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【文庫解説】大正時代の「奥座敷」──永井荷風『断腸亭日乗 第一巻』より

『断腸亭日乗』は、明治・大正・昭和三代に渉る文豪・荷風(1879-1959)の日記です。大正6年(1917)9月16日から昭和34年(1959)4月29日、逝去の前日まで41年間、書き継がれました。日々折々に捉えた自然、人物、社会風俗、政治観が、洗練さと雅味に富み、同時に鋭利な批判を込めた見事な日本語で綴られます。近代日本の辿った歴史を見詰め続けた一人の文学者・文明批評家による稀有の証言録でもあります。荷風の自筆稿自体が、重要な日本の文化財の一つであります。永年にわたり、岩波書店は日記の自筆稿を精査・校訂、大古典の本文を全集として護ってきました。今回、日記の全文・フルカウント版を、初めての詳細な注解を中島国彦先生、多田蔵人先生が付して、岩波文庫全9冊として刊行を開始いたします。第九巻には、全体の「索引」(中村良衛・多田蔵人編)をつけます。

 【全巻目次】
 第一巻 大正六(一九一七)年―十四(一九二五)年
 第二巻 大正十五(一九二六)年―昭和三(一九二八)年
 第三巻 昭和四(一九二九)年―七(一九三二)年
 第四巻 昭和八(一九三三)年―十(一九三五)年
 第五巻 昭和十一(一九三六)年―十三(一九三八)年
 第六巻 昭和十四(一九三九)年―十六(一九四一)年
 第七巻 昭和十七(一九四二)年―二十(一九四五)年
 第八巻 昭和二十一(一九四六)年―三十(一九五五)年
 第九巻 昭和三十一(一九五六)年―三十四(一九五九)年

以下は、第一巻の多田先生の「解説」からです。


 『断腸亭日乗』本巻には、第一次世界大戦後の時代をしたたかに持ちこたえた荷風の足どりを読むことができる。東京の変貌を描きながら偏奇館の静寂を聴き、新風俗を罵りながらじっと見つめている荷風の言葉は、歴史の「前線」ばかり追う眼を制し、一歩さがったところで大正時代をながめる視点へと読者を誘う。たしかにこの時代には、そんな風に見てみることで、かえって明瞭に見えてくる相があったようだ。

 明治期に浅草と吉原を歩きまわった荷風がふたたび浅草に出没しはじめるのは、昭和に入ってからのこと。大正時代に彼が多く出入りしたのは銀座界隈、それも「待合」と呼ばれる座敷だった。料理を出し芸者を呼ぶこともできる待合は饗応に便利で、いわゆる「待合政治」のほか芸術家の会合にもよく利用された。周囲に多く待合をひかえた築地木挽町に住んだころの荷風は、すでに相当の腕だったらしい江戸の音曲、清元節をしきりに稽古している。

  (略)

 荷風が加わった「新演芸」の演劇合評会(七草会)もまた、こうした構想の一環だった可能性は十分にある。そもそも荷風は西園寺公望が組織した文学者懇談会「雨声会」で、西園寺ともっとも意気投合したと言われる一人でもあった。ただし『日乗』を見るに、荷風は「芸」をコントロールすべき対象と捉える人々とも、貴顕紳士の説諭をだまって聞いていた芸人たちとも、席を共にし語りあっていたことがわかる。待合に出入りし時代の趣味を語る「士大夫」の言葉も、彼らが聞こうとさえ思わない人々の言葉も等しく遠く聴く、そうした言語感覚を持つ人だったからこそ、時代のさまざまな「声」を集めて切り子細工のように多面的な世界を構成する、『雨瀟瀟』のような作品が生まれたのだろう。

 音曲の時代は大正九年五月の偏奇館移住の頃に終わり、次に観劇の時代が来る。この時期、国民文芸会はもちろん、愛弟子の島村抱月をスペイン風邪で失ったばかりの坪内逍遥もまた、貪欲に台詞の改良につとめページェント劇の可能性を探っている。菊池寛を中心とする劇作家協会は、一三代目守田勘弥と組んで次々に新作物の上演を成功させた。『日乗』の観劇記録は多く劇場名だけを書きとめるスタイルだが、あらためて追跡してみると、荷風が小山内と二代目市川左団次の一座以外にも、合評会などで痛罵していた人々の劇、菊池寛や久米正雄、山本有三などの『現代脚本叢書』や『現代戯曲選集』に載った作品を、実によく見ていることがわかる。大正後期の文壇は空前の脚本流行時代でもあって、総合誌「中央公論」や「改造」の創作欄には多くの演劇脚本が掲載されていた。『日乗』本巻には知友の本以外の近代文学作品は八年半にわたってほとんど登場していないけれども、荷風はこうした文学動向を、劇場で目におさめつづけていたわけである。

 大戦後の好景気をうけてロシア・オペラや梅蘭芳(メイランファン)やバレエ団が招聘され、演劇人の洋行が相次いだ一九二〇年前後において、芸術の最前線は舞台にあった。芸術の統制を試みる紳士たちの思惑はともかく、若い世代は新しい機軸を打ちだそうと試みている。とりわけアンナ・パブロワ来日が象徴するロシア・バレエの影響は強く、歌舞伎では二代目市川猿之助の春秋座、五代目中村福助の羽衣会、七代目尾上栄三郎の踏影会と、バレエ様式を取り入れた「新舞踊」の試みが行われた。歌の言葉にとらわれず、身体の動きによって意味を作りなそうとする試みである。

 新舞踊に対する荷風の評は手厳しいが、たとえば新舞踊のもう一つの核となったのがかつての妻・八重次、すなわち藤間静枝の主宰する藤蔭会だったことに注目してみると、自作『秋の別れ』が再演され、浄瑠璃所作事『旅姿思掛稲(たびすがたおもいのかけいね)』を依頼されたりした荷風の位置も、別の形で浮かびあがってくるようだ。動きと言葉が少なく、背景と動きによってムードを醸しだしていた荷風の劇は、新舞踊隆盛期には「祖」の一つに数えられていたらしい。新舞踊のもう一方の動因はおそらく映画の流行であり、新舞踊と小説家の戯曲執筆、三越の「文士画家俳優写真会」が象徴するカメラの流行、北原白秋『金魚経』や萩原朔太郎『猫町』などの詩人たちの小説執筆といった個々の現象には、深いところで通底するものがある。当時の文壇と劇壇は、映画が言葉の特権性をゆるがすことで生まれた視覚と言葉の乖離状況にどう向きあうかという、共通の課題に直面していたのである。

  (略)

 大正一一年の森鷗外の死と『鷗外全集』編纂作業によって着想を得た『下谷叢話』(初出題『下谷のはなし』)が、こうした時期に執筆された作品であることは見逃せない。『下谷叢話』はよく鷗外の『渋江抽斎』などと比べて学殖の多寡を論じられるのだが、そうした評価の方法には、どこか教養幻想のようなものにとらわれた物の見方があるのではないだろうか。むしろ『日乗』では、着想から一年たらずの間に(しかも関東大震災を挟みながら)関係者を一通り訪問し、基本文献を取りそろえて執筆にかかってしまう荷風のスピードが印象的だ。それは荷風の健脚や情熱と同時に、明治漢詩の雄・永井禾原(ながいかげん)の子であり友人も多く漢学の家に育っていた、荷風の東京漢詩壇ネットワークの稠密さを証しだてているのである(荷風は『梅雨晴』という文章で、鷗外の『抽斎』執筆より前に渋江家資料が友人間の噂になったことを、さりげなく書きとめている)。日記冒頭に永井禾原と王一亭の書幅を掛ける記事があるように、荷風の漢詩観には父・禾原が上海で身を浸した清詩の影響がある。『下谷叢話』の行文が、いわば上海詩壇から眺めた江戸後期文苑といった趣をもつ所以だろう。

 重要なのは、荷風が鷗外史伝を「言文一致」文体の尖鋭な試みとして捉えていたことだ。漢詩文の引用によって構成され言外に多くの意味を含ませた『下谷叢話』は、口語文という伝達手段がどれほど意味の負荷に耐えられるかを試す、映像時代の文章実験だったのである。こうした試みは、やがて『つゆのあとさき』や『濹東綺譚』などの、文章に過剰なイメージを忍びこませ、あるいはエピソードを映画のフィルムのようにつなぎ合わせる手法へと結実してゆくのである。

 簡潔だが決して覚え書きではない『日乗』の文体もまた、日々言葉を選んでゆく試みだったはずだ。実は『断腸亭日乗』は当時の文語文の日記としても記事が短い方だが、そう思えないのは雨の表現だけでも数えきれないほどの表現の豊かさ、そして書かれなかった事柄を示唆する力によるのだろう。追跡を重ねてもなお不明である固有名の数々に嘆息しつつ、本巻の注解は紙幅の許す範囲で、なるべく荷風の日々の細部が見えるようにつけた。劇場や店に足を運んで人に会い、買い物をして髪を切り病院に通い、そして書物を手にとる。そんな場所やタイトルの選びかたの一つ一つに――書かれなかったことを想像しながら――、荷風と大正時代の姿を探していただけたらと思う。

(続きは、本書永井荷風『断腸亭日乗 第一巻』をお読みください)

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