赤木昭夫 プルーストの投機、隠喩、非決定性[『図書』2024年10月号より]
プルーストの投機、隠喩、非決定性
二〇世紀の世界の文学を代表する『失われた時を求めて』は、どのように生成されたか。その過程の研究が盛んに続けられてきた。
草稿や手紙はもちろんだが、ついには作者マルセル・プルースト(一八七一―一九二二)が取引した株の銘柄から、銀行口座の金額の動きまでが解明された。
投機(スペキュラシオン)
一九〇六年、三五歳のプルーストが相続した資産は約一五〇万フラン(現在の日本円で七億五〇〇〇万円)と推定される。
彼の母方の祖父は株の仲買人だった。その蓄財の一部が母の持参金で、その利殖の結果が、母の死後、プルーストと弟ロベールとの間で折半された。
安全な国債で運用すると、当時は年利四%だったので、年収は三〇〇〇万円にもなり、何もあくせくしなくても済んだ。それなのに、リスクが大きな株の「先渡し取引」にのめり込んだ。
客は銘柄・価格・株数を約束し、それを約束の期日に買う。これが「先渡し取引」で、当時の取引はこれに限られた。
期日の株価が契約時より大ならば差額が儲け、小ならば差額が損になる。早く言えば、一種の賭博だ。
買う客は儲けを大きくしたいから、高く見込み勝ちだ。他方、契約を引き受ける仲介人も、自分が儲けるため、ありもしない好材料を並べて、客が実勢よりも高く見込むように仕向ける。
その結果、多くの場合、大損をこくのは客だ。株は母方の祖父の代からのファミリー・カルチャーの筈のプルーストも、例外ではなく、しくじった。
手始めは一九〇八年に買ったシェル石油株だった。年率二二%の値上がりで、最初は味をしめた。
だが、その後は御定まりのコースをたどり、一九一〇年から一一年にかけて資産の六%をすってしまった。一二年には悪あがきして、さらに手を拡げ、一三年までに累計で資産の二五%を失っていた。僅か三年間のことだ。
損失の大きさの順に挙げると、マラッカのゴム栽培、ロシアの鉱山、アメリカの横断鉄道、メキシコの電鉄など、どれも植民地開発がらみだった。一時は中国や日本の国債にも手を出したが、当然の情報不足のためか、成果がなく、早々に手仕舞いした。
一七八九年のフランス革命後も、かつての貴族は土地や株式への投資で生き残りを図った。新興ブルジョアは彼らに倣いつつ、彼らを押しのけ、地位向上を企てた。まさにそうした上昇志向にかなっていたのが、プルーストも参加した植民地への投資だった。
だが、訳もわからないまま、支離滅裂な、博打的な投資に、プルーストがはまったのではない。彼なりにリスク対策は怠らなかった。
まず手を拡げるに先立って知人たちに手紙で、絶対安全、低リスク低リターン、高リスク高リターンと、株を三つに分類してくれと問い合わせている。
さらに資産の保全のため、三つの銀行を使い分けた。資産の大半はロスチャイルド銀行に預けた。そこから当面の投機資金だけをクレディ・アンデュストリアル銀行に移した。そこを介し、とくに株取引のために設けたドイツ系のヴァールブルク銀行の口座を使って、清算していた。途中に緩衝の役を果たす銀行をはさみ、三段構えで、取り立てがロスチャイルドの口座に及ばぬよう備えていた。そして、プルーストはその勧めには従わなかったが、相談役もついていた。
隠喩(メタフォル)
それでもプルーストが高く張り続けた裏には、抜き差しならぬ経緯があった。
サロン通いに必須の贈り物、馬車代、チップ以外に、お抱えの運転手──同性愛の相手──一七歳も若いアルフレッド・アゴスチネリの歓心を引きつけておくため、高級車のロールスロイスや飛行機まで買い与えるなど、多額の費用を工面しなければならなかったのだ。
飛行機と車、どちらにも二万七○〇〇フラン(一三五○万円)を支払った。
アゴスチネリとの関係は一九〇七年に始まり、操縦機が地中海に墜落して、彼が亡くなる一九一四年五月まで続いた。
両者が関係した時期と、プルーストが投機にのめり込んだ時期、作品の表題を「記憶の断絶」から「失われた時を求めて」へ変更した時期、そしてアゴスチネリとの関係に触発されて(アルベルチーヌとの挿話など)大幅に加筆した時期とが、すべて重大なことにぴたりと重なる。
その期間、いつも性愛と投機が、創作過程、プルーストの脳裡で、互いに写し合う、形容し合う関係にあった。だから彼は性愛を次のように突き詰めた。
それは理不尽な欲求であり、この世の法則からして充たすのも不可能で癒すのも困難なのだが、要するに相手を所有したいという非常識で痛ましい欲求なのだ (吉川一義訳文庫第二巻一一四頁)
ここで「それ=性愛」を「相場の的中=すべての市場情報」と読み替えても、他はそのままで意味を成し通用する。
そうした性愛と投機との切っても切れぬ相互表象関係を執筆中にプルーストは発見し、「株価」を次のように隠喩(フランス語ではメタフォル)として使った。
貴族の称号の価値は株価と同じく、需要があると上がるが供給があると下がる。われわれがけっして滅びることはないと信じているものも、例外なく破滅へと向かう。社交上の地位もほかのものと同様、一度で最終的な形にできあがるわけではなく、列強の勢力と同じように、刻一刻、いわば途切れることなく恒常的に再構築されているのだ。社交界や政治の歴史においてこの半世紀に生じた明らかに異常なさまざまな事態も、これで説明がつく。世界の創造は最初におこなわれてそれっきりというわけではなく、毎日おこなわれているのだ(吉川訳文庫第一二巻五六六―七頁)
世界すべてが、株価に喩えられたのだ。
プルーストの文体で隠喩は大きな役割を担う。彼の文体の基本は、実は歯切れのよい短文から成り立つ。短文だからこそ、つなげることが可能で、次々に想起される記憶を綴った独特の長文が構成される。それにはフランス語文ならではの多彩な動詞時制や関係詞が役立った。それによってヴィジョンは表象された。
一九一三年一一月、『スワン家のほうへ』を出版するに際してのインタビューで、プルーストは次のように語った。
文体とは、一部の人々が考えるのとは異なり、文飾ではありません。技術の問題ではなく──画家における色彩のように──ヴィジョンの性質のひとつであり、各自が見ていますが、他人には見えない宇宙の特殊な啓示なのです。ひとりの芸術家が我々に与える楽しみは、宇宙をひとつ余分に与えてくれることです(鈴木道彦訳)
ヴィジョンに名前をつけ、ずばり指示するのが隠喩だ。隠喩は長文をまとめ締め括る高度な役割を帯びていた。
非決定性(アンセルティテュウド)
文体に潔癖な、ということは哲学でもそうだったわけだが、プルーストは隠喩のトートロジー(循環)に飽き足らず、意味するところを、さらに「観念」として突き詰めた。
それが「アンセルティテュウド」だ。文字通りの意味は「不確定性」だが、物理学の術語のそれとは意味が異なるので、決めることができないことを意味する「非決定性」と訳すことにしよう。
三つの市販の邦訳では「不安」と訳される。だが、フランスで『広辞苑』に相当する『リトレ』に当たっても、「不安」という意味は記載されていない。心理状態の「不安」なんかではなく、その意味するところは、飽くまでもすべての事象についての「決定不可能性」なのだ。
この観念は、執筆の初期の段階からプルーストが抱いていて、次のように導入されている。
私は紅茶の茶碗を置き、私の精神に問うてみる。真実を見つけるのは精神の役割だ。だが、どうやって? 深刻な非決定性(グラーヴ・アンセルティチュウド)、精神が不可能と感ずるたびに襲われる非決定性、それを探す精神自体が暗黒になるたびに味わう非決定性、そのなかで精神は探さねばならないのに、精神には何の力もないという非決定性。探す?それでは足りない。創造する。精神はまだ存在せぬ何かに直面する。精神のみがそれを現実化し、精神の光を浴びさせることができる(筆者訳、該当箇所は文庫第一巻一一二―三頁)
現実はすべて決定不可能だから創造しかない。それを譬えるのに選ばれたのが「株価」だった。それが観念としては「アンセルティテュウド」だったのだ。
この観念を焦点に据えたのは、プルーストが最初ではなかった。プルーストがリセで叩きこまれたのがショウペンハウエルの哲学だったが、彼は主著で次のように指摘していた。
認識のなかに純粋に偶然的なものとしてとらえられなければならないものが多くなればなるほど……それだけいっそう説明し難いものも多くなり、これ以上は他から演繹できないぎりぎりといったものも、いっそうふえてくるのである(西尾幹二訳『意志と表象としての世界I』二七一頁)
これを受けてと思われるが、一八九七年にマラルメが、「サイコロの一振りが偶然を排することは決してないだろう」という一節を含む、詩句のグラッフィックな配置で有名な詩を雑誌に発表した。
プルーストは自作で述懐しているが、ショウペンハウエルとマラルメから多くを深く学んでいた。
いわば彼ら巨人の肩の上に乗って、ベル・エポックのフランス社会を広く深く通観した。
それによって抽出できたのが、時代精神=世界精神としての「アンセルティテュウド」だった。そこにプルーストの偉大さがあった。
またプルーストは、フェルメールとモネの絵に傾倒した。それはなぜか。
オランダ派だからとか、印象派だとか、流派のためではなかった。彼らの絵が共にたたえていた本質のためだった。
どちらも光の射し方で、時々刻々、色調が微妙に変わり、画像(ヴィジョン)の移ろう様相が描かれる。まさに「非決定性」を描いた点で、『デルフトの眺望』や『睡蓮の池・緑の調和』が優れていて、魅了されたからではないだろうか。
(あかぎ あきお・英文学、学説史)