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思想の言葉:三島憲一【『思想』2024年12月号 特集|フランクフルト学派と社会研究所の100年】

◇目次◇

【特集】フランクフルト学派と社会研究所の100年

思想の言葉 三島憲一

 

―社会研究所創立100年―

社会研究所の創立100周年によせて
──前所長のパースペクティヴから
アクセル・ホネット/松崎匠 訳

制度としての「批判理論」の現在
──フランクフルト社会研究所の100年
宮本真也

批判理論のアメリカにおける100年
──権威主義的主体の生成と解体
日暮雅夫

戦後日本の社会学における批判理論とその展開
──急速な資本主義的近代化の中での真の民主主義の追求
出口剛司/中村拓人 訳

戦後ドイツ社会学史の舞台としてのフランクフルト大学
──経済・社会科学部の社会学者たちから見た社会研究所
高艸賢

 

―批判理論の諸相―

「自然の追想」としての美学
──アドルノとメンケの主体性論からみる批判理論と美学
吉田敬介

批判理論におけるユニークな伝統
──フロム, ホネット, ローザと社会的存在論の系譜
出口剛司

フランクフルト学派の反ユダヤ主義研究
細見和之

フランクフルト学派から批判理論へ?
──権威主義研究の100年史に寄せて
入谷秀一

フランクフルト学派の批判理論とアメリカにおける権威主義的ポピュリズムの持続性
ジョン・アブロマイト/市川結城 訳

 

―継承と発展―

R.フォアストにおける正義の批判理論
──正当化,叡智的権力,ポストコロニアリズム
田畑真一

社会のただ中で「自分の生」を生きる
──イエッギの成長する批判理論
飯島祐介

アドルノとレクヴィッツ
──「フランクフルト学派」の思わぬ遺産?
橋本紘樹

 

『思想』2024年総目次

 
◇思想の言葉◇

同一軌道上の作り替えと読み替え

三島憲一

 批判理論にはいろいろな名前が結びつく。まずはホルクハイマー。暗い時代に「伝統的理論」に対して文字通り「批判理論」を唱え、フランクフルト大学附属の社会研究所を、ジュネーブ、パリ、ニューヨークとオデッセイの旅で救った。次に盟友のアドルノ。初期の「哲学のアクチュアリティ」から戦後の『否定弁証法』に至るまで、ベンヤミン的な救済に固執し、概念の支配力や「認識論的帝国主義」(ベンハビブ)に吸収されない)))))))の側につき、廃墟と痕跡を見つめることこそ「墜落の瞬間における形而上学と連帯する思考」とする否定と批判が生きがいだ。

 そしてハーバーマス。『公共性の構造転換』や『後期資本主義における正統性の問題』、『コミュニケーション的行為の理論』といった社会思想の古典となる著作だけでなく、「歴史家論争」を始め数多くの論争で知られる。その影響力はアドルノなどを遥かに凌ぐパブリック・インテレクチュアルだ。

 だが、ハーバーマスの理論は、否定弁証法的思考とはだいぶ色合いが異なる。多くの研究者はこの色合いの違いに戸惑っている。社会学者は「墜落の瞬間における形而上学」と言われてもなんのことやらさっぱりだろう。形而上学や宗教がなくても、日常生活の言語的やりとりから真と偽、善と悪、正と不正の区別による弱者の重視は可能という程度のことなのだが。逆に哲学者にはハーバーマスの社会の機能分化論がとっつきにくいだろう。

 当のハーバーマスは、インタビューでこう述べている。「私は、伝統の継続なのか、革新なのか、あるいは伝統からの離脱なのか、というこの議論には加わりませんでした。なぜなら、歴史的コンテクストが新しくなるのは不可避であって、新たなコンテクストと新たな認識の光に照らした修正がなければ、「継続」などということはあり得ないからです」。嚙めば嚙むほど味が出る昔のテクストに後生大事にしがみつくのでなく、新たな状況の中で読み替え、新しい概念を生み出さなければ、伝統の意味はない。だが続けて、自分もアドルノも、一九三七年のホルクハイマーとマルクーゼの論文が目指す「理性と理性的自由というコンセプトの唯物論的説明が開いた軌道の上にいることは変わらない」とも述べる。「伝統的理論と批判理論」と題したホルクハイマーの、そして「文化の現状肯定的性格」を論じたマルクーゼの論文のことだ。

 第一世代とハーバーマスのあいだには「同じ軌道の上で」起きている読み替えがある。それに目が及ばない理解は、アドルノの文体の魔術に酔うだけか、ハーバーマスを社会学の教科書に矮小化するだけだ。「修正による継続」について三点ほどあげておこう。

 ひとつは、ホルクハイマー、アドルノが固執した「偶像禁止」もしくは「画像化禁止」だ。「神の姿を描いてはならない」とする、ユダヤ教の教えは、彼らにあっては「理想社会の設計図は描かない」という「掟」となった。設計図に従った社会主義社会の硬直化という新たな状況によってこの「掟」はさらにアクチュアリティを獲得した。『否定弁証法』には当時の東側の社会や文化への批判的言辞が多い。

 公共圏をめぐるハーバーマスの議論もこの延長線にある。理不尽な抑圧や制度への批判から始まった公共の議論は、種々の自由権という規範の確立に寄与こそすれ、総体としての理想社会を描くことのない、絶えず開かれたものとして構想されている。アドルノも就任講演「哲学のアクチュアリティ」で現実の総体を把握する哲学の意欲と訣別していた。現実と規範のずれこそが個々の発言の浸透力となって終わりのないプロセスとしてのディスクルスを産出し続ける。『事実性と妥当性』でも、法の不確定性こそ論じられるものの、デモクラシーの設計図は描かれない。

 次は規範のコンテクストを越えた妥当性である。コミュニケーションによる合意も、例えば言論の自由という規範への合意であり、それはそれとして普遍的に妥当することになる(普遍主義)、このあたりは、若きベンヤミンが友人たちへの書簡で繰り返した「精神的なもの」を継承している。青年運動に加わったベルリンの富裕なユダヤ系ドイツ人の子女たちが彼らの討論室(Sprechsaal)において共有した批判精神は、『ミニマ・モラリア』の最後にある「すべてが救済の立場から見えるように眺める」視覚につながる。ハーバーマスはこうした多少とも大袈裟な思考を切り下げ(デフレーション)、もしくは)))))し、つまり身の丈にあった日常に下ろし、「内側からの超越」を論じる。解釈学が教える通りどんな議論も必ずコンテクストの中にあるが、そのコンテクストを越えた普遍的妥当性に「内側から」到達することは可能だ。もちろん、絶対的に妥当するといっても、この規範自体のコンテクストに合わせた解釈も永久的に続くプロセス民主主義だ。

 三つ目は決断についての考察だ。コミュニケーション行為とディスクルス理論も「話せばわかる」無邪気かつ呑気なホームルームを想定しているわけではない。「空気を読んだ」発言が横行する中で「それはちがうのでは!」と発言する決断が重要なのだ。イエスとノーの選択を根拠をもって行うのは、一歩踏み出すことなのだ。あまり注目されないが、ハーバーマスがよく使う「自発的spontan」の語こそは「思わず言ってしまった」という、後から見れば決断ということでもある。そしてそれは「発語内在的力」に依拠するからこそなのだ。

 思い出されるのは、ベンヤミンの「ゲーテの『親和力』」にある仲の悪い男女の話だ。子供の時から仲が悪く喧嘩ばかりしていた二人だが、彼女が別の男とあげる結婚式の時に二人は、本当は絶望的に愛し合っていたことに気づく。決断の嵐が吹く。川に身を投げる彼女を助ける彼のシーンは、ゲーテの文学でも白眉の文だ。

 教養と静けさに満足するがゆえに全員が恋の一歩先への決断ができず没落していく『親和力』の主人公たちへの批判としてベンヤミンはこのシーンを捉える。ワイマール期のどっちつかずのリベラリズムなるものへ批判を―カール・シュミットの匂いも入れて──決断主義的に暗示している。しかし、コミュニケーション的行為では、ヘーゲル=ゲーテ的な教養主義的人倫(文化)が時として宿している非合理や社会的暴力に異議を唱える、日常会話の小さな決断(「あかんものはあかん!」)へと、決断主義が身の丈に合わせて切り下げられている。規範を重視した決断という点で、ハイデガーの実存的決断や、規範を嘲笑うカール・シュミットの大文字の決断とは異なる。ホルクハイマーやマルクーゼは、「現代哲学における合理性論争」や「全体主義的国家観におけるリベラリズムへの戦い」(1934)で、情熱や歴史や英雄的決断を語る当時の文化保守主義者、つまりファシズムの露払い役たちに対して合理性への決断を語る。アドルノも民族や故郷、祖国や自文化といった「偽りの普遍性」に対抗して非同一性を論じ、自分のアイデンティティのために他者を犠牲にしない、つまり他者をアイデンティティへと強要しない主体のあり方、未だ知られざるアイデンティティを求めた。こうした、第一世代にはまだあった大文字の決断から日常に降りて、先輩・後輩の序列や夫婦同一姓制度やオータニ、オータニと騒ぐアルカイズムへの「ノー」を「思わず言ってしまう」決断がとりあえず重要なのだ。

 例えば、ハーバーマスは儀式でドイツ国歌の演奏や斉唱のときにはその場を離れるそうだ。一九九四年の連邦大統領の選挙人として選挙に臨んだときにも(少年時代からの友人のヨハネス・ラウが負けた時の選挙)、国歌の演奏にあたっては議場から出たと、最近のインタビューで語っている。小さな小さな決断だが、国家の中心的儀式で、そう簡単にできることではない。

 概念と直観の関係についてのカントの筆法をもって言えば、アドルノを熟読しないハーバーマス理論の祖述や敷衍は空疎であり、ハーバーマスとわたりあわないアドルノへの耽溺は「密室の読書」と同じに盲目だ。パラダイムの交代を越えて繫がる「同じ軌道」こそが、そして、テクストの我々の時代に向けての読み替えと作り替えこそ批判理論の生命なのだ。

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