【追悼 大江健三郎さん】カンタン・コリーヌ 大江さんの笑顔[『図書』2023年11月号より]
大江さんの笑顔
大江健三郎さんが亡くなったことをラジオのニュースで聞いたとき、すぐに頭に浮かんだのは彼のお茶目な笑顔。そう、フランスから来たジャーナリストとのインタビューの間や、フランスでの講演会、その後の主催者との食事会の間などに見せる、あのリラックスした楽しい笑顔を、私は淋しさを感じながら思い出しました。
大江さんはユーモアがあり、人に対して優しく、雰囲気作りに努力され、講演の聴衆には楽しく聴いてもらいたくて冗談を交えたり、いわゆる「サービス精神」が旺盛な方だったと言えると思います。その性格を、横から見ていた私は何度も感じました。
私は、フランス著作権事務所というリテラリー・エージェンシーを経営していましたが、大江健三郎の作品の翻訳出版権は扱っていませんでした。それは昔から別のエージェンシーが管理していたのです。しかし、一九九五年にフランスのエクス・アン・プロヴァンスの「本の祭り(Fête du livre)」に大江さんが招待されたことをきっかけに、何回か彼に会うことになり、その後『大江健三郎 作家自身を語る』のフランス語訳を行ったり、フランス関連のイベントや、フランスのメディアからのインタビュー依頼などを仲介することになりました。二〇一五年、彼の最後のフランスへの出張までまる二十年間。この感情と思考を揺り動かす偉大な作家、特別な人物と交流ができ、私はたいへん貴重な時間と経験に恵まれました。
フランスで一九八二年に刊行された『われらの狂気を生き延びる道を教えよ(Dites-nous comment survivre à notre folie)』を当時二十代だった私は、出てすぐに読みましたが、四十年後のいまでも、そのときの読書の驚きと衝撃を昨日のことのように覚えています。
大江さんは、海外のメディアやイベント主催者などとの交渉を、自身で先方の意向を確認されながら進めていましたが、たいへんだったと思います。私はフランスとのやり取りが主だったのですが、それらの交渉を仲介するようになってからは、彼の形式的なことや儀礼的なことは嫌いだという気持ちを尊重しながら、招待やインタビューなどのオファーを受けるかどうかの相談に乗っていました。
大江さんとのやりとりは、たまには電話でしたが、おもにファックスでした。その量は相当なものになりますが、時々、用件以外にも優しい言葉を書いてくださったり、何か簡単なコラージュを付けたりと、時に事務的なやりとりでさえも、何らかの形で相手のことを思うような、遊び心を感じさせるものでした。
ユーモアがあって、人の期待にできるだけ応えたいという気持ちがおありですから、依頼されているインタビューや講演が大事であればあるほど、綺麗事が嫌いな大江さんは自分の意向を絶対に曲げない。いったん硬化して雰囲気がまずくなると、取り返しがつかなくなることもたまにはありました。すでに招待を受け入れ、約束していたイベントを中止にしたとしても。
その一つの例として特に話題になったのは、先に述べた一九九五年のエクス・アン・プロヴァンスでの「本の祭り」に大江さんが招待されたときです。フランス政府が核実験の再開を決定したことに反対して、大江さんは参加を取りやめました。それが、フランスと日本のメディアで大きく取り上げられ、フランスのノーベル賞作家、クロード・シモンとの間で、ル・モンド紙を通じて激しい議論に発展しました。
しかし、参加をボイコットされたイベントの主催者アニー・テリエ女史は、大江さんを恨むどころか彼の意向を全面的に理解し、他にも十人の作家を招待していたイベントを、涙を飲んで中止したのです。苦しい決断でしたがテリエさんは「大江さんがまたフランスに来られるまで待ちます」と彼に約束しました。そしてその約束は十一年後、二〇〇六年に見事に果たされ、大江さんと共に、息子の光さんの作品を演奏するピアニストの海老彰子さん、大江さんの愛する彫刻家の舟越桂さんがエクスに渡り、コンサートや展覧会を開いて、本当に感動的なイベントになりました。
大江さんとテリエさんの間には強い友情関係ができ、大江さんはエクスという街に対して特別な思いを持つようになりました。『大江健三郎 作家自身を語る』の、「大江健三郎、106の質問に立ち向かう」という章では、第72番目の質問「フランスという国のイメージは?」に対して、大江さんはなんと「エク=サン=プロヴァンスで、実際に十年もかけて準備した“本の祭り”に招いてくれた女性の国、そこで最良の通訳をしてくれたやはり女性の日本文学研究者のいる国」と答えているほどなのです。
インタビューや講演が決定すると、大江さんはたいへん細かく準備をされていました。できるだけ前もって質問を書面でもらい、その質問票には大江さんの返答用のメモがビッシリ書かれていました。それはまるで訂正や校正の施された、作品の原稿のようでした。英語やフランス語の質問の場合は、その質問を自分の手で一度書き写して、さらにそれを日本語に訳して、その下に答えを書いていました。口頭によるインタビューに対してさえ、そこまで完全な文字による準備をし、とにかく文字に力を入れる、書き言葉を信頼する大江健三郎さんでした。
フランスでは大江さんの政治的な面、二〇一一年以後の原発ゼロ運動への参加などは大きく取り上げられていましたけれど、小説は社会的活動の影になってしまう傾向があります。二十以上の作品が翻訳され、二〇一六年に大江さん自身もたいへん喜んだ選集がガリマール社から出版されたにもかかわらず、彼の文学の意義は、若い世代に伝わり続けているのでしょうか。
その残念な疑問について、最近一つの象徴的なできごとがありました。フランス国営ラジオ局フランス・キュルテュールの番組の担当者である若い女性ジャーナリスト(一九八五年生まれ、哲学と政治哲学専門)は、訃報を聞くまで大江健三郎の名前すら聞いたことがなく、番組の準備のために初めて読み、特に短編集『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』に衝撃を受けたと告白したのです。「この作品には途方もない魅力があり、説明できないような文体は、エレガントでありながら露骨、悲痛と同時に雄大である」と。彼女は完全に見逃していた作家を発見した驚きと喜びの声を上げている。番組を聴いていた私は、そう感じました。
大江健三郎の選集を監修した、ストラスブール大学准教授の日本現代文学研究者、アントナン・ベシュレール氏は「原爆投下から福島の大惨事まで、大江健三郎の偉大な著書を通じて、そして彼自身の独特な人生を通じて、一九四五年以来の日本の歴史を形成してきたすべての戦い、挑戦、矛盾を、我々は読み取ることができる」と言っています。また、長年大江さんへのインタビューを続けてきたジャーナリストの尾崎真理子さんは「文学として、現代の記録として、また未来の予言として、大江さんの残した膨大な作品群というのは重要さが増していくのではないでしょうか」(『ふらんす』二〇二三年七月号)と強調しますが、私も、歴史や社会の被害者への徹底的な擁護としての大江健三郎の文学が、フランスでもそのように広く読まれることを、特に若い世代に対して望んでいます。
(かんたん こりーぬ・フランス著作権事務所顧問・翻訳者)