二年後の一九六七年、大江がプライベートの取材旅行で石垣島を再訪、求められるまま島内在住の「長崎原爆被災者」宅を訪ね歩いた時の記憶に、六五年の初対面の時の記憶を重ねて抱いた感懐であろう、と私は考える。

 使用していた車も米軍車両のジープではなく、日産ブルーバードであったが、郊外の未舗装の砂利道を爆走して案内したため、ジープのイメージを与えたものと思われる。

 ともあれ、同年の大江との再会は、ふたりの絆を確かなものにする出発点となる。しかもその基点は、「拒絶」という認識を確認し、共有するところにあった。

 「この春、あらためて僕が会った詩人は、(略)拒絶することが必要なのだ、日本を、日本人を拒絶しなければならないのだといった。(略)醜い日本人、という告発も、連帯をもとめての擬態にすぎない。拒絶すること、それが出発点だ、と詩人は優しい微笑とともにいい、僕は微笑をうしなって、したたかな打撃としてそのメッセージを受けとめた」(『沖縄ノート』一九七〇年、岩波新書)

 一九六九年四月、私は五年振りに本社復帰が認められ、来沖する大江接遇の舞台も那覇に移る。

 来沖する大江が常宿にしていたのは那覇市国際大通りが泊港と首里を結ぶ県道40号線に突き当たる安里T字路近くにあった「沖縄ホテル」(現在は同市松尾に移転)で、私は連日、終業後は同ホテル近くの居酒屋に大江を誘い出して杯を傾け歓談するのが日課となった。

 馴染みになった居酒屋の亭主は、色紙を準備して大江のサインを求め、大江も快く応じた。帰宅してそのことを妻に話すと、「大江さんの色紙なら私も欲しい」と言い出したので、それとなく大江に告げると、帰京後の大江から大型の色紙が中野重治の詩句を書き添えて届けられた。

 大江はそういう心遣いをする人であった。

 その居酒屋で長男・光のことを話すことも多く、光が好きな琉球料理は、「ティビチ」(豚足料理)であることも知った。

 そういう付き合いを続けながらも、私が大江について語ったり、書いたりすることは無かった。

 東京のメディアから大江についてのコメントを求められたのは一九九四年、大江がノーベル賞を受賞した時が初めである。那覇の碁会所で囲碁に興じているところを突きとめられた。

 翌九五年には、岩波書店の学術誌『文学』春号が「大江健三郎特集」を組み、求められて「大江健三郎と沖縄と」と題する三ページの文章を書いた。

 そこで私は、「どうしても触れておきたい」こととして書いている。

 「大江健三郎という小説家にかかわる作家論、作品論は数多いが、沖縄とのかかわりについて、小説家を創作にむかわせる創造力と、創造力を内発させる想像力の領域でこれを問題にし、その作家論や作品論を、作家の方法論の深みで解き明かしつつ語る人と論が、ほとんど皆無にひとしいことに、驚きと不満が大きい」。

 もとより元新聞記者の愚痴でしかない不満などアカデミズムの世界に通ずることはないわけだから、その反応を詮索する必要はないだろう。

 一九九六年九月、NHK(東京)の「未来潮流」というシリーズ番組で大江とテレビ対談をしたことがある。

 「大江健三郎 託す言葉~民主主義をめぐる対話」というテーマで続けられたシリーズで、私以外には著名な経済学者などが名を連ねていた。

 スタジオで相対、大江は両膝を揃えてきちっと腰掛けているのに対して、私は「NHK何するものか!」と、両膝を大きく広げて座ると、「新川さん! そんなに身構えなくて気楽に行きましょうよ!」とからかわれた。その一言で私の緊張は解け、平常心で楽しく対話を続けることができた。

 大江の、沖縄へ寄せる思い入れの結晶とも言える著作『沖縄ノート』は、第一刷を一九七〇年九月発行、二〇二一年九月には七十一刷を数えるロングセラーになっている。

 刊行当初、その印税の一部を基金にして大田昌秀(当時、県知事)と共同編集で沖縄問題を全国に発信する雑誌『沖縄経験』を発刊(一九七一年―七三年に五冊発行)した。私も参画を求められたが、沖縄で島尾敏雄を中心とする『琉球弧』という雑誌発行を計画していたため共同編集者としての参加は辞退。

 『沖縄ノート』の印税の一部は、沖縄で新劇運動を続けている大江と同世代のこう))りょう)しゅう)が主宰する演劇グループ「創造」の稽古場整備資金としても贈られた。

 大江自らは語ることはない沖縄の文化運動への知られざる支援があったことは、関係者以外に知る人はいない。

 『沖縄ノート』について大江は書いている。

 「私は三十歳の時に初めて沖縄を訪れ、幾度か再訪した後、『沖縄ノート』を書きました。強く感情的な──倫理的な、ともいわねばなりません。本土で生きて来た小説家は、打ちのめされていました──思い入れにかりたてられながら、持っていた力はすべて投入したのです。
 しかしあの時の年齢の二倍を越えるまで生きて、思い出すと悔いの残る本になりました」(『言い難き嘆きもて』二〇〇一年、講談社)

 私は末尾の「思い出すと悔いの残る本になりました」という言葉の「謎」を、どうしても解くことができないでいる。 

(あらかわ あきら・元新聞記者)


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