よこのなな こどもがこどもでいられるように[『図書』2024年12月号より]
こどもがこどもでいられるように
──スウェーデンと児童文学
アストリッド・リンドグレーンの本がこどもの頃から大好きだった。ロッタ、やかまし村、ピッピ、カッレ、ラスムスたち──何度読んでもいつ読んでもおもしろかった。でも、そこで暮らしてみたいとはあまり思わなかった(食べたいものはいっぱいあった)。読んでいればそこにいられたから。読んでいないときは思い出すだけでよかった。いまでも同じだ。フリーダ・ニルソンやイェニー・ヤーゲルフェルトなど、リンドグレーンの後継のような作家を読んでいるとき、わたしはそこにいる。本から離れても、登場人物たちのことをずっと考えている。
日本でスウェーデンの書籍情報を得るのは難しくないが、店頭や図書館で手に取れるわけではない。購入は賭けのようになり、文学賞の候補作や受賞作、書評などで評判がいいものに偏りがちだ。だが、スウェーデン児童書研究所(Svenska barnboksinstitutet)の年間統計によると、近年の売り上げ上位に並ぶのはYouTuberなど有名人による作品で、ロングセラーを出してきた老舗出版社がそれを刊行している。わたしが見ているのはほんのわずかな部分ということだ。でも、ここではそのわずかな部分への実感について書いてみたい。
リンドグレーンが好きだったいちばんの理由は、たぶん、こどものことをよくわかっていたからだ。自分と同じようなことを考えているこどもが、うっとりする遊びやわくわくする冒険をやってのけるのだ。おもしろくないはずがない。最初の出会いは『ロッタちゃんのひっこし』(山室静訳、偕成社)だった。朝から機嫌の悪いロッタは、セーターのチクチクが嫌だと着るのを拒み、セーターが悪いとはさみを入れ、切り刻んでしまったセーターを隠して家出し、おとなりの物置の屋根裏に住むことにする。ときどき我慢できなくなるあのチクチクも、悪いことしたなと思っても謝れない気持ちも、ぜんぶよくわかる。それに、おとなりのおばさんや屋根裏部屋のすてきなこと。
スウェーデンの児童文学では、こどもの立場、目線から描かれていることが非常に重要視される。その根底にあるのは、こどもは独立した個人である、という考えだ。だからだろうか、テーマにも内容にも表現にも妥協がない。妥協がないという意味で、タブーもない。社会への批判を直に込めたもの、現実をありのままに描くものも多い。でも、こどもは小さな大人ではない。消費者でもない。だから、こどもを見守る存在や視線、希望ある未来を見据える目もどこかに必ず入っている。こどもとしっかりと対峙し向き合うが、突き放しはしない。そこが児童文学として成立する、必須で最大の要素といえるのかもしれない。
決してこどもを見くびらない姿勢は、こどもにはわかる、という信頼に基づくものだろう。手強い作品に出合うと、ほんとにわかるのかな、と疑問がわくが、あの本のあれってこういうことだったのかな、と思うことは確かにある。数十年たってからでも、ある。たぶん、わかるのだ。それがいつになるかは、それぞれであっても。あるいは、大人になってしまった自分がわからないだけかもしれない。作品を預かる翻訳者としては、たとえわかりにくかったとしても、そう思えたとしても、できるかぎり作者が書いたように訳すことに努めている。
9月に刊行された訳書『ぼくらにできないことはない』は、アストリッド・リンドグレーン記念文学賞受賞者エーヴァ・リンドストロムによる絵本だ。「うちゅうせんで ついたのは ここ」と始まる詩のような文章は、しんとしているのにどこかシュールで、独特の繊細な色遣いの水彩画には奥行きがあり、読むたびに印象が変わっていく。主人公のふたりは、母親と飼い犬とともに見知らぬ場所で暮らし始めたばかりのよう。「できないことなんてない」「ぼくらにはなんでもある」とくりかえしながら、ここにいない父親のことを考えている。移民や難民の物語とも、喪失と再生の話とも読める。根源的なさびしさ、寄る辺なさを描いているのかもしれない。困難な状況にあっても立ちあがろうとする強靱さと揺らぎ、生きることの難しさと喜びが、静かに提示される。リンドストロムがスウェーデンを代表する絵本作家と称されるのも納得がいく。
決してわかりやすい本ではないが、ぜひやりましょうと即答して刊行を実現してくれた編集者らのおかげで、美しい絵本に仕上がった。届く感想の中には思ってもみなかった解釈もあり、幅広い読み方に堪える作品だと改めて感じている。
さらに下の世代の絵本作家として代表的な存在は、1982年生まれの双子、エンマ・アドボーゲ(Emma Adbåge)とリーセン・アドボーゲ(Lisen Adbåge)だ。20年以上のキャリアを誇り、数ある作品は国内外で高く評価されているが、とても挑戦的だ。エンマの「Gropen(あな)」(2018)は、木の根がむき出しの窪地で遊ぼうとするこどもたちと、危険なところでの遊びをやめさせようとする大人たちの攻防を描く。けがをしても叱られてもこどもはスリルを求めるものだと、読み返すうちに思い出す。リーセンの「Furan(マツの木)」(2021)は自然と人間の関係を描くが、大木を切り倒して家を建てた家族がだんだん木になっていくホラーストーリーだ。強烈だが、まだ飲みこめず、たまに読み返している。
移民のルーツを持つ、先住民サーミであるなど、マイノリティの属性を持つ作家の作品も、近年高い評価を受けている。これを現在の傾向と見る向きもあるようだが、わたしはただの流行と片付けてしまいたくない。これまで虐げられてきた存在の視点や語りが、やっと、少しずつではあるけれども、聞かれようとしているのだ。そう考えたい。そして、こうした作家の作品が刊行され評価される土壌があることに、可能性を感じる。
これまで物語の主体として圧倒的に多く描かれてきたのは、マジョリティである白人、比較的恵まれた家庭のこどもだ。リンドグレーンが描く登場人物も多くはその枠にあてはまる。貧しい家庭や困難な環境にいるこどもは脇役だ。主人公である場合は〈別の世界〉に赴くことで本当の自分や幸せを手に入れる。
家出をしても、ロッタは大人に見守られ、家に戻ることを自分で決める。だが、読み手にとって家が安心できる場所でなければ、見守る大人がいなければ、この結末で安堵することはできない。もちろん、登場人物の属性など関係なく楽しめるのが、文学のすばらしいところだ。けれど、心のどこかで「これは自分の物語じゃない」と思っていたこどもがいるはずだ。未知の世界への扉を開く本、既知の世界を映し出す本、どちらも必要だが、後者が極端に少ない場合もある。そこを乗り越える作品が求められているのだと思う。
移民・難民ルーツの人が多く暮らす大都市の郊外地区には、犯罪が多発しギャングの抗争が激化というイメージが定着している。1997年生まれのノーラ・ハリール(Nora Khalil)は、地元である郊外地区とそこで生きる人々を軽快な口語で活写する。詩の大会で注目を浴びた彼女の小説には、軽さと力強さの見事な緩急がある。小説執筆講座に通い始めた当初は地元のスラングを使わないようにしたが、口語だらけで書いた習作は評判がよく、同じ登場人物たちの物語を流れるように書いていったそうだ。
書きためた原稿をもとにしたデビュー作「Yani(てゆうか)」(2022)と続編「Abow(やべえ)」(2023)の主人公ラヤンはアラブ系の移民二世、幼なじみの親友カスピアンはシングルの母親がポーランド出身だ。何年も一緒に過ごしてきたもうひとりの親友アミールはイラク出身で、突然国外退去を命じられる。移民局によるこの決定を覆そうとするラヤンたちの奮闘を軸に、中学生の日常がユーモラスに描かれる。郊外の子としての早熟さや諦念を持つラヤンたちも、ユースセンターと呼ばれる公共施設ではこどもらしさを見せ、職員に悩みを打ち明ける。見守るのは家族でなくてもいいのだ。
ハリールは積極的に学校訪問を行い、生徒たちの声をときおりSNSに綴っている。本を読むのは嫌いだけどこの本は読めた。タイトルがおもしろいから読みたい。先生が知らないスラングをみんなで教えてクラスで読んだ。初めて本の中に自分が知っている世界があった──。身近な人が犯罪に巻き込まれて命を落とすこともめずらしくない過酷な環境で育つこどもたちを、彼女の作品と活動は確かに支えているように見える。
ガザのこどもたちが、自分たちのおかれた惨状をSNSで訴えている。学校へ行きたい、こどもらしくいさせてほしい、と書いている。なにもよくないと思いながら、〈いいね〉をつける。こどもがこどもでいられるようにすること、どこか別の世界ではなくいまいるその場所でこどもらしく生きられるようにすること、わたしたち大人にはその義務がある。それなのに、こどもたちにこんなことを書かせ、こんな状態を見せている。
リンドグレーンばかり読んでいた頃のわたしは、小難しいことを考えるくせにとてものんきで、世界はひどい状態だけど必ずもっとよくなる、と思っていた。恵まれた環境で守られていたということだが、物語の中でこどもはこどもでいられたこと、そこにはいつも希望があったことも大きい。だいじょうぶ、と本は教えてくれていた。いまもそうだ。
だから、その希望を、わたしは翻訳を通じて届けたい。こどもたちに、こどもでいることをあきらめさせたくない。
(よこの なな・スウェーデン語翻訳家)