ジョルダン・サンド 伊勢神宮造替の謎[『図書』2024年6月号より]
伊勢神宮造替の謎
建築図のない建築
伊勢神宮の式年遷宮は中世以来、詳細に記録されてきた。『破壊と再生の伊勢神宮』の執筆でこれらの遷宮記を調べていたときに、アメリカ人の建築研究者から遷宮について聞かれたことがある。欧米の大学では「世界建築入門」などの授業において伊勢神宮が紹介されるので、建築界では最も知られている日本の伝統建築である。何より、二〇年ごとに建て替えられていることが有名だ。その古い記録が残っているか、と聞かれて、「千年ほど前から連続して記録がある」と答えた。だが、「図面も?」という質問には戸惑った。往古の伊勢神宮の様子を知りうる建築図は存在しない。そもそも、建築図なしで造られた建築なのだ。
「建築家」という設計専門の職業が存在しなかった前近代の多くの建築と同じように、伊勢神宮の諸殿は大工の経験則と簡単な指図によって造られるものだった。世代間の伝承に相応しい二〇年という周期で式年造替遷宮が守られたおかげで、神宮建築の様式と工法を正確に伝承することができた、と一般には理解されている。だが、実際にはそう単純ではない。
確かに、現在の神宮の状態や、技を尽くした造替を見れば、変化することなく伝統に忠実に進められてきたと想像しやすい。しかし、この見方の背後には、様式の真正性という現代的な執念が潜んでいる。「伝統」は必ずしも完全な複製を狙う保守的なものとは限らない。伊勢さえ、あるいは伊勢こそ、長い歴史の中で変動の波にさらされ、工法の即興と革新もあった。大工たちは先例に倣いながらも、造替のたびに、その時代の技術と状況に応じた解決策を編み出した。
近代になると、古代の様式を可能な限り正確に再現し、後世に加えられた要素をすべて取り除くことになる。神宮建築の〈真正な〉姿を取り戻すことに焦点を当てたこの作業のなかで、専門家は逆に建物がどのように変化したかを知るようになった。建築史家の福山敏男は、一九二七年から一九四〇年にかけて、造神宮使庁の委託を受け、社殿とその配置の変遷をたどる文献調査を行った。皇室への忠誠心から、当時の福山は不変の伝承を求めるバイアスを持っていただろうが、調査によって、数世紀にわたって多くの変化があったことを明らかにした。何より大きかったのは戦国時代の断絶だ。内宮は一四六二年から一五八五年、外宮は一四三四年から一五六三年の間式年遷宮が行われず、ようやく再興となったときに、断片的な古記録によって形式を再現しなければならなかった。調査報告の後記で、福山はこう記した。「戦国時代に入ると、畏れ多いことではあるが、両宮の正遷宮は中絶して百年以上も行はれず、その間廃絶した殿舎や御垣も少くはなかつた。……中絶の期間があまりに長かつたので、古い形が多く忘れられ、遂に新しい形によつて再興せられたものが多かつたやうである」(福山『伊勢神宮の建築と歴史』「後記」一)
戦国の断絶は職人の系譜にとっても決定的であった。元は朝廷から遣わされた職人が造替を行っていたが、次第に神宮直属の工匠の手に移り、室町時代には神宮の大工職が売買の対象にもなっていた。遷宮再興の時は従来の技術組織が衰退しており、全て請負工事になった。これ以降、再興時に請け負った大工からの新たな系譜となる(浜島一成『伊勢神宮を造った匠たち』吉川弘文館、二〇一三年)。
「仮殿遷宮」の五〇〇年
しかし、式年造替遷宮の制度ははるか前から危ない状況にあった。中世から戦国時代にかけて、つまり一一世紀半ばから一六世紀末までの五世紀間以上にわたって、予定通りに行われる式年遷宮の回数より不定期に行われた「仮殿遷宮」の方がずっと多かった。正殿の破損や異常が生じると、神官は朝廷に仮殿遷宮の許可を求めた。そうして、修理や再建の間、簡易の建物(仮殿)を建てるか、あるいは一時的に宝殿などに御神体や神宝装束を納め、修理の後、正殿に戻したのである。
仮殿遷宮が頻繁に行われた最大の理由は、建築が粗雑であったことにあるようだ。現在、材木の伐採から建物の完成まで八年以上かかるが、中世の場合は二年で行われた。その結果、屋根は弛み、雨漏りがし、建物は傾いた。御神体を受ける仮殿は、数日のうちに建てられるものであった。記録にある最古の仮殿遷宮は一〇四〇年で、当時の標準は黒い木で造られ、壁は板張り、屋根は板葺きだった。しかし、どんなに簡素な建物でも、仮殿遷宮の際には、朝廷から新しい装束が贈られ、時には神宝も飾り金物も一緒に送られた。
正殿の修理に必要な資金が調達できれば、御神体が仮殿で過ごす期間はわずかであった。しかし、戦国の長い中断の間、仮殿は、内宮と外宮の両方で、御神体とその付属品の半永久的な住まいとなっていた。一四九七年、本殿が倒壊の危機に瀕し、仮殿を建てる資金も不足していたため、内宮の神職は一本の杉の木を使って自分たちで仮殿を建てるよう宮中から指示された。遷宮記には、その悲惨な状況が記されている。「御神体は地上に御座、諸人拝見致す可事、天下重事神宮珍事、前代未聞之堪え難い次第也」(『明応六年内宮臨時仮殿遷宮記』)。
実に八〇年もの間、内宮の東西の敷地には正殿がなかったのだ。御神体は東西の間を規則正しく移動するのではなく、安住の地を求めて境内に現存する建造物の間を何度も行き来していた。同時代は参拝者も多く、伊勢の地域も栄えており、なぜここまでの状況に陥ったのか不思議だ。国家祭礼の場として、伊勢神宮は「氏子」もなく、都から資金が来なければ荒れ果てる一方だったのだろう。
各時代に異なる「神宮」
今日の伊勢の建築を賞賛する人々は、素木の造形美、卓越した大工技術の伝統、そして二〇年ごとに完璧な複製を造るという三つの要素を想起するであろう。しかし、過去の人は神宮を同じ目で見たわけではない。以下では、中世以来の神宮をめぐる五つの視点をたどっていく。それぞれの視点は、神宮の建築形態の何が最も重要であるかに対する異なった理解を反映している。簡略に言えば、それは「密教の伊勢」、「質素な伊勢」、「巡礼の伊勢」、「歴史復興の伊勢」、そして「原初建築の伊勢」と呼べよう。
一〇世紀以降に外宮の神官などによって書かれた書物では、神宮建築は仏教の宇宙観と陰陽五行説によって図像学的に解釈された。これは「密教の伊勢」という解釈であった。例えば、正殿の「鏡形」という妻飾りは天の梵宮(梵天の宮殿)を表現するとか、棟に乗る鰹木が星座を表すと説明された。この解釈では、素木の造形美とは無縁に、むしろ建物の装飾部分が大事であった。このような神宮建築の図像学はさまざまな形で流布し、今も受け継がれている。例えば、内宮と外宮で千木の切り方が違うのは、陰陽道における男女の違いを反映している、とツアーなどで説明される。
一三四二年の冬に神宮参詣した坂十仏という僧侶の日記がある。坂の神宮に対する理解は、仏教に深く影響されていた。同時に、坂は神宮の簡素な建築に、庶民を思いやる天皇の倹約の精神を見出す。「みづがきには丹朱をもぬらず、御殿には檜皮をもふかず、かやの軒端しどろにふきなして……是は国のわづらひ民の費をあわれみ給故なり」(「伊勢太神宮参詣記」『神宮参拝記大成』一九七六年)と礼賛する。坂の参詣記は「質素な伊勢」という、「密教の伊勢」と並行して伝えられた長い伝統の代表的事例だ。だが興味深いことに、この伝統の淵源は伊勢にあるのではないらしい。中国古典『春秋左氏伝』にも、周の文王、武王の清廟について同じような文言が見られるのだ。
一五世紀には禅宗寺の慶光院の尼が遷宮再興のために勧進を行った。慶光院の尼にとって、伊勢神宮の建築は神仏習合の巡礼という文脈で意味を持った。勧進の絵解きに使われた両宮曼荼羅(神宮徴古館所蔵)では、中心的な社殿そのものよりも、参拝者が社殿に向かって進む道のりを重視している。正殿の描写は、神明造と今日呼ばれる様式から大きく乖離しており、絵師にとって、建築の実際の様子は重要ではなかったことを示唆している。描かれた当時、モデルとなる正殿はどちらの神宮にも存在しなかった可能性もある。微かな記憶のように、千木と鰹木の屋根飾りが読み取れるだけだ。しかし、屋根の構造や向きは異なり、板壁は蔀戸(格子)に置き換えられ、周囲の垣は赤く塗られている。このような特徴が実際にあったか疑問だが、一五世紀から一六世紀にかけて何が建っていたのかをいま確かめる術はない。慶光院の尼僧たちは建物の復古より遷宮の再興が狙いで、遷宮を利用してより多くの大衆を巡礼に引き込むことに重点を置いており、建築様式はあまり重視されなかった。
歴史復興と原初建築論
徳川幕府の支援によって、式年遷宮はようやく定期的なサイクルに戻った。そして、平和と繁栄の中、一六六九年(寛文九年)の遷宮を契機として、神官は神宮建築の本来の姿を追求するため、古代の先例に目を向け、より歴史に忠実な復興を試みた。長い中断の間に失われた要素を取り戻すと同時に、古代の先例を使って、神宮の威厳を高めることを狙った。正殿の復興がすでに実現していたので、今度は門や垣に焦点が当てられた。例えば、古記録に記された四重の垣は、当時一つに縮小されていたので、垣の復活を幕府に請願した。しかし、門の形式については後に外宮と内宮の間に紛争が起こっているため、この時代の歴史復興主義は、単純に歴史に忠実な神宮建築の再現にあっただけではなさそうだ(加藤悠希『近世・近代の歴史意識と建築』中央公論美術出版、二〇一五年)。
十八世紀になると、この歴史復興主義と並行して、神宮の外で、神宮の建築様式が原初建築説に応用されるようになる(井上章一『伊勢神宮 魅惑の日本建築』講談社、二〇〇九年)。新井白石をはじめ、識者は神明造の屋根と現代の農家の屋根との間に類似性を見いだし、そこに共通の原初的な家型の証拠を読み取った。この見方は江戸時代の経験主義を表しているところも注目に値するが、原初の家を追求するという発想自体も興味深い。この発想は同時代のヨーロッパでも起こっていた。
大工の深谷治直が著した『社類建地割』(一七三九年)は、この原始的住居の建築様式を描いている早い事例である。深谷は二つの類型を想定し、伊勢の正殿のように棟持柱を持つ住居を神代の地神の住居とし、天神の住居は棟持柱を持たなかったと述べた。総じて「天地根元宮造」と呼び、天神の住居の子孫はまさに「今諸国山中にある」と主張した。天地根元宮造概念は二〇世紀になっても建築史家に影響を与え続けた(佐藤浩司「「始原の小屋(primitive hut)」の発見」『民博通信』四九、国立民族博物館、一九九〇)。
こうした神宮建築の原初主義的解釈の視線は、垣や門の先例を研究する歴史復興主義と違って、正殿に向けられた。一方、復興を狙う神官が関心を抱いた要素は土俗的な伝統とは無縁のものであった。このように、復古論が現在の目的のために過去の文字記録を読んだのに対し、原初建築論は過去を探求するために現在の建築形式を読んだのである。
神宮建築は原形を留めているか
伊勢の造替の伝統は、現存する建造物に基づく近代の建築史研究を阻んだ。しかも遷宮の中で、木造建築は最も文書化されることが少なかった。福山敏男は、建物そのものの記録が不完全であったため、飾り金物の数や大きさ、内部に掛けられた絹の帳の寸法などから計算し、一種のリバース・エンジニアリングにより古代の伊勢を復元した。都から送られたこれらの品々は、材木とは異なり、何世紀にもわたって記録されていたからだ。
これに関して、現存する最古の文書資料は、正倉院にたまたま残った八世紀の内宮のために注文された金具のリストである。福山は、『皇太神宮儀式帳』(八〇四年)に記載された建物全体の寸法とこの金具の情報を組み合わせることで、正殿の構造や規模をかなり詳細に把握することに成功した。こうして福山は事実上、古代の木造構造を、金属と絹を貼り付けたネガの刻印として紙の上に再構築したのである。しかし、伊勢における木造建築の伝統そのものも、負の刻印として存在していたとさえ言えるかもしれない。貴金属や絹織物を収蔵し、儀式を執り行うための装飾された舞台装置を提供するために、神宮の木造建築は存在したからである。私たちが過去の神宮建築を知ることができるのは、造替遷宮にかかった費用の記録、祭祀の詳細、都で作られ伊勢に送られた装飾品などを含む記録を通しての、影の形だけである。建築そのものの記録が乏しいため、パルテノン神殿の大理石がかつて彩色されていたように、内宮正殿が彩色された時代があったかもしれないし、あるいは壁が蔀戸になっていたかもしれない。
建築史家の丸山茂は二〇〇一年に、福山敏男が八〇四年の『皇大神宮儀式帳』を誤読していたと主張した(丸山茂著『神社建築史論──古代王権と祭祀』中央公論美術出版、二〇〇一年)。丸山は、正殿の屋根の高さから、『儀式帳』をストレートに読むとこの建物が高床だったことは不可能であると判断した。福山は、後に判明した寸法に合わせるために、『儀式帳』の寸法は地面からではなく、床から棟までの高さを表していると捉えたが、八〇四年以前の記録には、この解釈の根拠がないと丸山は言う。その代わりに、初期の内宮はおそらく棟持柱も心御柱もなく、何らかの基壇の上に建っていただろうと主張した。もし丸山の言う通り、七、八世紀の内宮が、柱を地面に埋めた高床式ではなく、大陸の寺院のように台座の上に建っていたとすれば、神宮建築の歴史は周期的でもなく、高度な工法から原始的な工法へと逆行していることになる。
丸山の説が正しいかどうかわからないが、内宮の正殿が高床だったのか、それとも地面の上に置かれていたのかという根本的なことに関して、同じ古代の記録を検証した二人の建築史専門家が異なる結論を導き出したのなら、往古の伊勢神宮が結局どのような建築だったかは謎のままと言わざるを得ない。一三〇〇年間の各世代の職人の実際の仕事について、私たちが知りうることがいかに少ないかを思い知らされる。それだけに、伊勢神宮の建築は、朝廷の資金問題や遷宮の中断など、様々な異変だけでなく、各時代の信仰、嗜好、希望にも影響されながら、絶えず変化してきたと考えるべきだろう。
(じょるだん さんど・日本近代史)