清水亮 ツェッペリン飛行船の戦争と平和──霞ヶ浦から世界へつながる街歩き[『図書』2024年7月号より]
ツェッペリン飛行船の戦争と平和
──霞ヶ浦から世界へつながる街歩き
君はツェッペリンを見たか@フリードリヒスハーフェン
フェリーに乗って、湖の上空に目を凝らすと、青空に丸い点が見えた。少し目を離している間にぐっと大きくなり、点は飛行船とわかる。あっという間にすれ違い飛び去っていく。
ここはドイツのボーデン湖。湖を西から東へ横切って、コンスタンツからフリードリヒスハーフェンへ向かうフェリーの甲板上だ。飛んで来たのは遊覧飛行中のツェッペリンNT号である。ほどなくフリードリヒスハーフェン港に着けば、世界中の飛行船の歴史遺産を展示したツェッペリン博物館が待ち受けている。街を歩き「Zeppelin!」の声を聞いて見上げれば、葉巻のような飛行船が静かにゆったりと浮かんでいる。
フリードリヒスハーフェンは、お馴染みのガイドブック『地球の歩き方 ドイツ』(Gakken)にも一頁割かれるか否か。日本では耳慣れない街だけれど、十年来、私にとっては特別な街だった。
私が大学生の頃から調査してきた茨城県阿見町と土浦市でのこと。1929年8月、世界一周中の巨大飛行船ツェッペリン伯号が、フリードリヒスハーフェンから飛来した。いまや日本全体では忘れ去られていても、地域では有名な歴史だ。ドイツから出発し、第一次世界大戦で敵国だった日米を経由する3週間の旅は、世界中に報じられた一大スペクタクル・メディア・イベントだった。日本では「君はツェッペリンを見たか」が流行語となり、「平和の天使」「国境なき欧亜米の空を旅する天空の王者」などと報じられた。東京上空を遊覧したツェッペリン伯号は、霞ヶ浦海軍飛行場に降り立ったのだった。
当時の写真を見ると、飛行船が巨大すぎて、下に集まった白い軍服姿の海軍軍人たちは、まるで米粒のようだ。全長236メートルで、現在飛行しているNT号の約3倍だ。全長263メートルの戦艦大和と比べても遜色ない物体が空に浮かんでいたのである。
飛行船と海軍の街の記憶を歩く@土浦
ボーデン湖畔の公園では、姉妹都市の土浦(Tsuchiura)まで「9500 km」と書かれた標識を見つけた。現在の土浦市は、初見では、日本のどこにでもありそうな地方都市にみえてしまう。観光といえば、土浦駅の東側に広がる霞ヶ浦沿岸でのサイクリングだ。西側の、若干寂れた感も否めない市街地を街歩きする人は、そう多くない。しかし、そこここの片隅に、歴史が息づく唯一無二の場所があって、奥深い魅力を秘めている。
まず、観光拠点である「まちかど蔵」の敷地内には、ツェッペリン関連の資料が所狭しと詰め込まれたツェッペリン伯号展示館がある。展示をみると、実はツェッペリンNT号が2005年に霞ヶ浦に飛来し、歓迎式典が開かれるという出来事もあったとわかる。すぐそばの料亭霞月楼(1889年創業)では、ツェッペリン伯号の乗組員たちの歓迎会が開かれていた。入口の歴史展示コーナーには当時の献立の記録も展示されている。せっかく、この街を訪れたなら、料亭は少し敷居が高いとしても、近所にある、てんぷらの保立食堂や、そばの吾妻庵でランチもよい。いずれも明治から続く海軍ゆかりの老舗で、気軽に暖簾をくぐって、過去に思いを馳せることができる。
腹ごしらえをしたら、城跡の亀城公園を横切り、土浦市亀城プラザに入ろう。奥の暗がりに20分の1スケールのツェッペリン飛行船模型がのっそりと鎮座している。「土浦ツェッペリン倶楽部」という地元の愛好家が製作したものだ。その数件隣の城藤茶店は、かつて海軍将校が住んでいたという古民家をリノベーションしたカフェ。畳に足を伸ばせばコーヒーと、別腹のスイーツが待ちどおしい。
あとは、軍港都市呉を舞台にした映画『この世界の片隅に』のロングラン上映で知る人ぞ知る、土浦セントラルシネマズで同作関連展示を見るもよし。関東最大級の店舗面積を誇るつちうら古書倶楽部で郷土資料を物色するもよし。
土浦駅からバスに乗れば、飛行場が立地した阿見町の予科練平和記念館にも足を延ばせる。空襲や特攻に関する展示から、ツェッペリンが飛び去った後の戦争の時代について学べば、館のすぐ後ろに広がる霞ヶ浦も、違って見えてくるだろう。
フリードリヒスハーフェンと土浦のその後
フリードリヒスハーフェンのツェッペリン博物館に話を戻そう。ここでは、世界一周後のツェッペリン飛行船についても知ることができる。
ドイツでは、世界一周の4年後にヒトラーが政権を握る。ツェッペリン伯号は、次いで建造された世界最大のヒンデンブルク号同様、ナチスの鉤十字を尾翼につけて飛行せざるをえなくなる。「平和の天使」は、ナチスのプロパガンダ装置へと変じた。
1937年、ヒンデンブルク号は衆人環視のなか、謎の大爆発を起こす。40年にはツェッペリン伯号も解体され航空機資材となった。戦車からV2ロケットの部品まで製造する軍需産業の拠点となったフリードリヒスハーフェンは、44年に空襲で灰燼に帰した。
同じころ土浦も、国際的な「世界の空の港」から帝国の「空都」へ変貌していく。1937年に日中戦争が始まると、霞ヶ浦海軍航空隊の教官や訓練を受けた搭乗員たちが戦場に向かい、中国各都市への爆撃作戦を担う。土浦市生まれの教官が、南京空襲で挙げた「偉勲」について、地域紙『いはらき』は「空都土浦の歓喜ぶりは非常なもの」だったと報じた。戦争末期の44年に南方の激戦地に送られる学徒兵パイロットたちが落書きをした屏風が、霞月楼に現在も残っている。このあたりの詳細は、昨年上梓した『「軍都」を生きる──霞ヶ浦の生活史1919-1968』(岩波書店)をご覧あれ。
このように霞ヶ浦の空は、国際交流と戦争の記憶に彩られている。その大空から連想される場所は、日本国内の特攻基地や軍港都市に限らない。ニュルンベルクのナチ党大会の遺構(1909年の飛行船飛来にちなんだツェッペリン広場もある)とも、中国各地での都市爆撃の展示(上海淞滬抗戦紀念館や侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館)ともつながっていることになる。大空を飛ぶという人類の夢を叶えた飛行機のテクノロジーは、平和と戦争のはざまで、さまざまな場所を結び付けてきた。その地球規模の歴史の一端を、フリードリヒスハーフェンや土浦という世界の片隅から仰ぎ見ることができる。
グローカル歴史実践へ向けて
ローカルな地域の歴史のかけらを集めて掘り下げる実践は、単に日本史というナショナルな歴史の一部を補完する作業ではない。グローバルな世界史を、私たちの生活する地域から捉え直す可能性をもつ。「グローバル」な視野を持ちつつ「ローカル」な〈世界の片隅〉を探究する歴史への向き合い方を、「グローカル歴史実践」と呼んでみよう。
第二次世界大戦や戦間期の国際協調は、歴史の教科書にも俯瞰的に説明されてはいる。しかし、それはそのままでは、どこか遠くの〈他人ごと〉に感じられがちだ。これに対して、地域に息づく歴史のかけらを拾い集める街歩きは、歴史を〈自分ごと〉として経験し想像する方法の一つだ。
霞ヶ浦にツェッペリンがやってきた。その歴史のひとかけらが、私をフリードリヒスハーフェンへ導いた切符だった。街歩きで手に入れた、教科書の年表には載らない歴史のかけらが、世界のあちこちの片隅への旅を促してくる。
この文章を読んでいるあなたも、きっとなにがしか気になる歴史のかけらを持っているはず。すぐ見つからなければ、この『図書』に載った小片を持って土浦・阿見の街歩きをしてみるのも一興だ。
それでは、よい旅を!(Gute Reise!)
(しみずりょう・社会学)