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栖来ひかり 継がれる想い[『図書』2024年6月号より]

継がれる想い

 

 三〇年ほどまえ、山口県山口市で育ったわたしは美大受験のため、おとなりほう))市の画塾に通っていた。それから約二〇年後、まさかその街の図書館で、現在わたしが暮らす台湾における重要な近代美術画家の作品が発見されるとは、当たり前だが露ほども考えたことはなかった。

 二〇一五年に発見されたその絵の作者をちん)とう))という。防府市で見つかったのは、地元の政治家で第一一代台湾総督だった上山満之進の縁によるものだ。陳澄波は一八九五年に生まれ、一九四七年に没した。この生没年は台湾の近現代史にとって非常に象徴的な意味を持つ。というのも一八九五年は、日清講和条約で、日清戦争の結果、台湾が清国から日本へと割譲されることが決まった年である。台湾南部の))に生まれた陳澄波は、東京美術学校(現・東京藝大)で学び、台湾人の美術家としては二人目、画家としては初めて帝展(帝国美術院展覧会)に入選した。

 また、陳澄波が亡くなった一九四七年には、第二次世界大戦終結後の台湾に深い亀裂を生んだ二・二八事件が起こった。戦後の国民党政権の横暴や腐敗に不満と怒りを膨らませていた台湾の民衆が、役人の暴行事件をきっかけに各地で激しい抗議行動を起こし、それを国民党政府が軍隊で抑え込んだ大規模な武力鎮圧事件で、犠牲者は二万人以上ともいわれる。

 当時、「反政府」のレッテルを貼られ粛清された人々のなかでも最大の標的となったのが、日本統治時代の教育を受けたエリートたちだった。地元・嘉義の人々に慕われる文化人であり、市会議員として働き、市民を守る責務を感じていた陳澄波もその一人で、軍と交渉に出かけた先で捕まり、裁判もなく嘉義の駅前で公開処刑された。その後、事件に関してはかん)こう)れい)が敷かれ、銃殺された陳澄波の名もタブーとなった。一九八七年に台湾の戒厳令が解除され、民主化の道を歩み始めると共にようやく陳澄波の存在に光があたり、再評価が始まった。特に二〇〇〇年代以降はブームとなり、『淡水夕照』という作品は二〇〇七年のサザビーズ香港にて現在の日本円換算で約九億一三〇〇万円で落札、これは台湾人画家のオークション価格としては史上最高である。

 わたしは二〇〇六年から台北に暮らしているが、この『淡水夕照』は、わたしが最初に意識した陳澄波の作品であった。それから思いがけず陳澄波との縁は深まり、知人を通じて陳澄波の手書きノートを書き起こすアルバイトの依頼があった(その書き起こしはのちに出版された『陳澄波全集』に収録された)。その収入で新しいノートパソコンを買い、語学学校の頭金を支払った。取材が出来る程度の台湾華語(いわゆる中国語/マンダリンだが、細かい用法や単語に台湾らしさを持つ)が身についたころ、フリーランスのライターとして取材・執筆を始めた。こう振り返れば「書くこと」をわたしが仕事とするようになったのは、間接的に陳澄波のおかげといえなくもない。

 

 二〇一五年に防府市の図書館で陳澄波の幻の作品『東台湾臨海道路』が見つかったというニュースは台湾でも流れた。日本から有志の訪問団が組まれることになり、わたしも記事を書くために初めて嘉義を訪れ、陳澄波の長男であるちん)じゅう)こう)さんや孫のちん)りっ)ぱく)さんにお目にかかることができた。立栢さんに案内していただき、陳澄波の生涯を紹介する展示を見ながら、日本植民地下での台湾人差別のため職を求めて上海へ渡った陳澄波が、非常に複雑なアイデンティティを抱えていたことを知った。

 台湾人であるわたしの夫の伯父は、結婚したばかりのわたしに向かって自分を「私は忘れられた日本人です」と日本語で自己紹介した。義伯父は太平洋戦争を経験した日本語教育世代で、日本軍属としてフィリピンにも行って戦ったという。それを聞いて大変なショックを受けた。どうして日本人のわたしは、こんな大切なことをこれまで知らないできたのか。これが、わたしにとって台湾について知りたい/伝えたいと思う最初の動機となった。日本ではいわゆる「親日」的な側面ばかりクローズアップされがちな台湾。その素顔が、そして今はもう亡き義伯父の「忘れられた日本人」という言葉に秘められた真意が、植民統治下の台湾で生きた陳澄波の人生にも隠されているような気がした。

 その後も陳澄波との縁は続き、日台それぞれで執筆活動を続けているうち、重光さん、立栢さんが運営する陳澄波文化基金会からも信頼を得ることが出来たのか、いろいろと仕事をいただくようになった。内容は、基金会の出版物の翻訳や校正とさまざまだが、定期的に仕事をもらっていた訳ではない。でも不思議と、ちょうど金銭面で困っていたときに、仕事の依頼があった。

 さらにコロナ禍に差しかかる二〇一九年には、『陳澄波を探して──消された台湾画家の謎(岩波書店、二〇二四年)の翻訳の依頼をいただいた。文芸翻訳の経験のない自分がこなせるか迷ったが、原書を読んで(不遜ではあるが)、自分しかこの本の訳者はいないように感じて引き受けた。陳澄波の思念が、あの世からわたしに働きかけ、彼が伝えられなかった想いや時や事を、どうか日本に伝えてほしいと訴えかけているように感じたのである。

 

 陳澄波の孫の立栢さんと話していて、わたしと同じような経験や想いを抱いていることを知った。立栢さんは柔和で、研究者のような繊細なたたずまいをしているが、実はたいした実業家でもある。

 絵の見つかった防府市のお隣の山口市あい))は「クルマエビ養殖発祥の地」と言われている。かつて藤永元作という萩市出身のエビ養殖の研究者による塩田跡を利用した「藤永くるまえび研究所」があり、今でもクルマエビ養殖がさかんだ。台湾海洋大学終身特別教授で、台湾では「ブラックタイガー養殖の父」ともいわれる廖一久リャオイーチュウ)さんも、若手の頃ここで研究員をつとめた。廖さんは帰台したあと台湾南部のへい)とう)にある「台湾省水産試験所東港分所」の所長となったが、そこに研究員として入ったのが台湾海洋大学を卒業したばかりの陳立栢さんだった。その後、陳さんは独立し、廖さんがブラックタイガー養殖の研究成果を広めたフィリピンにおいて養殖会社を起ち上げて成功。また乳酸菌製品を生産する工場の経営にも成功した。

 陳澄波は多作で、残された作品をすべて修復し、しかるべき温度・湿度で保管するには多額の資金が必要となる。しかし、実業のおかげで陳澄波の作品を急いで手放すことなく、全集一八巻の出版といった文化事業へとつなげることができた。戦後の戒厳令下で長くタブーとなってきた台湾の近代美術研究の歴史は浅く、先行研究も多くない。そうした困難な状況で、陳澄波についての研究は長年、若い研究者にとって格好の題材となってきた。

 「祖父の作品の修復や保管のためにお金が必要となるたび事業はうまくいき、文化基金会の運転資金となりました。今も大半は実業から。祖父があの世から手助けしてくれていると感じます」と立栢さんはいう。不思議に聞こえるが、この世には理屈を超えたことがあるというのが、陳澄波に対するわたしの経験である。

 

 『陳澄波全集』全一八巻を二〇二二年に刊行し終えた陳澄波文化基金会は、次なる社会へ還元する多彩な活動に取り組んでいる。

 まずは、舞台劇『ぞう))(飛人集社劇團)の上演だ。陳澄波の死後に絵を守り続けた妻、ちょう)しょう)と、父ゆずりの画才に恵まれたが父の銃殺を目撃したことで筆を折った次女のへき)じょ)という、ふたりの女性を主人公にした物語で、二〇二三年に初演され今も台湾各地で上演が続き、ドラマ化も予定されている。

 また、遥かなる古代から近現代までこの「台湾」という諸島で起こってきた出来事を「台湾史」として記述し、台湾の子供たちにわかりやすく理解してもらう漫画『集合! RENDEZVOUS(約束の場所)』の定期出版が、一昨年から始まっている。二か月に一巻、台湾のあらゆる時代の出来事をランダムに読み切りの形で物語化し、全一二〇巻を二〇年かけて出版するという壮大な計画である。この漫画を教材として使う教職員向けのワークショップや、台湾語の吹き替えによる動画制作、そして都市部のみならず)らん)や屏東など台湾各地で物語背景についての講座を行う。このプロジェクトでは二〇―三〇代の台湾の若い世代が中心となっているのも特徴で、ここには台湾の未来は若い世代に、しかし教育は今の大人の責任であるという姿勢が感じられる。

 そして、陳澄波の研究とともに得られた台湾近代美術を含む歴史資料を活用した文化事業にも積極的だ。台風による土砂崩れで長く復旧工事が行われ、今年二〇二四年の夏にようやく開通と目される「))さん)森林鉄路」の「福森号」車内は、陳澄波をはじめ、小早川とく))ろう))))よし))といった、阿里山の自然環境と美しさを表現した画家の作品のレプリカによる「動く美術館」となる。

 「ここで紹介する日本人の画家は、今の日本では知られてないけど、台湾では国宝級なんですよ。私たちは、忘れられた美を再発見し、日本からの観光客の皆さんとも分かち合いたいんです」と立栢さんは言う。

 ここ一五年ほど、台湾各地で日本統治時代の家屋や産業遺産が活発に修復され、みごとに活用されている。それを見た多くの日本人が「台湾が日本統治時代の建物を大事にしてくれるのは、やっぱり“親日”だから」と言うのを耳にする。しかし、そうではないと思う。台湾人が大切にしているのは、「我々“台湾”が歩んできた大切な経験の一部」であり、力づよく未来に向かう台湾の血と骨とすべくそれらを貪欲に活かそうとしているからだ。それだけでなく、その成果を日本の人々にも分け与えてくれているのである。こうした一滴一滴の清らかで寛容、かつ切迫した想いに潤され、わたしは明日も書くことができる。

(すみき ひかり・文筆家)


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