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赤木昭夫 ケインズ生誕一四〇年に想う[『図書』2023年12月号より]

ケインズ生誕一四〇年に想う

──『一般理論』独日仏版序文の寓意

 『雇用、利子および貨幣の一般理論』の読み方は、各国の経済「民度」を測るモノサシだと言われる。その意味で『一般理論』の外国語版序文は、ケインズによる民度評価の「要約」になっている。岩波文庫版には残念ながら外国語版序文が収録されていないので、生誕一四〇年のケインズ年を機会に、「要約の要約」を試みた。

 ケインズは、一九三五年一二月に用意した本版(英語版)のための序文で、「抽象的で論争に終始したのは、已むを得なかった」と、自ら認めていた。彼が巣立った正統派経済学では、「前提が明晰でなく、また一般的でないからだった」と釈明する。

 演繹的理論として前提(公理・仮設)が提示されていれば、その妥当性を突くことで、理論を一挙に論破できる。だが、それが理論的不備のため不可能だったので、正統派の議論の展開を想定し、その末端をいちいち批判するしかなく、そのまた想定反論と延々と続き、論点が絞られず浮遊し、結果的に抽象的になったと自己弁護した。

 そこで、もし外国語版が出る際に序文を求められるならば、補筆しておきたいと、当然ケインズは思っただろう。彼がそれを意図したことは、独日仏版の序文の構成、そこに見出される共通性が物語っている。その共通性は、(一)自説の正統派経済学にたいする位置付け、(二)自説の要約、(三)当該国の経済学への批判、から成り立つ。

ドイツ語版では

 本版序文から九ヵ月後、一九三六年九月に独語版序文は書かれたから、その間に確信をもって自説を位置づけられるようになっていた。「英正統派の伝統からの移行」と、歯切れがよい。

 だが、自説の要約となると、ずばりとは言え、概念で終わっている。「一体として捉えた雇用と産出に関する理論。……産出に関する理論は全体主義国家では適用がより容易(ヒットラーの登場にたいする警告)……」。これでは言葉が足りなかったのではないか。

 そして当該国ドイツの経済学批判は、高飛車で、厳しいどころか当を失していた。「まるまる一世紀の間、形式の整った理論(フォーマル・セオリー)が欠落していて」理論好きの国にはふさわしくないと、半ば揶揄していた。──ケインズの父も経済学者で、ドイツとオーストリアの学界での論争も引用しつつ経済学の方法論について著作を残している(一八九一年刊)。息子の当のケインズも、それを読んでいたはずだ。フリードリッヒ・リスト(主著は『政治経済の国民国家的体系』一八四一年完稿)以降の歴史学派のなかで、六〇年代から九〇年代にかけて、演繹的方法を重んじながらも人間行動の経済的側面を明らかにしようとしたカール・メンガー、それにたいして、データに基づく帰納的方法に傾くグスタフ・フォン・シュモラーが反論し、「方法論争(メトーデンストライト)」を展開した経緯を知っていたに違いない。それにも拘わらず「理論欠落」と決めつけたのは、為にする議論だった──

 あえてそれを冒したのは、投資性向を「アニマル・スピリット」とまで突き詰めた人間行動の理論化について、ケインズには強い自負があったためだろう。

日本語版では

 どの国の版の序文も、当面の読者が専門家であるのを前提に、時代の状況、つまり外史は了解済みとして触れていない。だが、社会的背景を想起せずには読めないのが、日本語版ではないか。

 一九二九年一〇月末のニューヨークでの株の大暴落、深刻な世界的不況が長引き、日本では生糸輸出の激減、そして冷害による米価の高騰とが重なり、とくに東北の農村は筆舌につくせない打撃を受けた。それから回復できない一九三六年一二月に、日本語版序文は書かれた。

 それに先立ち一九三〇年に、宮沢賢治が、童話『ビジテリアン大祭』を創作している。動機は、マルサスの『人口論』に触発され、人口増加による食糧不足を防ぐ菜食主義を勧めるためだった。マルサスは、当時の日本でもっとも知られた経済学者で、彼の『人口論』は広く読まれた。原典は一七九八年刊、日本での初訳は一八七七年、主著の『経済学原理』は一八二〇年刊、その日本での初訳は一九三四年だ。明治から昭和にかけて、日本の経済学での問題意識は、「口減らし」と「自給自足」、そして戦後は「成長」に終始した。それが契機で、河上肇のように、マルクス経済学へと進んだ向きも多かった。こうした動向のもとで、スミス、マルサスを経て、ケインズへという、人間性中心の問題意識をたどれるようになったのは、一九四二年発表の高橋泰蔵による「マルサスの富の理論」からと、やっと最近になって分析されたばかりだ。

 日本語版序文で、ケインズは、自著について次のように期待していた。「マルサスの『経済学原理』が(日本で教材として最近)リプリントされたことは、マルサスを継承する本書が歓迎されるだろうと、私を勇気づける」

 ──だが、結果は完全なすれ違い、英日の経済学の関心と水準の隔たりが余りにも大きかった。食い違いを明確にすると、一方は(人口という)現象論、他方は(総経済、ミクロの累積ではないマクロという)本質論だった。日本では、ケインズの寓意は、無残にもまったく響かず、ケンブリッジ流レトリックの「褒め貶し(コムプリメント)」を兼ねていて、まだ日本の経済学はケインズによって克服されたマルサスの段階にとどまると、実は見下されてもいたわけだ。だが、そこまで深読みするほどの心得のある者は、残念ながら皆無だった──

 『一般論』の核心、雇用を左右する「有効需要」という概念は、ケインズがマルサスの手紙を読んで、啓示されたのだった。そうした学説から学説への発展という内史の面で、日本語版序文でのこのマルサスへの言及は、最近のケインズ研究では重視される。

 それにしても、よほどケインズは、マルサスとの繋がりを述べておきたかったのか、それに心を奪われ、自説の位置づけはお座なりで、自説の要約は日本語版序文では略されてしまった。

フランス語版では

 用語をめぐって訳者と著者とのやりとりが続き、挙げ句の果てに第二次大戦が始まったため、仏語版の出版は一九四二年へと、大幅に遅れてしまった。ただし序文は、すでに一九三九年二月に脱稿されていた。

 自説の位置づけでは、他国版と変わらなかった。当該国の経済学批判では、J・B・セイの学説(供給によって需要が決まる、つまり、総経済は常に目一杯だから、不随意失業は在り得ない)は、間違っているから捨てて、モンテスキューの金利説へ、フランスは戻るべしと説いた。

 それには、ケインズ自身の立場を強調しておかねばと思ったのだろう。そのため自説の要約には、本文の第一八章がまるまる充てられているが、そのまた要約を掲げたのが、仏語版序文の一大特色で教育的意義が大きい。

 さらにそこから理論の骨格を抽出すると、次のように二つの作用のシーソー、一方が高まると、他方が低くなる、という動き、ダイナミズムが浮かびあがる。

 一方では、利率の低下によって総投資が増せば、総国民所得が増し、その結果として総雇用が増す。

 他方では、総投資が増せば、それをマネーに戻す流動性が求められる。流動性が求められると、利率が高まる。利率が高まると総投資が低下し、総雇用が低下する。

 ──その結果、利率そして投資と連動し雇用が減ったり増えたりするので、常に完全雇用が保証されるのではない──

 ここでの「一方」が演繹できるために仮定(公準)として、貯蓄=投資(消費以外はすべて投資する)を設定する。また「他方」が演繹できるために仮定として、供給されたマネー=流動性(投資はすべてマネーとして回収される)を設定する。そうした仮説演繹の体系に基づくマクロ経済モデルによって、雇用と利率と貨幣(マネー)の相互関係を論じたのが『一般論』に他ならない。

二〇世紀の知に見えていた地平線

 ところで、どの版の序文でも理論の適用可能性については言及なし。という点が、三つの序文を通じての、ケインズのもう一つの寓意と受け取るべきだろう。

 『一般論』の第一八章の末尾には、この点について考えを促す、次のような呼びかけが付いている。「……必然の法則によって打ち立てられたものだ、と結論づけてはならない。上述した諸条件の、有無を言わさぬ支配は、現実のあるいはこれまでの世界に関する観察された事実であって、絶対不変の必然的原理ではないのである」

 では、どう受け取るべきか。

 ──そもそもケインズは、通貨の研究を始めた頃から、所説の確かさに注意して、平行して確率について論じ、命題と命題の間の論理的関係の正しさの度合いが確率であり、それを決めるのは人間の主観だと、ラムゼイやウィトゲンシュタインたちの哲学の影響も受けつつ、考えるようになっていた──

 ケインズの「絶対不変の必然的原理」の否定は、ありきたりの留保ではなく、万事は非決定的だと悟ろうとする、積極的な主張だったのだ。

 「非決定性」では、二〇世紀の文学や哲学や自然科学(代表が物理学)などとも、ケインズの理論は、軌を一にする。

 ──文学ではプルースト、カフカ、T・S・エリオット、哲学では言語ゲーム論のウィトゲンシュタイン、物理学では不確定性原理や量子のもつれ、などがいずれも「非決定性」を掲げる──

(あかぎ あきお・英文学、学説史)


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