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髙橋昌明 清盛と港・船[『図書』2024年11月号より]

清盛と港・船

一 経の島と大輪田泊

 平安末期、平清盛は摂津の大輪田泊(おおわだのとまり)(現神戸市兵庫区)を修築して、瀬戸内海航路の安全をはかり、中国南宋との貿易を推進した。高等学校の日本史教科書や一般向けの日本史の概説書などで、普通に見かける文章である。

 この工事は経(きょう)の島の築造ともいわれる。承安三年(一一七三)から始まったようで、船を横づけするための埠頭や、風波を避けるための碇泊所(船溜り)を目的とした人工の島(突堤)が築造された。鎌倉に和賀江島という、引き潮のとき姿を現す海中の浅瀬がある。鎌倉前期の築港で、材木座海岸東端にある飯島崎の付け根から、西へ向かって海に二〇〇メートルほど突き出していたようだ。経の島はこれに似た施設だったろう。

 経の島は鎌倉期になると兵庫津とよばれ、これを中心に港町が形成された。以後瀬戸内海水運の要港として発展。町は応仁の乱でいっとき衰退するが、近世には西国・北国・江戸行きの船舶寄港地として繁栄する。加えて大坂に廻漕する荷物を瀬取(親船の積荷を小船に移し取ること)する兵庫船も就役した。市街も発展、江戸中期で人口約二万人の大都市になっている。慶応三年(一八六八)、安政五カ国条約で「兵庫開港」が実現するが、実際には兵庫津東方の神戸村の海岸に開港(神戸開港)し、以後港湾の整備や外国人居留地の開発が急速に進み、兵庫津を併せ現在の神戸港と神戸市になった。

 兵庫の名家捶井(たるい)家蔵の元禄九年(一六九六)「摂州八部郡福原庄兵庫津絵図」(神戸市立博物館に寄託、以下「兵庫津絵図」と略称)は、兵庫津を描いた最古の地図であるが、海岸部中央に長百十九間(約二一六メートル)、横二十七間半(約五〇メートル)と文字表記のある「内海」(船溜り)が描かれている。

近世兵庫津略図
近世兵庫津略図

 その内海と外海とをつなぐ細い水路には太鼓橋がかかり、橋の北側が嶋上町、太鼓橋を渡った南が船大工町と注記がある。嶋上町には来迎寺があり、別名築島寺、山号を経島山という(上図参照)。対面の船大工町は近世前期の埋め立てによって成立した町で、中世にはまだ存在しなかった。「内海」は下方(南)でそのまま現神戸港の水面に向かって大きく口を開けていたはずである。

 この町名・寺名が、かつての「経の島」のおよその位置を伝えているだろう。現在の神戸市営地下鉄海岸線の中央市場前駅を降りて、北にすこしゆくと、一八七五年(明治八)に開削された新川運河にかかる築島水門がある。運河のあたりが以前の兵庫津の「内海」と重なる場所と見なすことができる。

新川運河(部分)の現況(右方に見える水門が築島水門,その外は神戸港の水面,中央やや左に樹木が見えるが,その奥が現築島寺)
新川運河(部分)の現況(右方に見える水門が築島水門,その外は神戸港の水面,中央やや左に樹木が見えるが,その奥が現築島寺)

 ところで、経の島の築造を「大輪田泊の改修」とする通説は正しいのだろうか。筆者も旧著『平清盛 福原の夢』(講談社選書メチエ、二〇〇七年)では、通説に拘束されていた。しかし、そもそもこれまで大輪田泊の位置は明らかになっていない。この一〇月に旧著を約二割増補して刊行された岩波現代文庫『増補 平清盛 福原の夢』(学術四八二)では、近接しているが両者は別物と明記して記述している。

 中世史研究者の大村拓生氏は、近くに存在した須佐の入江こそ、大輪田泊として利用されたものだという。この入江は、「兵庫津絵図」では、和田明神付近で現神戸港の海面と分かれ、南北に長い浜地で隔てられながら、細長く北北西方向に深く入りこんでいる。一方、歴史地理学の藤本史子氏は、一八八五年(明治一八)の京阪地方仮製図二万分一地形図、二万五〇〇〇分の一土地条件図、地名、古代・中世遺跡の分布状況などを総合して、古湊川の流路は「(兵庫津絵図の)「須佐の入江」と記された水路周辺を蛇行しつつ兵庫運河付近やや南部に広く河口を開いていた」と推定している(ともに大手前大学史学研究所編集発行『兵庫津の総合的研究──兵庫津研究の最新成果』二〇〇八年)。つまり須佐の入江は、古湊川の流路が難波の海にそそぐあいだの水面として、この地に形成されたものだという。そして、南北の長い浜地は、湊川の運ぶ土砂と当地の東南から寄せる風波の長期にわたる作用で形成されたもの、と考えるべきだろう。

 大輪田泊の大輪田を大曲と解するなら、海や湖や川の「水面の深く入り込んだ所、入江」をさすから(『岩波古語辞典』)、大輪田泊はこの入江を利用した港、と考えるのが理にかなっている。ちなみに『万葉集』にも「ささなみの志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも」という有名な歌がある。柿本人麻呂が、壬申の乱後、荒廃した天智天皇の近江宮跡を通過したときに作った反歌(長歌の後によみ添える短歌)である。この「志賀の大わだ」は、現大津市唐崎の琵琶湖岸で、大宮人が船遊びした場所だった。

 須佐の入江の一番奥まったあたりには、正応二年(一二八九)当地で没した時宗の祖一遍の廟所のある真光寺、弘安九年(一二八六)と造立年の刻まれた十三重の巨大石塔(清盛塚とよばれる)がある。『一遍上人絵伝』(歓喜光寺本)巻十二の末尾部分では、観音堂内に安置された一遍の遺骸を老若男女、道俗の群衆がとり囲んでいる。すぐその傍らが水面で、小舟が四艘つながれている。そこからやや離れた沖合(現神戸港の水面か)には、大量の米俵を積み船縁が喫水線近くまで下がった大型和船が航行している。真光寺のあたりが大輪田泊の中心であったと判断する理由である。入江は「兵庫津絵図」が描かれた半世紀後の宝暦元年(一七五一)には、すでに逆瀬川の一部に縮小し陸地化しているので、近世中期の土木技術・労働力動員で埋め立て可能な水深の浅い水域だった。

二 経の島が築かれたわけ

 承安二年(一一七二)、中国(南宋王朝)から特使がやって来、外交交渉が始まった。それは経の島の北三・五キロ、六甲山地の山裾にあった福原(現神戸市兵庫区平野)の清盛別荘でおこなわれた。清盛は当時政界の最高実力者だったが、形ばかりの出家をし、仁安四年(一一六九)以来この地に常住するようになっている。朝廷対策は京都の息子たちや親平家の有力貴族にまかせ、大事な案件は福原から指示した。

 右の交渉については、現代文庫で詳しく分析したが、中国側の責任者は、知明州(明州の知事)兼明州の沿海制置使だった趙伯圭である。かれは南宋第二代皇帝孝宗の同母兄という超大物である。明州はのちの寧波、中国の最重要海港の一つで、遣隋使・遣唐使以来、日本から多くの船舶が向かっている。

 交渉は中国皇帝が承認したもので、日本側も後白河法皇が加わる形で進められ、半ば公的性格を帯びたものだった。守旧派の貴族たちは反発するが無視され、翌々年話がまとまったらしい。清盛は双方の交流や海運の増加にそなえ、承安三年から大輪田泊の近くに自力で新しい波止場を造りはじめた。それがまさに経の島で、これにより従来博多で足止めされていた中国船が、都に近い難波の海まで入るようになった。

 中国船を迎え入れるためになぜ新しい波止場が必要になるのかといえば、それは日中の大型船の構造・性能の決定的な違いによる。「ジャンク」(一種の差別語)と総称される中国の伝統的な木造帆船の船体構造は、仰向けの人体と似た構造をとる。すなわち竜骨(キール)、肋骨、船梁などによる骨組みに、外板をはって船体を構成する。こんな船を構造船という。船首は平坦な箱型。同じ構造船でも西洋の船と違うのは、複数の隔壁が設けられている点である。帆柱に非対称にかかる帆は縦帆、蛇腹式に伸縮する網代帆である。

 竜骨は横ゆれを軽減させる効果があるので、大洋を長期航行する船には欠かせない。韓国の西南部木浦の国立海洋文化財研究所には、元の時代の商船の現物が展示されている。同館の図録によれば、至治三年(一三二三)、慶元路(寧波)を出航して日本を目指したが、全羅南道新安郡の沖合で沈んだ。それを海中で解体し引き揚げたものである。全長三四メートル、全幅一一メートルと推定され、七つの隔壁と二本の帆柱を持つ。船底には大きくて丈夫な四角断面の竜骨がおかれ、船体断面はじょうごの形をしている。

 一方、日本の大型船は、室町期までは準構造船と呼ばれる形式だった。準構造船とは、二つ以上の刳船(丸木船)部材を前後に継ぎあわせて造った船体の両舷に、一、二段の舷側板をつけて乾舷(喫水線から上甲板までの舷側)を大きくし、耐波性や積載量の増大をはかった船のことである。大型で全長二〇メートル、幅二メートル程度と推定される。太い丸木を削って船体を造るのであれば、高い技術は要らない。大海原に乗り出す機会がないから、無理して構造船を造るより効率がよい。船上には、客室になる屋形のほか一本の帆柱があり、莚帆がかかる。舷外には張り出しが設けられ、水手と呼ばれる漕手が座って櫓を漕ぐ。櫓は六―一二挺。帆は追い風を利用するだけの初歩的な構造で、推進は主に櫓によった(石井謙治『日本の船』創元社、一九五七年)。

 船底が尖って喫水が深く、和船より大型の宋船は、須佐の入江のような水深の浅い港には入れない。受け入れるためには、水深のある海岸に安定した碇泊地を造らねばならなかった。また宋船は季節風にのって中国を太陽暦七月に出航し、また季節風にのって四、五月に帰国する。このため、長期にわたり繋留できる安全な碇泊地が必要である。埠頭と船溜りは、それに欠かせない施設である。経の島ができてからも、大輪田泊は小型和船の入港停泊には問題が無いから、以後両者棲み分けながら、一体となって機能していたのだろう。

 岸辺から海中に突堤を築き出す経の島の造営は、当時の技術力では困難が多く、石を海中に沈めて築いた石垣が、風波でたちまち崩れ去ったという。この築港にあたって人柱を立てるという話は、室町後期から戦国時代にかけて流行した幸若舞という芸能の語り台本などに見えている。日本に人柱の習慣があったか否か議論の分かれるところだが、一四世紀後半に成立した『帝王編年記』という書物では、経の島について「一人を埋めて海神を祭り、石面に一切経(仏教聖典の総称)を書写す、即ちその石を以て修固を得る」とある。

 『平家物語』のなかで最も古態を残しているとされる延慶本というテキストには、「石の面に一切経を書きて、船に入て幾らと云ふ事もなく沈め」る工法がとられたとある。つまり老朽船や破損船に石を積みこみ、目的の場所で船ごと沈めて人工島の基盤を造るのである。それらの石の表面には、一切経の文句が書きこまれていたという。人工島が経の島と呼ばれるのは、このためである。

 最後に、清盛が個人用に「唐の船(宋船)」を手に入れていたことに触れておく。かれは福原に常住していたころ、瀬戸内海で宋船を乗り回していた。宋王朝から貸与されたものかも知れない。新しがりやのハイカラ人間だから、帆船の優雅さに惚れ、低速で居住性も悪い和船を敬遠、いわば高級外車の感覚で、愛用したのかもしれない。もちろん、そうした優秀船は、戦時には平家水軍を指揮する旗艦の役割を担った。

 清盛の宋船には中国の船員たちが乗り組んでいた。帆船は熟練の船乗りなしには動かせないが、加えて瀬戸内海は海難事故が多い。大小の島が多く海流も複雑で、春先から初夏にかけては頻繁に濃霧がかかる。この海を安全に航行するためには、天候・海域を熟知した日本人船員の乗船が欠かせない。新安沖の沈没船からは、大量の貿易陶磁器などのほか、乗り組んでいた船員などの所持品が引き揚げられている。中国式のフライパンや銅鑼、日本の将棋の駒や木製の高下駄、高麗時代の青銅製スプーンなど、中国人のほか、日本や高麗の船員が乗り組んでいた動かぬ証拠である。船員は昔も今も多国籍なのだ。

 大型船と言っても、人が顔をつきあわす狭い船内のこと、いやでも清盛の耳にかれらの会話が飛びこんでくるだろう。船乗りの話は、書物にはない生きた海外情報源である。彼は、ニーハオ以上の中国語の片言を話せたかもしれない。ひょっとしたらではなく、確信に近い筆者の夢想である。

(たかはし まさあき・日本中世史)


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