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木下眞穂 物語を語らぬ絵本[『図書』2024年8月号より]

物語を語らぬ絵本

──『戦争は、』について

ジョゼ・ジョルジェ・レトリア 文 , アンドレ・レトリア 絵 , 木下眞穂 訳『戦争は、』
ジョゼ・ジョルジェ・レトリア 文 , アンドレ・レトリア 絵 , 木下眞穂 訳『戦争は、』

 『戦争は、』の原書である『A Guerra(戦争)』という絵本をはじめて手に取ったのは、2年ほど前のことだ。板橋区立中央図書館でポルトガルの絵本について大人を対象に話をする機会をいただいたので、その下調べで同館内のいたばしボローニャ絵本館が所蔵する絵本を確認していたときに見つけたのだ。それはちょうどロシアがウクライナに侵攻したばかりの頃で、とつぜん「戦争」という言葉が私たちの日常に飛びこんできた時期でもあった。そのさなかに手にしたこの絵本に、私は強い衝撃を受けた。単純化されたフォルムの毒虫が蠢くなかに軍服姿でたたずむ、擬人化された「戦争」。街からは人影が失せているのに、戦場には極小の虫のような人間が無数にいる。戦争とは何なのかと、その実体を伝える短い文章が、鈍く光る刃物のように読むものの胸を突く。一読しただけで忘れがたい印象を残す絵本だった。原作は2018年に出版され、すでに15言語に翻訳されており、USBBY(米国国際児童図書評議会)の「傑出した外国書リスト」に選ばれたほか、国内外で数多くの賞を受賞したり、良書リストに選出されたりしている。

 「戦争についての絵本は明るくてはいけないが、悲しいだけでもいけない。それでこの本は不安と警戒心を呼び覚ますものとした」。この絵本の文章を担当したジョゼ・ジョルジェ・レトリアはそう語る。本作は、父のジョゼ・ジョルジェが文章を、息子のアンドレが絵を担当している。作家、詩人、ジャーナリストのジョゼ・ジョルジェはポルトガル作家協会の会長を長くつとめる同国文学界の重鎮であるが、国を民主化に導いた「カーネーション革命」を支えたレジスタンス音楽家だったという過去をも持つ人物である。

 日本ではあまり知られていないが、ポルトガルは、1926年から1974年まで、48年の長きにわたり独裁政権下にあった。独裁体制を維持するには国民の教育程度は低いほうがいい。ポルトガル国民の識字率の推移を見ると、1940年から60年までは6割から7割程度だ。その間にもすぐれた童話が生まれてはいるものの、そうした環境と厳しい検閲のもとでは自由闊達な児童書を生み出す条件は整っていなかった。

 だが、20世紀のヨーロッパ最長の独裁制は、1974年4月25日の軍事クーデターによりほぼ無血であっけなく終焉を迎えた。この反乱が「カーネーション革命」という美しい別称を持つのは、政権打倒を目指して進軍してきた兵士たちにリスボン市民が赤いカーネーションを手渡したことが由来となっている。銃を発砲することなく勝利を得ることができた兵士たちは、その花を銃口に挿した。日本では赤いカーネーションといえば母の日だが、ポルトガルでは自由と民主主義の象徴である。

 花の名を冠するこのクーデターでは、音楽が重要な役割を果たしたこともよく知られている。革命前夜の22時55分、ラジオで流されたパウロ・デ・カルヴァーリョの歌謡曲「そして、さよならのあとで(イ・デポイス・ド・アデウス)」が「ようい」の、日付をまたいだ午前0時26分に流された「褐色の村グランドラ(グランドラ・ヴィラ・モレーナ)」が「進め」の合図となり、国内各所の軍事施設から兵士たちが首都を目指して動きはじめたのだ。今やポルトガルで知らぬ人のいない「グランドラ・ヴィラ・モレーナ」を作詞作曲して歌ったのはジョゼ・アフォンソという歌手である。当時、植民地のアフリカ諸国で続く独立戦争のためにポルトガルからは多くの若者が戦場に送られていた。

 ジョゼ・ジョルジェ・レトリアは、シンガーソングライターとして、ジョゼ・アフォンソをはじめとする音楽家たちと連帯して反政府と反戦争を訴える音楽活動を、秘密警察の圧力に屈することなく続けた。彼らが開いた音楽集会に集まり、そのメッセージに鼓舞された多くの若者が、革命へと続く大きな流れを生み出していった。また、ジョゼ・ジョルジェは秘密裡に進められた革命の計画に加担した数少ない文民の一人でもあった。クーデターの合図を知らせるラジオ局に「グランドラ・ヴィラ・モレーナ」のレコードを届けるという重要な任務を、彼は任されていたのである。革命からちょうど50周年を迎えた今年の4月25日には、国内のあちこちで花火が上がり、リスボンをはじめとする街の大通りはカーネーションやキャンドル、自由と民主主義を称えるスローガンが書かれた紙を掲げて祝う人々で埋めつくされた。私はSNSなどでそうした様子をうかがうことしかできなかったが、大勢の現代の若者が笑顔を輝かせて先人が勝ち取った民主主義を称える姿は頼もしく、胸が熱くなった。言うまでもなく、この日は一日中、誰もが「グランドラ・ヴィラ・モレーナ」を声高らかに歌っていた。

ジョゼ・ジョルジェ・レトリア 文 , アンドレ・レトリア 絵 , 木下眞穂 訳『戦争は、』 02

 革命後のジョゼ・ジョルジェ・レトリアの活躍ぶりは目覚ましく、先述したとおり、ポルトガル作家協会の会長のほか2012年にはEU文学賞審査委員長も務め、作家、詩人、ジャーナリスト、テレビやラジオ番組の制作者など、その業績はとてもここでは書ききれないほどだ。まさに八面六臂の仕事ぶりである。

 なお、『戦争は、』は彼の息子であり、本作の作画を担当しているアンドレ・レトリアが経営する出版社「パト・ロジコ」から出版されている。社名をそのまま訳せば「論理的なアヒル」という意味になるが、耳だけで聞けば「パトロジコ(病的な)」にもなるという言葉遊びもある。会社の公式ページでは「パト・ロジコは、本を作る編集種の動物。作る本には歩く脚と飛び立つ翼があり、風変わりな人のための風変わりな発想を持つ」と自社を紹介し、日本語で「弊社」に当たる言葉として、つねに「アヒルは」を使っているのもご愛嬌だ。そして、この「アヒル」は小さいながらにポルトガルを代表する絵本の版元なのである。ちなみに、この父子による絵本の邦訳はすでに『もしぼくが本だったら』という温かな作品が宇野和美さんの訳によりアノニマ・スタジオから2018年に出版されている。他にもレトリア父子合作の絵本は数冊出ているが(いずれも未訳)、それぞれがまったく違った作風で、アンドレの画風の幅広さに驚かされる。

 ところで、現代のポルトガルの絵本界を牽引している出版社は、パト・ロジコ社も含めすべて創立が2000年代以降である。ポルトガルの絵本は子ども向けであっても、内容は観念的なものが多い。それは、ポルトガルでデザインやイラストレーションを専門的に学べる学校が革命前にはなかったことに起因する。革命後に創設された学校で学んだアーティストたちが表現の方法として絵本を選んだことが、今のポルトガルの絵本の潮流を作ったようだ。

 2年前、板橋区立中央図書館ではこのような近代史と絵本の関連について話したのだが、最後に、主催者のTさんに促され、原書『A Guerra』をその場で訳して読むことになった。即興のたどたどしい訳ではあったが、それでも会場の空気が瞬く間に緊張感に包まれ変化していくのを肌で感じた。「この絵本は日本で紹介されなければならない」と強く感じたのはこのときである。

 とはいえ、邦訳出版を引き受けてくれる会社にはなかなか出会えず、半ばあきらめかけていた昨秋、突然、岩波書店の編集者から連絡をいただいた。聞けば、2019年にボローニャのブックフェアでこの絵本に出逢って以来、ずっと出版したいと願い続けていたという。私たちは同志を発見したかのように喜び合い、一気に意気投合した。以降、訳文の一語一語に食らいつくようにして二人で確認し、原作者とのやり取りも繰り返した。原書の手描き文字を日本語にそのまま写したようなデザインの文字を見たときの感激は大きかった。こうして、『戦争は、』は原書が持つ禍々しさと美しさを少しも損なうことなく、日本の読者に向けて送り出されることとなった。

 ただ、残念なこともある。「この絵本が出るころには戦火が収まっていますように」という私たちの願いに反し、世界は混迷の度を増している。「戦争は、自分がどこで恐れられ、歓迎されるのかを、よくわかっている」「戦争は、憎しみ、野心、恨みを糧とする」「戦争は、何も知らない人たちの柔らかな夢に入りこむ」──。『戦争は、』の一文一文すべてが、今の状況をなぞっていることに戦慄を覚える。

 戦争の行き着く先には何があるのかを、この絵本ははっきりと示している。その日が来ることのないようにと、心から願う。

絵本『戦争は、』メイキング映像

(きのした まほ・ポルトガル語翻訳家)


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