web岩波 たねをまく

岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」

MENU

《対談》ダーウィンvs熊楠──渡辺政隆 × 松居竜五[『図書』2024年9月号より]

 2024年5月24日(金)、東京で「ダーウィンルーム・スペシャルトークイベント 熊楠とダーウィン──松居竜五さん×渡辺政隆さん」がありました(好奇心の森「ダーウィンルーム」代表・清水隆夫主催)。松居さんは今年3月に『熊楠さん、世界を歩く。──冒険と学問のマンダラへ』を、渡辺さんは5月に『〈生かし生かされ〉の自然史──共生と進化をめぐる16話』を刊行されています(いずれも岩波書店)。

ダーウィンと熊楠

渡辺 『〈生かし生かされ〉の自然史』は、ある雑誌の連載がベースになっているのですが、どうまとめようかと迷っていたときに、朝の散歩で、コンクリートの階段の隙間から芽を出して花を咲かせている朝顔に遭遇しました。別の公園では、コンクリート杭のわずかな隙間に溜まった土からスミレが芽を出して花を咲かせていました。植物のこのすごい力を目の当たりにして、植物と動物などとの関わりに、ぼくたちはもっと目を向ける必要があるんじゃないか、という思いを中心に据えることにした本です。

 持ちつ持たれつの関係、今でいう生態系の中で、生きもの同士は網の目のような関係でつながっている、すべての生きものはそういう中で生きているし、地球はそういうものによって支えられている。いろいろな地域や時代で、この生態系が成り立つために、多種多様な生きものが進化してきた、ということを説明する理論を体系的にいち早く説いたのがチャールズ・ダーウィンの『種の起源』でした。南方熊楠がダーウィンの考えに触れる中で膝を打って共感したのがこの部分なのではないでしょうか。

松居 南方熊楠は、1867年和歌山生まれ。その人生にはダーウィンが大きく影響していると思います。熊楠がダーウィンや進化論について初めて知ったのは、和歌山中学を卒業した16歳の頃のことです。和歌山から東京に出て勉強を始める数年前の1877年に、アメリカの動物学者エドワード・モースが来日、東京帝国大学に雇われて日本で初めて体系的に進化論の講義をしました。モースの助手だった石川千代松が講義録をまとめて『動物進化論』という本を出すことになります。熊楠はこの本を、発売10日後に買った。それくらい関心を持っていたのです。和歌山で生まれた熊楠が、幼少期から生物に興味を持ち、13歳のときに『動物学』という教科書を自作した話は『熊楠さん、世界を歩く。』に書きました。ですから16歳のときにモースの講義録に飛びついて、かなり読み込んだと思います。その結果として、熊楠は、進化論が生物の世界を説明する最も重要な原理だと感じて、ダーウィンの原著も読み込んでいくことになります。19歳、1886年にアメリカへ行ったのは、モースの国で生物学を学びたい、という気持ちが強かったこともあるんだろうと思います。

渡辺 『熊楠さん、』を読むと、熊楠は子ども時代から当時の図鑑にはまっていたということですね。

松居 熊楠は記憶力に優れ、集中力がものすごく高いという特徴があります。『本草網目』などの本草学の本を読み込んで筆写し続ける一方で、実際の生きものの観察もとても熱心にやっています。和歌山には海も山もあり自然はとても豊かです。特に博物学の鳥山啓先生の存在は大きかったと思います。紀州藩は本草学の伝統のあるところで、そういうことを背景に、生物に関する専門的な知識を熊楠に与えていたんだと思います。

渡辺 ダーウィンも子どもの頃から生きものが好きでしたが、視野を広げたのは、ビーグル号の航海で熱帯を訪れたことでした。とにかく熱帯に行きたくて、ビーグル号乗船の誘いに一も二もなく飛びつき、初めてブラジルに上陸したときには感極まった手紙をケンブリッジ大学の恩師に送っています。

 イギリスは北方にあって生態系は単調です。それが、熱帯に行って生命の多様性にびっくりした。熊楠も、亜熱帯に足を踏み入れていますよね。

松居 熊楠は、アメリカではミシガンに滞在後、フロリダとキューバへ行き、その後ロンドンに渡ります。ミシガンでは動植物、特に草花やキノコや地衣類などを随分採集しています。さらにフロリダやキューバでの熱帯の体験がとても大きかったのだろうと思います。そのときの観察が、熊楠の自然観にたいへん大きな影響を与えています。

 もう一つ、『熊楠さん、』で強調したのは、自然史博物館と動物園が、熊楠にとって大きな学校だった、教育の場だったのではないかということです。ミシガンにいた3年半の間に、ミシガン大学の博物館に何度も通っています。ミシガン大学の博物館のコレクションは、卒業生ジョセフ・ビール・スティアから贈られた標本がかなりの部分を占めていました。スティアはブラジルからアマゾン流域、太平洋を越えてフィリピンや中国南部まで行った。熊楠はそれを見て、熱帯に行かなきゃ、という気持ちになり、フロリダからキューバまで赴いたのではないかと考えています。

渡辺 ダーウィンも、ビーグル号での旅から帰ってロンドンで生活していた頃に、ロンドン動物園に通っていました。長男が生まれたばかりで、長男とオランウータンの子どもを比較観察して、感情や仕草が似ているのはルーツが同じだから、と納得していたようです。

 ダーウィンも熊楠も、異なる環境に身を置いたことが、大きかったんでしょうね。

松居 重要だったのは若い頃、特に20代前半ぐらいの体験で、それがその後の発想を豊かにしたのだと思います。

 江戸時代の本草学の分類法を学んだ後、アメリカに渡って独学で西洋式の分類方法を勉強しました。熊楠がいた和歌山は、ヨーロッパよりは生物相が豊かです。実際に熱帯の植物や昆虫を採集したときに、日本の風土とアメリカやカリブ海の風土との違いを感じた。また日本・東アジアの学問と、ヨーロッパの学問との違いも学んだことが、物事を複眼的に見る学問姿勢につながったのだと思います。生物の世界も人間の世界も、いろいろな可能性を考えながら多角的に見ていくような視野を持ち得た。そのあたりはダーウィンとも共通するのではないかと思います。

科学雑誌『ネイチャー』

渡辺 キューバからニューヨークを経て、熊楠は25歳でロンドンに行くのですね。

松居 はい。そして翌年『ネイチャー』に論文が掲載されます。「東洋の星座」と訳されているものです。

渡辺 『ネイチャー』は、今や最先端の科学論文の載るトップジャーナルですが、そもそもダーウィンの時代、イギリスで科学が庶民にも広がってきたときに、研究成果を広める場として発刊されました。その後押しをしたのが、トマス・ヘンリー・ハクスリーやハーバート・スペンサーといったダーウィン親衛隊が結成していたXクラブでした。ダーウィンを旗印に、古臭い貴族的な科学アカデミーをぶち壊そうと、科学の民主化運動のようなものを企てた人たちです。当初は文化人類学的な論文も掲載していましたね。

松居 この頃の科学雑誌は、一般大衆の娯楽として読まれていたようですね。扱うテーマがすごく幅広くて、面白い話題なら、と熊楠の「中国にはこんな変な星座がある」というような論文まで掲載される。それがまた、地元新聞の記事になって。そうした一連の動きを見ると、この頃、科学は一種のエンターテイメントとして楽しまれていたように思えます。

渡辺 『ネイチャー』は、今でいう一般向けの科学雑誌的な役割をしていたんじゃないでしょうか。この頃すでに、アメリカには『サイエンティフィック・アメリカン』がありました。イギリスで話題になったことも、すぐに載せるような一般向けの科学雑誌です。1861年に出版されたマイケル・ファラデーの『ロウソクの科学』の元になった講演録は、ロンドンの『ケミカルマガジン』と『サイエンティフィック・アメリカン』にほぼ同時に掲載されています。それくらい、イギリスでもアメリカでも、科学がポピュラーサイエンスとして受け入れられ身近になっていた時代でした。

 元々、イギリスでも博物学はアマチュア・サイエンス的なところがあったので、熊楠にも親近感があったのでしょう。当時はまだ制度的に職業科学者が少ない時代でしたから、当時の『ネイチャー』のようなオープンな雑誌で研究が発表できることに、自由な空気を感じていたのかもしれないですね。

松居 『ネイチャー』には、熊楠の論文のように人類学や民俗学まで含めた記事が載っていて、いろんな分野の科学がどんどん出てきます。熊楠はこの後、粘菌など専門的に行った研究もありますが、科学をとても広く全体的にとらえています。発想が柔軟だし、今の言葉でいう学際的。熊楠の性格自体は、すごくパラノイアックなんですけれど、科学のとらえ方はとても柔軟で幅が広く、バランスがいいように私には思えます。

熊楠の神社合祀反対運動

渡辺 熊楠は、大英博物館の図書室に入り浸って本を読んでは書き写して「ロンドン抜書」といわれるノートをたくさんつくっていたのですね。ところが大英博物館内で喧嘩をして追放され、出入り禁止になってしまう。喧嘩の原因は人種差別だったということですが。その後、33歳まで大英自然史博物館などに入り浸っていた。イギリスでアカデミックな職を少しは期待していたんでしょうか。

松居 期待していたと思います。

渡辺 で、ある意味夢破れて、実家の仕送りも結構きつくなってきて……。

松居 本当に絶望していたと思います。

渡辺 帰国して最初の3年間ぐらい、那智勝浦の熊野の森で植物採集と思索にふけっていた頃に「南方マンダラ」を発想して、37歳で田辺に移住しました。

松居 はい、田辺に移住して39歳で結婚しました。それからは、基本的には田辺周辺で採集を行っていました。

渡辺 42歳から神社合祀反対運動、いわゆる神社の森を守る運動に熱心になったわけですね。

 松居さんの本にもぼくの本にも登場する逸話ですが、この点、ベアトリクス・ポターと重なるところがあるんですよね。ポターはピーター・ラビットの生みの親。キノコの研究をしていたのが絵本作家になり、晩年は湖水地方の自然保護に入れ込んでいく。熊楠とポターはロンドンでは近所に住んでいたので、もしかしたらどこかですれ違っていたかもしれない。その熊楠も田辺に帰って故郷の熊野を守る活動を始めた。当時、政府は神社の数を減らそうとしていたんですか。

ポターのキノコの絵
ポターのキノコの絵

松居 神社合祀令は、神社の整理が目的で出されました。国家神道のために、つまり政治と宗教を一致させることを大きな目的に、一町村自治体ごとに一つの神社にまとめようと、土地の信仰を無視して行政区に神社を合わせるために統廃合をしていった。そのときに、神社に付属していたり、神社そのものである森林を伐採することになり、それに熊楠が反対したわけです。

渡辺 地域の氏神としての鎮守の杜の木を売って、金儲けをしようとした者もたくさんいたと聞きます。

松居 熊楠は、そういう利権問題をずいぶん糾弾しています。

渡辺 その頃、柳田國男との文通が始まりました。

松居 柳田も神社合祀反対運動にかなり協力しています。民俗学のことでも自然保護活動でも協力したということです。

渡辺 ある程度、森は残せたということで、成功だったことになりますか。

松居 そう言っていい面もあります。が、多くの神社林が失われたことも事実です。

渡辺 それ以後は、民俗学の研究にも力を入れて、人生のハイライトが、天皇へのご進講ですね。田辺沖の神島という天然林のある島の生物標本を昭和天皇に送るなどしていた縁で、行幸の折にご進講した。そしてその12年後に74歳、田辺で亡くなりました。

田辺での熊楠

渡辺 話は戻りますが、子どものときに『本草綱目』を書き写しているんですよね。

松居 思想については本草学を子どものときに勉強したことがとても大きい。本草学の発想は、今の西洋科学とずいぶん違います。植物に関して、食べたら味はどうだったかとか、子どもはこれをどうやって遊びに使っているとか、そんなことが書いてあります。人間も含めた生きものの世界の関連性が本草学の中に書かれているので、熊楠の発想の元にはそれがあるんだと思います。

渡辺 それと同時に西洋科学の分類体系も尊重していた。

松居 熊楠が見つけたアオウツボホコリという新種のスケッチが残っていますが、イギリスの粘菌学者に送って同定、つまり分類上の所属の決定をしてもらっています。熊楠は酒を飲んで暴れたりする面もありますが、コミュニケーション力が意外と高く、共同研究もどんどん進めていくようなところがあります。

渡辺 いわゆる人たらしですか?

松居 失敗もするんですけれども。

渡辺 同時代の牧野富太郎も少し似たところがありますね。熊楠の父と弟は造り酒屋を始めましたが、牧野の実家も酒屋でした。ただし、体質的に酒は飲めなかった。協力者やファンはたくさんいましたが、見つけたものは全部自分で記載したい、という自己中心的な面もありました。その点熊楠は?

松居 熊楠も、新種に自分で名前をつけたいという気持ちは強かったようです。協力者も牧野ほどじゃないですけど日本国内にいて、晩年は、その人たちが見つけたものに名前をつけています。ただ、学会発表されていないので、認定はされていませんけれど。

 「菌類図譜」にあるキノコ、菌類の絵をポターのキノコのスケッチと比較すると面白いんですが(『熊楠さん、』159ページ)、熊楠は、スケッチのわきにキノコの実物を貼り付けたりしています。それから英語で、どういうところで見つけた、などを書いていて。本草学ではありませんが、なめてみたら苦かった、などということも書いています。

渡辺 自分自身の覚え書きみたいなつもりだったんでしょうか。

松居 出版するつもりはあったんだと思います。「菌類図譜」は全部で5000枚以上が残ってます。

事の学から「マンダラ」へ?

渡辺 熊楠の思想について、まず「事の学」について教えてください。

松居 27歳ぐらいのときに、自分が研究したい範囲というのは、心、精神とか物、物質だけじゃない、その間に生じる「事」を研究の対象にしていきたい、と土宜法龍への書簡の中で書いています。

渡辺 物といのは、いわゆるそのままの対象物で、心というのは、自分の認識みたいなものですか。

松居 はい、そうだと思います。最初は単純な図に描いているんですが、那智に行った頃にはもう少し思想が深まってきています。心とは必ずしも人間の精神だけに限らない、物も単なる物質には限らない。そして事がどう生じているかという関係性、その原理としての因果律の解明へと、だんだん関心が広がっていっていると思います。

「南方マンダラ」とよばれてきた図
(左)「事の学」から発展した図 (右)「南方マンダラ」とよばれてきた図

渡辺 その発展が「マンダラ」ですか?

松居 そうですね。「事の学」の図に直接つながるのは上の左の図です。熊楠が「マンダラ」と呼んでいるのはこちらの方で、未だ解読中です。研究者の中でいろいろな意見があって、まだ解決していないところがあるんです。それに比べると、「南方マンダラ」とよばれてよく知られる右の図は結構わかりやすいと思います。

 世界は全部、因果関係によって成り立っていて、描かれている線の一本一本が因果律なんです。それが複雑に絡み合っているから、それぞれがそれぞれに影響し合って、より複雑な現象を生み出していく、ということを描いています。熊楠は、人間を中心に図を見ると「イ」というところに萃点という、物事が集まる点があって、これが真ん中であるとしています。ここから見ると世界が理解しやすいのに対して「ヌ」「ル」より上の方は、人間の認識が及ぶギリギリの範囲内にある。当時で言えば海王星とか彗星とか、人間の生活には直接影響しないけれども、そういうものがあると思って探してみたら、やっぱりあったというような科学上の発見をイメージしているかと思います。渡辺さんの『〈生かし生かされ〉』の中にも、生物学でのそういう例が随分書かれてますが、そうした科学の発展を踏まえて、「ヌ」とか「ル」は、人間がわかりうるギリギリのところにあり、調べてみたらようやくわかってくる、というところを描いている。全体として、人間の認識というものを描いた図として、非常によくできてるんじゃないかと思います。

渡辺 人間としては、この一本一本の事物というか、因果律の軸を探していけば、この中では因果関係が見つかるけれども、全体を把握するとなると、相当大変なことになる、みたいなことですね。立体なのですよね。

松居 立体だと言っています。私が強調したいのは、熊楠がこの図は人間を中心とした図だ、と何度も言っていることです。ということは、他の生きものには他の生きもののマンダラがあって、例えばセミにはセミのマンダラがあるし、粘菌には粘菌のマンダラがあるということを意識しながら描いている。一本一本の線、つまり因果律は生物同士のマンダラでも共有されているんです。しかし萃点は、人間から見ると「イ」だけれども、セミから見ると「ニ」かもしれない、粘菌から見ると「ヌ」かもしれない、というようなものとして、この図を描いているのではないかと思います。

渡辺 人間が絶対なわけじゃないと。

松居 人間にとっては人間が主体だけれども、すべての生物それぞれが主体であって、主体に応じてその世界が、マンダラが広がっているということです。

熊楠とユクスキュル

松居 この「南方マンダラ」と呼ばれる図は、世界のモデルを設計図みたいに示すのではなくて、筆で一気に描き殴ったことに意味がある、と私は考えています。描き殴ったことによって、時間がその中に含まれる。だから、この瞬間に世界はこう見えているけれども、次の瞬間には変化していることを感じさせる。そんなふうに、世界が常に動き続けているということも、この図には折り込まれているんだと思います。そしてさまざまな生きものが、それぞれの世界の主体として異なる時空間を生きている。そういうダイナミックな世界観を示しています。

 そこで考えてみたいのが、岩波文庫の名著『生物から見た世界』です。熊楠の同時代人でもある生物学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュルは、すべての生きものには固有の「環世界」があるという見方を示しています。これは「南方マンダラ」とよく似た発想だと思います。また、ユクスキュルは、そうした環世界の主人としての生きものがつくる動きの軌跡を「魔術的な道」と称しています。これは、熊楠が研究していた粘菌の動きなどを彷彿とさせるところがあります。

渡辺 観察対象の立場から世界を見直すということですね。『熊楠さん、』の「はじめに」に、熊楠は、とにかく科学を楽しんだ人、自分が楽しいから、いろんなところに触手を伸ばして何でも知りたいという生き方をしたとありますね。

松居 熊楠の学問は即興的なところがあり、「南方マンダラ」そのもののように常に移り変わっています。また、それをよしとしているようにも見えます。その方が楽しいからで、制度としての科学の歴史の中に自分の足跡を残そうとする面もないわけではないのですが、それが第一の目的ではなかった。今、自分が考えていることが楽しい、それがすべて、というのが熊楠の学問への態度の根幹なのではないかと思います。たとえて言えば、現代の学者は、さまざまな分野に細分化された科学の制度の中で仕事をしています。しかし、熊楠は、科学を自分のものとして、自分が知の世界の王様になりたかった。もちろん、近代の科学は分業制によって発展してきたけれど、熊楠のように、知の世界の王者を志向することも大事なのではないかと思います。

渡辺 サイエンスの語源は「知ること」という意味のラテン語です。この世のことを知りたい、自分のことを知りたいというのが原点だったはずが、サイエンスが制度になって変わってしまいました。『〈生かし生かされ〉』でも、この原点に立ち戻る必要性を強調しました。職業としてではなく、一市民としてサイエンスを楽しんでいたダーウィンや熊楠の生き方は、現代におけるサイエンスのあり方、サイエンスとの付き合い方を改めて考えさせますね。

渡辺氏(右)と松居氏(左).対談終了後,熊楠の父と弟が創業した「清酒世界一統」の本醸造〈熊楠〉で乾杯.瓶のラベルは熊楠の肖像画(提供:ダーウィンルーム)
渡辺氏(右)と松居氏(左).対談終了後,熊楠の父と弟が創業した「清酒世界一統」の本醸造〈熊楠〉で乾杯.瓶のラベルは熊楠の肖像画(提供:ダーウィンルーム)
熊楠の父と弟が創業した「清酒世界一統」の本醸造〈熊楠〉で乾杯.瓶のラベルは熊楠の肖像画(提供:ダーウィンルーム)
「清酒世界一統」の本醸造〈熊楠〉(提供:ダーウィンルーム)

(わたなべ まさたか・進化生物学)
(まつい りゅうご・比較文学、比較文化)

タグ

関連書籍

ランキング

  1. Event Calender(イベントカレンダー)

国民的な[国語+百科]辞典の最新版!

広辞苑 第七版(普通版)

広辞苑 第七版(普通版)

詳しくはこちら

キーワードから探す

記事一覧

閉じる