【文庫解説】池澤夏樹訳『カヴァフィス詩集』
20世紀初めにエジプトのアレクサンドリアで詩を書き続けたカヴァフィス。生前広く公刊されることのなかったその詩の大半は、歴史を題材にアイロニーの色調でうたうもの、そして同性との秘められた恋と官能を追憶としてよむものでした。喪失の悲哀に満ちた全154詩を、作家の池澤夏樹先生は長い年月をかけて日本語に訳出してきました。以下は池澤先生の解説の冒頭部分です。
解説はこのあと、「言語」「普及」「再び伝記」「詩材1 歴史」「詩材2 同性愛」「詩材3 アイロニー」「詩材4 失敗・喪失の悲哀」「この翻訳について」と続き、カヴァフィスの詩の魅力が語られていきます。全文は、本書『カヴァフィス詩集』をお読みください。
総説
コンスタンティノス・カヴァフィスは1863年にエジプトのアレクサンドリアで生れて1933年にアレクサンドリアで亡くなった(ギリシャ語ではΚαβάφηςだが英語などではCavafyと綴られる)。
同時代の詩人を探せば例えばライナー・マリア・リルケ(1875~1926)が生きて書いた時期が重なる。日本でなら島崎藤村の人生がちょうど10年ほど遅れている(1872~1943)。
文学史においてカヴァフィスは孤立している。ヨーロッパ文学の潮流と無縁であるだけでなく、1829年に近代国家として独立したギリシャの詩人たちとも没交渉だった。ギリシャ本土にも最晩年に病気治療のため行ったくらいで、その生涯のほとんどをアレクサンドリアで過した。ジェイムズ・ジョイスにとってダブリンが必須のトポスであったのと同じで、この特異な都市は彼の盟友であった。彼の詩の多くはここを単なる舞台以上のもの、むしろ主題としている。
歴史
彼が書いたのはアレクサンドリアの現在ではなく過去だから、この都会の歴史は彼の詩を読むのに必須の知識である。
BC332年に大王アレクサンドロスが地中海沿岸に開いた都市であり、彼の死から300年ほどの間はプトレマイオス朝エジプトの首都だった。女王クレオパトラはここに君臨したし、古代世界でもっとも規模の大きい大図書館もあった。ヘレニズムの拠点であり、衰退したギリシャ本土よりずっと高い文化を実現していた。『ダフニスとクロエー』や『レウキッペーとクレイトポーン』など世界で最初の大衆小説はここで誕生した。
盛時の栄光とそれに続く長い退廃はカヴァフィスの詩の主題の一つである。
BC30年、プトレマイオス朝はローマ帝国に滅ぼされてその属国となった。やがてローマ帝国は東西に分かれ、641年にエジプトはイスラム教徒の支配下に入ったが、アラビア人は海には関心がなく、港湾都市アレクサンドリアは廃れた。16世紀からオスマン帝国の属領になり、300年後、ここの価値に気づいたヨーロッパ列強の争奪の的となる。ナポレオンの軍隊が上陸し、それをイギリス軍が駆逐して、エジプトは英領になった。
この時期からナイル・デルタは綿花の栽培で産を成した。その積み出し港がアレクサンドリアであり、それを取り仕切ったのはギリシャ系の商人だった。
つまりアレクサンドリアは古代以来の長い盛衰の歴史を持ち、19世紀半ばには多くの民族と言語が混じり合う国際都市として栄えていたということになる。
伝記的事実
コンスタンティノス・ペトルー・カヴァフィスは1863年4月29日にアレクサンドリアで生れた。
9人の子供の末子であったが、そのうちの2人は彼が生れた時にはもう死亡していた。家は裕福な貿易商で、もともとの本拠はコンスタンティノープルにあった。父はしかしイギリスに長くおり、結婚後もすぐまたイギリスに渡って数年をロンドンやリヴァプールで過し、イギリスの市民権を得ている。兄たちの中にもそれを継いでイギリス各地の支店を維持したり新しく商売をはじめたりした者がいるなど、この大国との関係は深かった。
一家がアレクサンドリアに移住したのは詩人が生れる8年前である。当時ナイル・デルタで作られる綿花はほぼ全面的にアレクサンドリアに住むギリシャ人の商人たちの手で輸出されていた。この中にはサルヴァゴス家やベナキス家のような富豪が少なくなく、カヴァフィス家も新顔ながらそれに次ぐ地歩を占めていたようだ。この小さな社交界の中で彼らはそれなりの敬意を受けていた。
しかし1870年に父が死ぬと一家の財政は速やかに崩壊した。生前の父の浪費癖、20歳になったばかりの長兄以下7人の子供たちの未熟と母親の世間知らず、それに二、三の投機の失敗で一家はたちまち困窮し、再びイギリスへ移住する。だがそれも長くは続かず、数年後にまた投機に失敗したこともあって、母と幼い子供たちは1877年アレクサンドリアに戻った。生計はカイロ、コンスタンティノープル、ロンドンなどに散った兄たちの送金によって維持されたらしい。詩人は要するにdéclassé(没落階級)の末子として育ったわけだが、アレクサンドリアにいれば知人は多く、いろいろな援助もあり、食べるに困るところまではいかなかったのだろう。社会的地位も維持された。
1882年、アレクサンドリアではナショナリズムのたかまりと外国資本の専横をきっかけとしてアラブ系の住民と外国人の間に衝突が起った。イギリスは軍艦を送りこんで強引にこれを鎮圧し、以後積極的な占領政策に入るのだが、この時期に一家はほかの外国人に倣ってしばらくコンスタンティノープルに難を避けている。戻った後、詩人は亡くなるまで、短期の旅行を別にすれば、アレクサンドリア以外のところで暮したことはない。
若い頃から詩を書いていたようで、1886年にその一部を私的かつ小規模に刊行したが、これらの作は後に詩人自身によって破棄され、彼自身が公刊を認めて印刷した詩篇154篇の中で一番早いものには1896年の日付がある。彼は33歳だった。
発表の方法としてはほぼ一貫してパンフレットないし一枚物の形で知人に配るにとどめ、後から手を入れる場合には彼らのあいだをまわって手で直したり、もう一度刷りなおして前の版と交換したりしている。非常に狭い交友圏の中で発表した作のすべてをずっと管理下に置いていたわけで、そのためか彼の詩のトーンは最初から完璧な形をとって現れ、以後数十年まったく変らなかったかに見える。この稀有な完成度は彼の詩の魅力を考える時に無視できない要素である。
(全文は、本書『カヴァフィス詩集』をお読みください)