『科学』2024年10月号 特集「ゲームするAI」|巻頭エッセイ「過去を未来へ:植物標本の科学的意義」村上哲明
◇目次◇
【特集】ゲームするAI
ゲームAI研究の歴史と展望……伊藤毅志
デジタルゲームの人工知能……三宅陽一郎
データサイエンティストはカーリングをどう見るか?……桝井文人
人間らしいゲームAI,人間と協力できるゲームAI……池田心
[巻頭エッセイ]
過去を未来へ:植物標本の科学的意義……村上哲明
光合成進化の謎に迫る驚異の細菌の培養──革新的な共同研究を通じた予期せぬ発見……ジャックソン マコト ツジ・福井学
がんとは何か──分子からのアプローチ7(最終回)……野田亮
[連載]
言語研究者,ユーラシアを彷徨う3 ライバルは幕府隠密──ウルチャ語の調査……風間伸次郎
3.11以後の科学リテラシー141……牧野淳一郎
日常身辺の確率的諸問題8 水割りワインの濃さの確率とは?……原啓介
人間の言語能力とは何か──生成文法からの問い【番外編4】
〈鼎談〉言語学と機械学習の「共闘」は可能か?(後編)……折田奈甫・窪田悠介・次田瞬
[科学通信]
日本における基盤的研究費の重要性……後藤由季子
ニホンオオカミから探るイヌの起源……寺井洋平
2010年代に顕著になった日本周辺の魚類の小型化……伊藤進一
気候変動が脅かす人と自然のつながり……曽我昌史
次号予告
今年7月,奈良県立大学で,貴重な植物標本が誤って大量に廃棄されたというニュースが報じられた。この標本群「岩田コレクション」は,元高校教諭の岩田重夫氏が1950年から約40年にわたり収集したもので,奈良県内外の約1万点におよぶ標本が含まれていた。その中には,奈良県内でほとんど見られなくなった希少種も多く含まれていたという。この出来事は,植物標本の重要性が一般に十分に認識されていない現状を浮き彫りにしたともいえる。
一方で,昨年のNHKの連続テレビ小説「らんまん」では,日本の植物分類学の父とされる牧野富太郎博士がモデルの主人公とともに,彼が採集し作成した新聞紙に挟まれた押し葉標本が毎日のように登場し,同時に標本の重要性もたびたび描かれていた。関東大震災の際に,主人公が身の危険も顧みず倒壊した自宅から標本を回収し,火の手が迫る中,「これ(植物標本)は遺すもんじゃ!この先の世に遺すもんじゃ!」と叫びながら標本を背負って逃げるシーンはとても印象的であった。実際に牧野博士は,関東大震災や第二次世界大戦の戦火をくぐり抜け,100年以上前に採集された多数の標本を含む16万点以上の植物標本を現代にまで残している。
なぜ,過去に採集された植物標本を多額の予算をかけてでも保管し続けるべきなのか。その理由は,植物標本には「いつ」「どこで」「誰によって」採集されたかを示す標本ラベルが必ず添付されていることにある。この情報は,標本として残されている植物がその場所でその時に確かに生きていた証拠となるからである。
たとえば,私が責任者を務めている東京都立大学の牧野標本館に保管されている牧野博士の標本には,現在では地球上から完全に絶滅してしまった「タカノホシクサ」という植物が含まれている。この植物は,牧野博士が標本を採集した1910年代には関東北部の湿地にのみ生育していたが,消滅してしまった。また,牧野博士は渋谷周辺で多数の野生植物の標本を採集していた。ところが,現在では渋谷には野草が生育できる環境は失われている。そこで,牧野博士が100年以上前に渋谷周辺で採集した標本は,今では消滅してしまった元々の渋谷の自然環境やそこに生育していた野生植物の存在を証明するものとなっている。標本は,過去の環境や生態系を知るための貴重な記録でもあり,その価値は計り知れない。
さらに,科学技術の進歩により,現在では100年以上前の標本からDNAを抽出し,解析することが容易に行えるようになった。これにより,過去の植物がどのような遺伝子をもっていたのかを知ることが可能になった。このような研究は,現物の植物標本が残されていてこそ可能なものであり,どれほど精緻な写真や画像データにも代替できない。100年前の植物材料を今から新たに収集することは不可能であるため,長年にわたり保管されてきた標本の価値は極めて大きい。
大学は教員の交代により研究テーマが変わることが多く,標本を永続的に保管するには不向きである。標本の価値を理解し,適切に保管できる国立自然史博物館が日本でも求められている。植物標本は,過去の自然を記録し,未来の研究に資する貴重な資料である。それを保護し,次世代に伝えることは我々の責務である。標本は,まさに是非とも「先の世に遺すべき」ものなのである。