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思想の言葉:木村清孝【『思想』2024年9月号 特集|道元の思想】

◇目次◇

【特集】道元の思想

思想の言葉 木村清孝

特集にあたって
何燕生

〈討議〉自己・他者・世界
末木文美士・出口康夫/何燕生(司会)

道元思想における悟りと実践
──世界と自己の関係
石井清純

「行持道環」とは何か
──道元の思想構造
頼住光子

「物」から見た道元の思想
ラジ・シュタイネック

「鞭影」
──道元『十二巻本集』における「メメント・モリ」
スティーヴン・ハイネ/金子奈央 訳

道元と真正性の問題
レイン・ラウド/長野邦彦訳

鎌倉思想から現代哲学へ
ゲレオン・コプフ

道元を翻訳する
クリスティアン・ウィッテルン/金子奈央 訳

〈研究動向〉道元の自然観に関する研究史
李家明

禅と人類学の地平
──岩田慶治の道元論を読み直す
何燕生

道元周辺の臨済禅は何を語ったか
和田有希子

 
◇思想の言葉◇

自分史の中の道元学

木村清孝

 いま私たちは、AIの誕生が象徴する、人類史上初めて出現した新文明の世界に在る。この潮流をそのままにしておいてよいのか。このままにしていれば、これからこの世界はどのように変わっていくのか。人はこの世界にどのように関わっていくべきなのか。──私たちは日々、これらの深刻な諸問題を抱え、意識的に、あるいは無意識的に自らのあり方を探り、時々に判断し行動しつつ生きている。

 

 そのような中、本誌が道元の特集を組むという。道元は、多くの方がよくご存じのように、ほぼ八〇〇年前、動乱の日本中世初期に生を受け、五十余年の短い生涯を閉じた仏教者である。現在の日本において、大きな伝統仏教教団の一つである曹洞宗の開祖として尊崇され、また、多くの先人たちによって主にその哲学的思索の深さと先見性が高く評価され、国際的にも哲学者として広く知られるに至っている。けれども、だからといって、この新文明下の現代という時代に、八〇〇年も前の人物を取り上げてどのような意味や価値があるのかという意見も、少なくないかもしれない。

 だが、性急な是非の判断はしばらく待ってほしい。以下に開示される諸論考の多くからも窺えるだろうが、道元の思想には、時代と地域、歴史性と風土性、総じていえば、時空を超えるところがあり、合わせてそういう普遍的思惟が現実とどのように関わるかについて強く示唆するところもある。ここに、新文明の現代を生きる私たちだからこそ、道元の声に耳を傾けることが望まれる理由があると、私は思う。

 

 私は、九州・天草の小さな曹洞宗の寺で、長男として生まれた。太平洋戦争が勃発する少し前のことである。そして終戦直後、ある事情から両親に伴われて北海道・函館の寺に移り、そこで高校時代までを過ごした。戦後の混乱と貧困を経て、日本が急速な経済成長へと向かう時期である。その間に、得度(僧となる最初の儀式)も済ませた。禅門の言い方に従えば、正式に道元門下の法孫となったわけである。

 だが、このことを自覚的に受け止め、進んで得度に臨んだわけではない。寺の後を継ぐべき長男として、父と周囲の勧めに従っただけのことである。けれども、次第に青少年期特有の悩みや煩悶も生じてくる。そんなことから、時に文学書や宗教書を手にするようにもなった。例えば、ドストエフスキーの『罪と罰』、親鸞の『歎異抄』、道元の『正法眼蔵随聞記』などである。ところが、それらの読書は、かえって父や周囲の期待どおりに僧となることがよいのかどうかという問題の解決には役立たず、むしろ悩みはさらに深まっていった。

 そのようなとき、「助け舟」を出してくださったのは、父と親交のあった人間禅教団師家であり、当時の東京教育大学(現、筑波大学)教授でもあられた芳賀洞然(俗名、幸四郎)老師である。老師は、夏期摂心会のために来函された折、私の進学を、私にも両親にも強く勧めてくださった。そのお蔭で、私は「もしも合格したら、大学に行ってもよい。ただし、経済的余裕はないのだから、受験は国立大学一校だけ、受験のチャンスは一回限り。不合格となったら、僧堂に行きなさい」という父の厳しい条件を飲んで、一旦僧侶となる道を回避し、大学受験を果たした。そして、幸いにも東京教育大学に入学した。選んだ専攻は倫理学である。私はこの専攻に所属し、当時人気が高かったヨーロッパの実存思想やマルキシズム、さらには東洋の哲学系の諸思想などを広く学んだのである。

 

 しかし、学生生活の三年目が終わる頃であったろうか、「やがて僧侶にならなければならない」と半ば宿命的に感じていた気持ちはこの時点でも消えず、卒業論文には、ハイデガーの存在論・時間論とも関連性が見出せそうな道元の思想を主題とすることにした。題目は「道元における出家と在家の問題」である。恥ずかしいことだが、「卒業後すぐに僧侶になっても、この問題を少しでも勉強しておけば、月参りで信者さんのお宅に伺っても多少は気の利いたことがいえるだろう」といった思いも織り交ぜた、テーマの設定であった。

 私は、こうして卒業論文の準備に入った。主に用いたテキストは、当時広く流布していた岩波文庫本の『正法眼蔵』三冊である。その解説書や注釈書の類いも多少は参照したが、私が中心に置いたのは、このテキストを何度も読み返し、読み込むことであった。そうする中で、何とか私なりに、道元の基本的な人間観や社会観を把握するとともに、かれが後年になるほど出家主義を強調する方向に進む理由を見出そうとしたのである。

 ところが、このように、頭の中で卒業後の進路のことまで考えながら卒業論文に取り組み始めてまもなく、学友の一人が、東京大学には印度哲学という専門課程があって、そこではインド固有の哲学思想も、インドに始まる仏教思想全般も学ぶことができると教えてくれた。迂闊にも、私はこのことを初めて知ったのだが、私の心は動いた。それは、卒業論文に取り組み、曲がりなりにも正面から道元の思想の解明を進めていく中で、深く「思想研究」を行うということについて、その苦しさとともに、何物にも代えがたい喜びにわずかながら気づいたからである。

 だが、大学入試が始まる前に、父とは「運よく大学に入っても、大学を出たら、本山に修行に行ってもいいから」と約束している。しかし他方、自分の動いた心に蓋をしてしまうこともできない。そこで、帰省した折、恐る恐る「できれば東京大学で、もう少し専門的な勉強をしてみたい。……」と話してみた。

 そのころ父は、不思議なことに体調も以前より良くなり、宗門関係の役職もいくつか引き受け、張り切っていた。おそらくこのことが幸いしたのであろう、あっさりと「もうしばらくならいいぞ」といってくれた。それは、私にとって、初めて聞くほどに優しい声であった。私は、心の中で小躍りした。と同時に、「これは、大変なことになった。自分から申し出たこととはいえ、合格する自信はあまりない。しかし、父の許しが出たからには、時間はさほどないが、できるだけの準備はしよう」と決意した。

 けれども、東京大学大学院の人文系の入試がどのようなものか、ほとんど知らない。聞けば、外国語一科目、専門科目一科目で、別に面接試験があるという。その中で、短い期間内にある程度準備ができそうなのは、専門科目のみである。他の二つは、これまでの実力で挑戦する外はない。──そう腹をくくって、専門分野の中で私がもっとも弱いインド固有の思想の分野を中心に、卒業論文執筆のかたわら、受験の準備をし、試験に臨んだ。このとき、もっとも役立った参考書は、やがて恩師のお一人となってくださった中村元先生の『インド思想史』(岩波全書)で、ほぼ丸暗記するほど、繰り返し通読した記憶が今も残っている。

 結果は、おそらくすれすれの成績であったろうが、幸運にも合格した。私の研究者の卵としての生活は、こうしてスタートしたのである。

 

 東京大学大学院で指導教官をお引き受けくださり、以後、亡くなるまで、陰に陽に私を直接指導し、あるいはサポートして下さったのは、玉城康四郎先生である。先生は、天台思想の研究で学位を取得されたが、もともと仏教及びインド哲学全般に関心をおもちで、私が大学院に入学したころは、華厳思想の研究にも力を入れておられた。そのこともあったのだろうが、入学後まもなく私が研究テーマをどうするかについてご相談に伺うと、いくつかの分野に関して、しばらく私の話を聞いておられた。そしてその後、「君には華厳がよさそうだね」とおっしゃった。「印度哲学」と呼ばれる分野の中で、荒野をさまようようにあれこれと迷っていた私には、この先生の一言が「専門の中の専門」を選択する決め手となったのである。

 こうして私は、華厳思想を中心に、院生として仏教学・インド学を修め始めた。その中で、私が修士論文のテーマとして選んだのは、「智儼の思想史的研究」である。智儼は一般に、華厳教学を基礎づけたとされ、やがて華厳宗第二祖に位置づけられることになった人である。けれども、私が大学院に入学した一九六〇年代前半には、まだ十分な研究の蓄積がなかったこと、わずかながら仏教者たちの伝記類に触れてきた中で、智儼はとくに求道者としての魅力を感じる一人であったこと、方法論としては、思想史的なアプローチにもっとも関心があったこと―これら三つが、そのテーマに決めた理由である。

 因みにここで、その内の第二の点に関連して、述べておきたいことがある。それは、私自身の研究者の道への歩みとも重なるところがあるからである。そこで、次に簡単に紹介させていただくことにする。

 伝記によれば、智儼は若いころ、多くの学匠から様々な学問を学んだ。しかし、自分が何をよりどころとすべきか、長く見出せずにいた。そこでかれは、経蔵の前に進み、礼拝して誓いを立て、「自分が学ぶべき道を示してほしい」と仏に願い、経蔵に手を入れた。そのときに手にした経が、『華厳経』の第一「世間浄眼品」であった、というのである。

 私は、先に挙げた玉城先生の一言をきっかけとして、研究の道が「智儼の思想史的研究」から始まった。そしてこれを補正し増強して、やがて一応集成できた成果が、学位申請論文『初期中国華厳思想の研究』(春秋社、一九七七年)となって、どうにか研究者として独り立ちできた。このことを振り返るとき、なぜか玉城先生の先の一言とその後の導きにも、また智儼との研究上での出会いとその思想の解明にも、背後に無尽の縁起の力、歴代の仏祖方の威神力がはたらいており、それが現在まで続いているように思えてならないのである。

 

 以上のことから明らかであろうが、私は、研究者としては華厳思想の研究から出発しており、当然のことながら、この領域に関わる研究成果が多い。そのためか、私は華厳研究の専門家と呼ばれることもしばしばである。しかし実際には、その他の分野に属するというべき成果も少なからず発表してきている。それゆえ、「東アジア仏教を専門としています」ということもあり、単に「仏教を研究しています」とか、「東洋の思想を勉強しています」と自己紹介することもある。

 このように、私の研究分野が次第に広がってきたのには、上述してきたところからもある程度推察していただけようが、第一には、私自身の生まれと育ちにもとづく問題関心がさまざまな方向に向かっていることがあろう。また、華厳思想と呼ばれるもの自体が、多くの思想的要素を含んでいることもあろう。そしてさらには、華厳思想が仏教のさまざまな方面に少なからず実際に影響を与えてきたことも関係していよう。

 このうち、後の二点は、華厳思想それ自体が仏教の他の諸分野への研究の広がりを要請する側面がある、ということである。私が近年、仏教の思想的展開の全体を視野に入れて、『教養としての仏教思想史』(筑摩書房、二〇二一年)を上梓できた理由の一つも、華厳思想の研究から出発したことによるところが小さくないといえるだろう。

 

 ところで、私は以前にも、数は少ないが、いくつか道元に関係する論文を日本語でも英語でも発表している。しかし最近、とくに道元研究に力を入れ、すでに三冊の大きな新刊を公にした。年代順に挙げれば、①『『正法眼蔵』全巻解読』(佼成出版社、二〇一五年)、②『『永平広録』「上堂語・小参」全訳注』巻上(佼成出版社、二〇二三年)、③『『永平広録』「上堂語・小参」全訳注』巻下(同上)である。そして、これら三冊を相次いで公刊した理由として、上に記した諸点も、一定程度関連していることも間違いない。しかしながら、より大きな理由は別にある。それは、すでに賢明な読者諸氏はお気づきだろうが、私自身のこれまでの歩みとその中で私自身が抱いてきた思いが深く関係しているのである。

 

 初めに触れたように、私は曹洞宗の小さな寺院に長男として生まれ、昔気質の両親に育てられた。しかも、若い修行時代に医師から「長くは生きられまい」といわれた経験をもつ父は、「早く長男を一人前の僧侶にしなければ」との思いが人一倍強かったらしい。そのためであろうが、私は小学校に入る前から、よくお檀家さんの命日や近隣の寺院の法要に伴われた。そして、そのお蔭であろうか、小学校の高学年になる頃には、日常的に宗門で読む聖典(一般的には「経」と呼ばれる。ただし、原義に照らせば「経」といえない著述も含まれる)は、おおむね暗記できていた。もちろん、それらの経文がもつ意味は、ほとんど分からないままに、である。そうした聖典の一つに『修証義』がある。

 ご承知の方も多かろうが、明治維新の後、社会の変革と慣習の刷新を急いだ明治新政府は、仏教界に対しても大きな改革を迫った。その中で、当時の曹洞宗当局が行なった教義面の対応策の一つが、その『修証義』の作成・流布であった。

 『修証義』は、伝統的な宗旨に背くことなく新時代にふさわしい布教を進めるために、その出版が企画・制定されたものである。全体は、第一章・総序、第二章・懺悔滅罪、第三章・受戒入位、第四章・発願利生、第五章・行持報恩という五章から成る。そして、「宗旨に背かない」ことを示すために用いられた最大の手立てが、全文を道元の主著『正法眼蔵』に依る、ということであった。

 実際、『修証義』本文のほとんどの言葉は、『正法眼蔵』の中に見出される。しかしながら、この聖典は、宗義の近代化という指針の下に、『正法眼蔵』の各巻から文言を取捨選択し、繫ぎ合わせて編成されているから、当然のことながら、『正法眼蔵』各巻それぞれにおいて道元が説示した基本的な仏教観やその論旨に照らせば、さまざまな点で相違が見出されることになる。

 子供のころ、私は、その「新編成された道元の思想」ともいえる『修証義』に、意味も分からず「暗誦」という形で初めて接したのである。

 

 その後、まず私がまっすぐに道元の思想に向きあったのは、高校時代に読んだ『正法眼蔵随聞記』を通じてである。本書から受けた衝撃は、まことに大きかった。例えば、本書の中で道元は「学道の人は吾我のために仏法を学することなかれ。ただ仏法のために仏法を学すべきなり」という。私たちが勉強するのは、何のためなのか。自分だけが偉くなるために、あるいは自分の家族だけが豊かになるために勉強するということには問題があるとしても、誰もが豊かになることに少しは寄与しようと勉強して、知識や技術を身につけることも、間違ったことなのか。このような疑問を抱かせる言葉が随所に見出せるからである。さらにまた、現実の周囲の僧侶たちの言動は、道元が求めている僧侶のあり方とは大きく食い違っているのではないかそう思える経験を、自分自身が何度もしてきたからである。

 この『正法眼蔵随聞記』の精読を介して、僧侶となるかどうか、なるとしても、いつ、どういう状況でそうするか、という私の悩みと迷いは、むしろいっそう深まった。思えば、大学へ、さらに大学院へという、先述した私の進学志望は、この自らの問題を解決に向けて考えるための「猶予期間」を求めた結果だったのかもしれない。

 ところが、大学に入学してからの四年間は、いわゆる「六〇年安保」をめぐって、各大学を筆頭に、社会全体が大きく揺れる時期とほぼ重なることになってしまった。

 そのため、ある特殊な学寮に住んだこともあって、東西の哲学を一定程度落ち着いて広く学ぶことはできた。だが、私自身の「近い将来」の問題は、結論を出せるどころではなくなった。そんな中で、差し当たっての立脚点を得なければと考えて取り組んだのが、先に述べた卒業論文「道元における出家と在家の問題」に外ならない。

 東京大学大学院の印度哲学専門課程に入り、玉城康四郎先生に指導教官となってもらって、華厳思想の研究を中心に仏教研究を進めることに決めてからの院生生活は、周囲の多くの人たちに助けられ、励まされながら、ほぼ順調だった。しかし、六〇年安保と七〇年安保の間の、どこか不気味さを漂わせた静けさの中で、私を含め、多くの学生たちは、いつも漠然とした不安とある種の焦燥感を抱いていた。そういう中で、私たちの研究室の院生・学生たちの間でも、一方では、以前からあった仏教青年会運動が再興の兆しを見せ始め、他方では、現実の社会に覚醒を呼びかける研究会活動が進められた。私も、いつの間にかこれら二つの小さな渦に巻き込まれ、いずれもがそれぞれに発刊していた研究誌にも、直接的には修士論文の準備とはほとんど関係のないテーマの小論を三篇ほど投稿している。その一つが、先に触れた『修証義』の成立過程とその『正法眼蔵』との異質性に関するものであり、他の二つは、ナチズムの宗教性に関するものと、大本教の宗教運動の歴史性に関するものである。振り返ってみて、その頃の自分がまさに「研究者の卵」であったと同時に、「時代の子」であったことを痛感する。

 一九六五年の暮れ、何とか智儼の思想とその思想史的位置づけを主題とする修士論文を仕上げて提出し、翌年の春に博士課程へと進んだ。それ以後は、ともかくもその修士論文を修正・増補しつつ、学位論文として提出できることを目標として努めたつもりである。けれども、いわゆる安田講堂事件を頂点とする東大紛争を中心に、その前後を含め、学内はいうまでもなく、日本の社会全体も、落ち着かない情況が続いた。私自身も、生活費を補うとともに、教員としての実績を積むために、諸先生や先輩方の助けを得て、いくつもの大学の非常勤講師を勤めるなど、ほぼ毎日が忙しかった。結局、大学院在籍中に学位論文を仕上げることはできず、それを提出し、学位を取得できたのは、一九七五年一二月であった。しかしこれも、前記の玉城先生をはじめとする諸先生から、引き続いて熱いご指導と深いご配慮をいただけたからである。先生方には、ただ感謝の外はない。

 客観的に見れば、おそらくこの学位取得が、厳しい状況の中で研究者として生きていくための最大の利器となったのだろう。一九七九年一〇月、大阪の四天王寺女子大学(現、四天王寺大学)から専任教授としてお招きをいただいた。そして、一九八一年に半年間、米国のハワイ大学哲学科で客員助教授を務めた後、一九八三年四月に東京大学文学部助教授となり、一九八八年に教授に昇任、二〇〇一年三月まで合計一八年間、その職を全うすることができた。東京大学において担当した研究・教育上の中心的分野は中国仏教であるが、演習等で用いるテキストとしては、学生諸君の関心が多様なことにも配慮して、華厳学に限らず天台、浄土、三論、禅など、さまざまな領域のものを取り上げた。このことがまた、自らの研究の幅を広げ、かつ深めることにも繫がったように思われる。

 東京大学停年後は、鶴見大学と国際仏教学大学院大学の両大学でそれぞれ数年間、教授ないし学長として勤めた。それらとともに、東京大学在任当時から現在まで、公益財団法人・仏教伝道協会、宗教法人・龍宝寺、宗教法人・東大寺のいずれにも深い縁をいただき、お世話になってきている。いずれの諸機関に対しても衷心より謝意を表するものである。

 

 以上、研究者の道に入ってからの私の歩みの概略を述べたが、その中にあって私が進めた研究の中心は、『華厳経』及びそれを主要なよりどころとして形成された華厳教学と、それらの影響を受けて形成された諸思想である。そして、すでに述べたように、私自身の関心の広がりと華厳思想そのものの内容の豊かさのために、広くいえば、東アジア仏教を網羅するような結果ともなっており、その中には禅思想の範疇に入るものも一定程度含まれている。

 しかしながら私は、専任の職を得てからは、いくつかの公務を退くまで、直接的に道元とその思想について本格的な論文を書くことは控えてきた。それは、宗門に対する恐れ多さと、学行両面における未熟さの自覚にもとづく。けれども近年、しばしば自らの死期を考える年齢に達して、以前よりもはるかに強く、とくに大先達の祖師として道元を意識するようになった。こうして私は、かねて熱心に道元関係の研究書の出版を勧めてくださっていたO氏の要請を受諾し、できる限り関係する諸資料を厳密に扱うことに配慮しつつ、道元思想の全貌を明らかにするために必須と思われる上記の二著・三冊を上梓した。それらは、一言でいえば、私の道元学の集大成の一環である。

 もちろん、それらに込めた私の意図は、標題、及び、それぞれに記載した「序説」または「序言」で述べたとおり、同一ではない。しかし、いずれも道元の著述の意向を正確に理解し、訳出し、解釈することを基本とし、道元の思想とその表現方法の本領を開示すべく努めたつもりである。読者諸氏には、道元の思いをまっすぐに受け止め、よりよく生きる一助としていただければ、これに過ぎる喜びはない。

 正直にいって、これらの執筆は決して楽ではなかった。けれども、嬉しく、充実した日々だった。現に仏祖方と出会いつつあるように感じて、こういう時間のことも「入泥入水の好時節」(『正法眼蔵』「面授」の巻)といってよいのだろうかと、思いを回らせたときも何度かある。また、この仕事を通じて、研究上、いくつもの新しい気づきも得られた。有難いことであった。

 今後はまず、謝徳・報恩の思いを込めて、曹洞宗では道元とともに「両祖」と併称され尊崇される瑩山紹瑾の主著『伝光録』に取り組み、丁寧で綿密なその訳注本の完成を目指したい。

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