【文庫解説】デリダ『他者の単一言語使用』
「脱構築」の戦略によって、現代思想の潮流を刷新したジャック・デリダ(1930-2004)。本書『他者の単一言語使用』は、植民地支配下のアルジェリアに生まれフランス語を「母語」とするという特異な体験からヨーロッパ近代批判を試みる、デリダの自伝的思索です。現在のパレスチナ問題を考えるうえでも、貴重な視座を与えてくれると思います。以下は、訳者・守中高明先生の「訳者解説――デリダと翻訳の政治学」からの抜粋です。
脱構築としての翻訳──「フランス-マグレブーユダヤ人」の運命
デリダにおける翻訳の問題系は、〔…〕あるときはっきりと前景化し、それ以後さまざまな仕方で反復され、強迫的に憑きまとって離れぬ亡霊じみた問題系であると映る。翻訳は、諸言語のあいだの関係づけの経験は、デリダにおいていずれにせよ明証事からはほど遠いなにかであり続けている。この執拗な、そのつど新たに繰り返される問題設定は、いったいなにに由来するのだろうか。
この問いに、本書はおそらく、部分的にせよ答えてくれるだろう。この「自伝的アナムネーシス」の語るところによれば、この反復は、デリダの「生まれ」が決定づけたということになるだろう、あらゆる言語的自己同一化の不可能性に発しているのだ。すなわち、「フランス―マグレブ―ユダヤ人」の「殉教と受難」──それは言語へのかかわりにおける「三重の分離」の経験であり、デリダはみずからを、その最も範例的な証言者だと考えている。フランス植民地時代のアルジェリアの首都アルジェの近郊に、ユダヤ系の両親から生まれたデリダの言語的アイデンティティは、いったいどのようなものであったか。
母語なき存在──根源的≪grief≫、怒り、不可能な欲望
たった一つの言葉が、母語でさえもが、本来性=固有性をそなえておらず、私のものではないということ──この認識および感覚は、「フランス―マグレブ―ユダヤ人」の特殊なケース、特殊な証言にとどまるだろうか。いや、そうではない。自己固有化できず、所有できず、帰属できないということ、すなわち、まさしく固有化―剥奪作用(ex-appropriation)こそが、あらゆる言語の本質であり、すべての言語活動を構造化する「自然=本性」だと言うべきなのである。
(しかし、この「認識」は、読まれるとおり、ある感情ぬきに告げられているわけではない。フランス語について、すなわち、みずからのたった一つの言語について、疎外なき疎外を、失うべき固有性=本来性を持たない喪失をデリダが語るとき、そこには一つの解消不可能な悲しみの感情がある。「かつて一度も持ったことのないものの喪」に服す一人の言語的「主体」の悲しみ、その根源的« grief » ……。そしてそれゆえの、怒りと嫉妬、自己固有化への抑えがたい、しかし不可能な欲望──だがそれは、この本の「言わんとすること」である以上に、その音調(トーン)によって表現されていることだろう)。
「絶対的翻訳」──言語植民地主義に抗う
特有言語の自然性や母語の特権性に準拠せず、あらゆる無媒介性―直接性の幻想から離れつつ、しかし、「基軸言語」へのどんな言語的―文化的―経済的な備給も投資も停止し、したがって英語からその仮定された一般性を剥奪し、その「一般的価値形態」を機能不全に陥らせること。そのようにして、すべての「特殊性」と見なされた言語たちを別種の特異性たちへと解放すること──「絶対的翻訳」の名においてデリダが要請しているのは、この地平にほかならない。
(全体は、本書『他者の単一言語使用』をお読みください)