山口徹 出会いと絡み合いのフィールドワーク[『図書』2024年12月号より]
出会いと絡み合いのフィールドワーク
南太平洋オセアニアの島々で経験してきたフィールドワークには、人、モノ、コトとの出会いがあふれていた。そのなかから、ポリネシアの中ほどに浮かぶプカプカ環礁での気づきを少しばかり綴ってみたい。
(図1)左から,文化人類学の棚橋訓氏,プカプカ環礁のジュニア・テオペンガ,地球科学の山野博哉氏,考古学の筆者(撮影 文化人類学の深山直子氏)
オセアニアの環礁州島
2023年8月、ラロトンガ島でインタビュー調査をしているときだった。プカプカ出身の女性がふと思い出したように、ジュニア・テオペンガが心臓の疾患で数日前に急死したと呟いた。その途端に自分の瞼の内側から涙が溢れて、しばらく止まらなかったことに驚いた。感情がこれほど揺さぶられることは久しくなかった。ジュニアはプカプカで出会った無二の親友だった。
ニュージーランドのオークランド国際空港から4時間ほど北上した南緯21度の海域にラロトンガは位置する。プカプカはそこからさらに北へ1100キロ、赤道の近くに位置する北部クック諸島の離島環礁である。レギュラーフライトはない。貨客船が年に数回ほど回航するが、不定期なので期間限定の調査にはむかない。小型のチャーター機を手配することになるが、かなり高額である。幸い2017年から5年間の予定で国の科学研究費を得て、毎年訪問できるようになった。現地調査にあたっては、考古学の筆者を触媒にして地球科学と文化人類学の共同研究者を取り結ぶ学際チームを構成した。
空から眺めると、サンゴ礁が環状に連なり、外洋から寄せる白波が礁縁で砕けている。その上に堆積した未固結な砂礫が州島をつくっている。まるで首飾りの様に美しいが、人間の生活には厳しい環境である。河川や湖沼といった陸水はなく、有孔虫殻やサンゴ片からなる炭酸カルシウムの砂礫の上では腐植土の発達が悪い。出来たての州島には、海流が運んだ海浜植物しか見当たらない。
そんな州島にウミドリが羽を休めに飛来すると、羽毛に絡まったトゲミウドノキの種が落ちたりする。根付いたこの木は樹高20メートルを超すほど大きく育ち、やがて鬱蒼とした林をつくり出す。その樹冠にグンカンチョウやカツオドリ、アジサシが営巣し、雛が生まれる。ウミドリたちの糞が林床に厚く堆積する。
オセアニアの航海者たちがそこに渡ってくると、陸上生態系は一気に多様性を増す。テリハボクはカヌー材に、パンノキの実は食料に、ココヤシの実は飲料にも食料にもなり、幹や葉は建材としてさまざまな場面で活用される。イヌやブタ、ニワトリといった家畜や家禽もカヌーに乗って一緒に渡ってきたかもしれない。もちろん、ネズミやゴキブリ、ハエや蚊も紛れ込んでいただろう。こうして運び込まれた動植物を環境史では「旅行カバンの生物相」と呼ぶ。
そのなかでも、環礁島民の生存にとって特に重要な栽培種がサトイモと同種のタロイモである。陸水のない環礁州島でタロイモを栽培するには、天水田を造る必要がある。大型の州島に降った雨水は、州島の地下に染み込んでいる海水の上にレンズ状に滞水する。海水より比重が小さいからだ。この淡水レンズを利用するために、人々は低平な州島をすり鉢状に掘りくぼめ、そのなかでタロイモを水耕栽培している。
(図2)プカプカ環礁の天水田(ウィ・パレアァ)
タロイモの天水田
こうした天水田の景観史を解明することが調査チームの目的で、それを最初に手伝ってくれたのがジュニア・テオペンガだった。背は高くないが、横にがっしりとしたバリトンボイスの50代の男だった。歌が上手く、作曲や作詞を手がける音楽家で、島のダンスチームを率いていた。島社会でも要職に就いており、一目おかれる存在だった。
強い日差しのなかを並んで歩き、めぐった天水田は30近くを数えた。掘り下げられた田面は、まわりの地表面より2、3メートルは低い。積み上げられた砂礫の山が周りを取り囲んでいるから、上に立つと比高は5メートルを超える。こうした廃土堤にはココヤシやハスノハギリが並ぶ。植栽されたテリハボクは、直径1メートル近い幹が根元から枝分かれして幅広の樹冠を形成する。その大木が田面に緑陰を落としている場所もある。だから、海水の飛沫を運ぶ強風もなかには届かない。
見下ろす田面は2メートル四方ほどの小区画に分けられ、やわらかい風にタロの葉がそよぐ。植付けしてから3―6カ月ほどでイモが育つ。収穫した後に残った株を再び植え付ければ、イモが再生する。
葉の形や茎の色、イモの断面の色味といった微妙な特徴で呼び分けられる複数の品種が一つの区画に混栽されている。なかには、タヒチやニウエといった名が付く株もある。そう遠くない過去に、誰かが島外から持ち込んだ品種なのだろう。
植え床には、ココヤシやハマユウの葉が田面を覆うように敷き詰められている。照り付ける日差しで土壌や水の温度が上がってしまうのを防ぐためである。根覆いが萎びてきたら、なかに踏み込めば緑肥になる。トゲミウドノキの林床に堆積したウミドリの糞には、餌となった小魚の窒素やリン酸が含まれている。だから、天水田の土づくりにも活用されてきた。こうして、島の祖先たちの長年にわたる営みのおかげで、田面の下には、ちょっと臭うが、暗色の柔らかい腐植土が50センチメートルも溜まっている。
サイクロン・パーシー
こうして見ると、自然と人間の合作として「完成した」景観のように思えてくるが、ジュニアや島の人々からは、天水田が壊滅的な状態に陥ったときの体験談も聞くことになった。2005年2月27日にプカプカを襲った熱帯サイクロンの話である。
夜九時ごろ、プカプカ南東沖にサイクロン・パーシーが最接近したとき、勢力はカテゴリー4に達し、最大風速が秒速60メートルを超える猛烈な嵐となった。幸い死者はでなかったが、一夜明けるとほとんどの家からトタン屋根が吹き飛ばされ、ココヤシは実も葉も落ち、折れた木々の幹や枝がそこかしこに散乱するありさまだった。
環礁島民の生活にトタン屋根は欠かせない。雨水を集め、樋を通してタンクに貯めることができるからだ。その設備を失った上に、無菌の水分を1リットルほども蓄えるヤシの実まで落ちて傷んでしまうと、とたんに水不足に陥ってしまう。サイクロンからしばらくまとまった雨が降らなかったため、島の人々の生活はなおさら厳しく、島外から送られた支援物資の飲料水で生命をつなぐしかなかった。タヒチに基地を置くフランス海軍が1カ月後に淡水化プラントを貸し出してくれたおかげで、ようやく一息つけたという。
もちろん食べ物にも事欠いた。特に、タロイモ耕地の壊滅的なダメージは深刻だった。プカプカの水耕栽培は、すり鉢状に掘りくぼめた天水田のほかに、もともとの湿地を転用した耕地でも行われていた。この湿地の端がラグーン(礁湖)に近く、そこから高波が入ったという。海水に浸かったタロイモの株は、もはや植付けには使えない。塩害を受けた地下水レンズが淡水に戻るのに1年近くかかってしまった。天水田の方も豪雨で冠水し、なかなか水が退かなかった。水位を調整するために廃土堤を崩して、湿地に排水した天水田もあった。
衛星画像で変化を調べてみたところ、復興が軌道に乗るまでに4年もかかったことを確認できた。サイクロンから12年経った2017年時点でも、以前の状態には戻っていなかった。耕地面積の四割は放棄されたままで、キダチキンバイというアカバナ科の多年草で覆われていた。
お土産の箒
5年間の予定だったプカプカのフィールドワークは、コロナ禍で中断せざるを得なかった。調査をとおして、人やモノやコトが外から寄せ来ることで島は自らの景観を更新すると学んだ。それでも、小さな島社会にウイルスを持ち込むことは避けなければならない。こうして、ジュニア・テオペンガに会ったのは2019年8月が最後となってしまった。
思い返すと、調査を終えてプカプカを旅立つときはいつも、島の女性たちからお土産として箒をいただいた。キダチキンバイの木質の茎を乾燥させて束ねたものだった。この雑草は、20世紀初頭のサイクロン被害後に、外から持ち込まれた種イモに付着して入ってきたらしい。はからずも根付いた外来の雑草であっても、ただ手をこまねくのではなく、特産品の箒に変えてしまうしなやかな知恵が島の人々にはあるのだと思う。
ジュニアもそうした島民の一人だった。彼は別れ際に、「帰路の旅が何事もなく安全で、どこにいても食べ物に困らないように」との粋な思いを込めて、自作したカヌーの櫂とタロイモの捏ね鉢を私たちにプレゼントしてくれた。「住む家を清潔にして健康で暮らしなさい」と貰った箒と合わせたプカプカ3点セットを手に、ラロトンガから迎えにきたチャーター機に乗り込んだ。
今年の8月、ジュニアのいないプカプカを5年ぶりに再訪した。彼が眠る墓の前に立ったとき、出会いのフィールドワークのその先に、どうしようもない別れもあるのだと気付かされた。
(やまぐち とおる・考古学)