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思想の言葉:負けるピアノ 伊東信宏【『思想』2025年1月号】

◇目次◇

思想の言葉 伊東信宏

〈討議〉哲学の現場
金杉武司+野矢茂樹+山田圭一

『プロヴァンシアル』第14信における政治思想
──パスカルとニコルの間
山上浩嗣

神に対する義務
小坂和広

概念史,認識論的歴史,日本の近代化
──世界の近代化と前近代世界の概念体系(2):近代初期の翻訳概念(1)
彌永信美

認識・知識・知覚
──視点の哲学(2)
鈴木雄大

可能性空間の存在論
──リズムの精神分析(3)
十川幸司

〈書評〉人間解放の途上にて
──芝崎厚士『グローバル関係の思想史』を読む
最上敏樹

〈研究動向〉下からのパブリックヒストリー
──イギリスにおける歴史学と人々の挑戦
兎澤映美

 
◇思想の言葉◇

負けるピアノ

伊東信宏

 最近「負けるピアノ」ということを考えている。ヒントになったのは隈研吾氏の『負ける建築』(岩波現代文庫)だが、そこで「負ける建築」は、現在の都市に屹立する超高層建築のような「勝つ建築」と対比されている。それは「突出し、勝ち誇る建築ではなく、地べたにはいつくばり、様々な外力を受け入れながら、しかも明るい建築」だ、という。これに倣うなら、「負けるピアノ」が目指すのは、スピード、大音量、技術で人を圧倒するような勝ち誇るピアノ演奏ではなく、静かにゆっくり内省するピアノ音楽、ピアノ演奏である(ちなみに隈氏の建築については、その経年変化について問題視するような報道も時折目にするが、「様々な外力を受け入れ」る「負ける建築」という考え方からすれば、これは元々織り込み済みだったはずである。問題はその外力を受け入れ、「負け」ながら、なおそれを越えてゆく何らかの力を持ち得るかだろう)。

 ピアノを習う子供は減ったが、ピアノの話題自体は減ったわけではない。ショパン・コンクールで日本人が何位になったとか、それがどんな戦略によって達成されたかといった報道には事欠かないし、ネットには難しいパッセージを誰が早く弾けたか、というような動画も溢れている。「勝つピアノ」、人を圧倒するピアノ、勝利の音楽の話ならいくらでも見つけることができる。だがピアノ音楽ってそれだけではないだろう、と思う。

*   *   *

 この種のことを考えるようになったのは、作曲家ジェルジュ・クルターグが弾くモーツァルトの演奏の映像を見てからである。クルターグは一九二六年生まれで、現在九八歳。ルーマニアにハンガリー語を母語とするユダヤ人として生まれ、第二次大戦後ブダペストの音楽院で学び(同じくルーマニア生まれのハンガリー語を話すユダヤ人だったリゲティの親友となった)、長くハンガリーの伝説的音楽教師、作曲家だった。若い頃は寡作で知られ(作品の数も少なかったし、一曲ずつも短く音符の数も少なかった)たが、一九八九年の体制転換後ベルリン、オランダ、パリなど西側にも住むようになり、大作も書いて、今では存命する最も重要な作曲家の一人とみなされている。

 彼は学生の頃に同世代のピアニスト、マールタと結婚し、ほとんど一心同体のような関係で知られてきた。新作を書くと真っ先にマールタの批判を仰いできたという。近年は二人で演奏会を開くことも多く、そういう演奏会では、クルターグ自身のピアノ作品集『遊び』の中の曲と、バッハなどバロック以前の作品のクルターグによる編曲とが交互に連弾で演奏されていった。『遊び』は半世紀ほども前から書き継がれている作品集で、多くは一ページ以内の小品であり、深くピアノの響きに沈潜するような作品群である。これらが並べて弾かれると、協和音であっても不協和音であっても、同じように繊細で同じように深い音楽になり得ることに驚かされる。

 そのマールタが二〇一九年一〇月に亡くなり、ちょうど一年後に発表されたのが、クルターグによるモーツァルト演奏の映像だった(この時クルターグは九四歳)。曲はモーツァルトのニ長調ソナタK.576の第二楽章である。クルターグが弾いているのは、(おそらくYAMAHAの)アップライト・ピアノだ。このピアノにはスーパー・ソルディーノ(超弱音ペダル)がついており、それを使うと極端にくぐもった音しかでなくなる。クルターグはこの超弱音ペダルの付いたアップライト・ピアノの音が気に入っているらしく、時には彼の作品の楽譜にもこの楽器を使うような指示が出てくる。そのピアノの前に、かつては夫妻が並んで座っていたのだが(マールタの生前にはそういう動画も公開されている)、今はクルターグが一人で座る。そして日常生活の延長のようなやり方でモーツァルトの最後のピアノソナタのゆっくりした楽章が始まる。

 もちろん大きな音は出ないが、このくぐもった小さな音のゆえに、響きは弾かれた途端に減衰してゆく(それはピアノの宿命のはずだが)というよりも、弦楽器の弓や管楽器の息のような持続を感じさせる。時として考えたこともなかったような短い音も出てくる(第二小節の左手の和音など)。そしてよく耳をそば立てると、ここには非常に微妙な緩急がある。強弱、拍の重さ、和音のバラけ方、フレージングといった様々な要素の対比が音楽を控えめながら思いがけないほど立体的に彫琢してゆく。通常、ピアノ音楽に求められるような華麗で人を耽溺させるような要素は一つもない。輝かしい「ブリリアントな」音もない。だが、イ長調で穏やかに可憐に始まった曲は、中間部で嬰ヘ短調となって思いがけない奥行きを持つようになり、さらにモーツァルトが魔法のように繰り出す予期できない音の連なりはどんどんと身を捩るようにして私たちを遠くへと連れてゆく。そしてクルターグの、やはり魔法のような演奏によって、聴く者は想像しなかったような彼方に連れてゆかれることになる。

 このヴィデオには「マールタに」というタイトルが付いているのだが、このタイトルが示しているように、これが一種の追悼であることは明らかだ。マールタはかつてこの曲のように可憐だったのだろうか。あるいは彼女がこの曲を好きだったのか。ともかく宛先は天上にいるマールタであって、我々はそれを見守るだけだ。神楽や「翁」のような芸能が神に宛てられた音であって我々はそれをただ見守り、もれ聴くしかないのと同じように。そしてこの動画をなん度も繰り返し見聴きしているうちに、これは「負けるピアノ」だ、と思うようになった。

*   *   *

 晩年の坂本龍一さんは、雨の音や自分の踏みしめる落ち葉の音を録音して、それを作品に取り入れたりしており、その活動はほとんどサウンド・アーティストと言ってよいようなものだった。そして、クルターグの音楽(その作品にも演奏にも)に強く惹かれていた。余命宣告を受けてからの坂本さんが弾くピアノは、とてもひっそりしていて、どんなに華やかなヒット曲であっても、和音や旋律の指し示す内容とは別の平面で、異様な壊れやすさのようなものを感じさせるものになっていた。

 二〇二〇年の秋に、右で述べたクルターグの映像を見つけて真っ先に坂本さんに連絡してこのクルターグの演奏にとても感銘を受けたことを伝えると、坂本さんからは「一小節目で涙が出てきました。豆腐を切るように弾いてますねー」という返事が返ってきた。たしかにクルターグの指は高く上げられたりせず、垂直になんの力みもなく鍵盤を押し下げる。「豆腐を切るように」という表現には何か出典があるのか、と思っていつかきいてみようとおもいながら、ついにききそびれた。二〇二〇年一二月に坂本さんがピアノ一人でライブ録音したアルバムがあるが(タイトルは『20201212』)、この時坂本さんの頭の中にはいくらかはクルターグの「負けるピアノ」のイメージがあったのではないか、という気がしている。

 ピアノというのは、楽器の中でもとりわけ人工的なものであって、木が素材であると言ってもその木は大きな力で撓められ、ねじ曲げられ、さらに何百本ものピアノ線の張力にも耐えられるように鋳鉄のフレームをはめられている。そのピアノで、わざわざ「負け」ようというのだから、これがかなり韜晦した言い回しであることは自覚している。

 だが音楽の歴史の中では、我々はこの楽器を使って力を誇示しようとしてきた一方で、それを人の声に似せようとし、「祈り」のようであることを願い、そして自然の物音に溶け込ませようとしてきたことも確かだ。坂本さんの「津波ピアノ」のプロジェクトは、東日本大震災の時に津波に浸かったピアノを引き取り、壊れた鍵盤や切れた弦もそのまま修復しないでその音に聴き入るものだった。そこでは人間が強引に調教した楽器が「自然によって調律し直されている」。隈研吾氏の新国立競技場が「外苑の森にどう負けるかだけを考え」て作られたというなら、「津波ピアノ」もやはり自然に負けること自体が主題である。

*   *   *

 ずっと若い北村朋幹さんのピアノについても触れておきたい。彼が最近取り組んでいるジョン・ケージのプリペアード・ピアノのための『ソナタとインターリュード』の演奏(フォンテックからCD化されている)も、筆者には「負けるピアノ」であると思える(彼はピアニストとして冴え渡った技術の持ち主なのだが、それでも)。ケージがダンスの音楽を依頼されて、打楽器アンサンブルの代わりに考案した、というプリペアード・ピアノ(弦にネジや消しゴムを挟んで奇妙な音が出るようにセットされたピアノ)は、その成り立ちからして、通常は打楽器的な音を目指して演奏されることが多いのだが、北村さんはそれを繊細極まりないやり方で密やかに弾いており、音楽は静謐な、というよりほとんど呪術的なものとなる。考えてみれば、叩いても妙な音しか出ない鍵盤があったりするプリペアード・ピアノというこの発想も「津波ピアノ」を予感したようなものだったのかもしれない。楽器の用法も、北村さんの演奏も、何かに勝ち誇るようなものではない。負けるピアノの「負ける」には、「化学繊維にまけて皮膚がかぶれた」というような「まける」のニュアンスもある。単に勝ち/負けに拘っているつもりはない。あらゆるものを計量し、数値化してその勝ち負けを競うような話に乗りたいわけではないのだ。それよりも音楽に相応しいのは、外力に敏感に反応すること、他者に柔軟に寄り添うことの方だ。「負けるピアノ」は、ヴァルネラブルなものの側に、アビリティではなくディスアビリティの側にある。

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