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【文庫解説】『女らしさの神話』(上・下)

アメリカの主婦たちに広がっていた原因不明の不安やいらだち。その「名前のない問題」の正体を探ったフリーダンは、結婚して夫や子どもの世話をすることが幸せだとする「女らしさの神話」の存在に行き当たります。本書は、20世紀フェミニズム運動が高揚するきっかけを作った1963年の画期的な著作です。日本ではこれまで半分程度の抄訳でしか読めませんでした。今回が初めての全訳。以下は、訳者の荻野美穂先生による解説からの抜粋です。


 「この本で人生が変わりました」(It changed my life)――これは著者のベティ・フリーダンが本書の出版後、数多くの感激した女性読者たちからかけられた言葉だという。このエピソードが象徴的に示すように、1963年に出版された『女らしさの神話』(The Feminine Mystique)は、20世紀後半の女性解放運動、いわゆる第二波フェミニズムについて語る際には欠くことのできない、きわめて影響力の大きかったとされる著作である。
 日本でも、出版後間もない1965年に『新しい女性の創造』のタイトルで翻訳出版され、1970年新装版、77年増補版、さらに2004年に改訂版が出版された(いずれも三浦冨美子訳、大和書房)。だが、原著が大部であったためか、邦訳書ではかなりの部分が訳出されずにカットされており、日本語では原著を完全な姿で読むことはできない状態が長年続いてきた。
 今回、あらたに全訳するにあたってもとにしたのは、原著の初版刊行から50年を記念して2013年に出版された版で、1963年初版本の内容に加えて、フリーダン自身による追加部分である、74年版に付された「序論」と「エピローグ」、および97年版に付された「メタモルフォーゼ」をすべて訳出した。
 『女らしさの神話』の成立と評価には著者自身の経歴が大きく関係しているので、まず本書出版に至るまでと、さらに出版後のフリーダンの生涯について概観しておこう。
 ベティ・フリーダンの結婚前の名前はベティ・ナオミ・ゴールドスタインで、1921年、アメリカ中西部イリノイ州の都市ペオリアのユダヤ人家庭に生まれた。父ハリーは東欧からポグロムを逃れてきた移民で、教育はなかったが、貧しい中から努力してペオリアで一番の宝石店を経営するまでになった人物だった。母のミリアムはハンガリー系移民の娘で、地元のカレッジに2年間通った後、地元紙の婦人欄の記者をしていたが、結婚により退職し、ベティを含む3人の子の母となった。母はユダヤなまりの強い父に不満で、夫婦間では喧嘩が絶えなかった。
 フリーダンが高校卒業後、東部の名門女子大スミス・カレッジに進学したのは、子どもの頃から母にそれを強く期待されてきたからだった。スミスでは当時の新しい学問分野である心理学を専攻し、最高優等の成績で卒業した。在学中はこれも母の希望どおり、高校・大学新聞の記者・編集者として活躍し、後年、新聞や雑誌のライターとして仕事をする素地が作られた。また、自身の経験からユダヤ人差別など社会的不正義の問題を意識する中で、マルクス主義や労働運動などへの関心を強め、左翼系の集まりなどに参加するようになった。
 1942年、カレッジ卒業後は奨学金を得て、カリフォルニア大学バークレー校でエリク・エリクソンらのもとで心理学の勉強を続けた。さらに博士課程で研究するための高額の奨学金を女性として初めて獲得したが、それを返上してしまう。その理由をフリーダンは、当時のボーイフレンドから、自分にはそんな奨学金は無理だ、自分をとるか研究をとるかだと言われたためとしており、このエピソードは「女らしさの神話」に屈してキャリアの道に進むことを断念した契機として、著書やインタヴューの中でくり返し言及されている。
 大学を去ったフリーダンは1943年、ニューヨークに移り、左翼系の労働問題ニュース通信社『フェデレイテッド・プレス』で記者として働いた後、1946年からは全米電気無線機械労働組合(UE)の機関紙『UEニュース』の記者となった。UEは当時最も過激な労働組合の一つとされ、フリーダンは52年には、女性労働者たちの平等賃金を求める闘いについてパンフレットを執筆した。この頃には、未婚で妊娠した友人のために当時非合法だった人工妊娠中絶手術をこっそりと行ってくれるところを探し、付き添うという経験もしており、女性にとってのこの問題の重要性についての認識があった。
 1947年、26歳の時に同じくユダヤ人で、復員後、当時は演劇関係の仕事をしていたカール・フリーダンと結婚した。1948年、1人目の子どもの出産にあたっては産休後に仕事に復帰したが、52年に2人目を妊娠した際に解雇され、その後はフリーランスで女性雑誌を中心にした雑誌に記事を書くライターとなった。56年、3人目の出産の直前にニューヨークから郊外のロックランド郡に引っ越し、ライターの仕事は続けながらも、彼女自身が『女らしさの神話』の主役である「郊外の妻・母親たち」の一人となった。
 『女らしさの神話』執筆の直接的きっかけとなったのは、本文中にもあるように、スミス卒業15年後の1957年に、フリーダンらが企画して同窓生対象に行った多項目からなるアンケート調査だった。当時、第二次世界大戦後のアメリカでは 女性に高い教育を受けさせることの弊害が議論されており、フリーダンはこのアンケートによってそれに対して反論できるのではないかと考えていた。だが結果的に、同窓生たちのような白人高学歴中流女性たちの間にある奇妙な悩みが広がっていることに気づき、その原因について多方面から探究することによって生まれたのが本書だった。

(続きは、本書『女らしさの神話』(下)をお読みください)

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