中村一成 私たちはどんな社会を求めるのか[『図書』2025年3月号より]
私たちはどんな社会を求めるのか
『ジャーニー・オブ・ホープ──被害者遺族と死刑囚家族の回復への旅』現代文庫版刊行によせて
パレスチナ全土でジェノサイドが続いている。2023年10月7日以降に激化したガザでの虐殺は一時停止したが、医療の破壊や封鎖による飢餓などで「関連死」は今後も増え続ける。しかも「停戦」をイスラエルが守る保障など一切ない。そしてイスラエルは、ヨルダン川西岸地区での軍事侵攻を「停戦」後ますますエスカレートさせている。
20歳以下が人口の半分を占めるガザに最新兵器の雨が降り注ぎ、女性や子どもが虐殺されるのを過半数が支持するイスラエルに私が見るのは、始原に「死」を埋め込んだ社会の成れの果てだ。
1947年の国連のパレスチナ分割決議以降、彼らは民族浄化を続けてきた。建国前、パレスチナの村々で重ねた集団虐殺とレイプ、追放。1967年にはパレスチナ全土を占領し、2007年にはガザを完全封鎖した。そのガザでは数年おきに虐殺を行う。それを彼らは「草刈り」と言い募ってきた。
同じ入植者植民地主義国家で、先住民の虐殺・追放と黒人奴隷の酷使で国を築いたのが米国である。世界中に死と破壊を輸出し続けるこの国で、その根幹にある「死の文化」を脱しようとする者たちがいる。彼らの歩みに併走し、自らを変革していった稀有な記録が坂上香の『ジャーニー・オブ・ホープ』である。
死刑事件の被害者と執行された加害者遺族たち、確定囚の親族らが、いまだ死刑制度が在る州(既に米国では約半数の州が死刑を廃止・停止した)を選び、旅をしながら体験を語り合う。同書は、1993年に米国で始まった、この「和解と回復への旅」を追いかけたルポルタージュだ。
主催は「和解のための殺人被害者遺族の会」(MVFR)。死刑廃止を掲げる異色の被害者団体という。事務局長で、叔父を殺されたパット・ベインは断じる。「死刑は復讐心を満たすものにすぎない、(……)哀しいことに、復讐心というのは、麻薬みたいなもの。少量じゃ足りなくなって、もっともっとほしくなる。MVFRは、そんな体験をへて、復讐心から抜け出すことを決意した人々の集まり」
「復讐」の言葉に想ったのは、大統領就任時に死刑を廃止したネルソン・マンデラであり、死刑宣告を受けた経験をもち、大統領就任時に死刑を停めた金大中のことだった。彼らは「死刑」を手放し、「復讐」の回路を棄てたのだ。
映像メディアを主戦場に、「罪と罰」「暴力と被害回復」「人間の可変性」などを追いかけてきた著者において、この旅が存在感を増したのは1995年という。連続幼女殺人事件の公判が再開され、地下鉄サリン事件も起きた。厳罰化の起点というべき時期だ。私が新聞社で事件担当をしていた時期にも符合する。オウム真理教信者への別件逮捕が横行し、それをメディアは批判もしない。和歌山カレー事件では、状況証拠のみで死刑判決が出た。重大事件の度に、メディアは被害者の声を報じる。それはおしなべて厳罰を求める声だ。犯罪の根や罪人を生み出した社会の歪みを問うべきが、被害感情と一体化し、加害者を「怪物」に仕立て上げ、排除を要求する旗振り役に堕していく。あのときの、ジャーナリズムの役割を放棄した報道に対する、膝から崩れていくような感覚は今も体に残っている。
1996年、著者は「死の文化」が染み付いた国で「希望を求める旅」に同行し、参加者と語らう。娘フランシスを射殺され、息子をも自死で失ったアン。その友人バーバラは死刑囚の息子が獄中にいる。友人の強盗殺人に知らず巻き込まれ、死刑判決を受けた兄を持つトラビスは、周囲からの非難と抑圧から酒とドラッグに溺れて自殺未遂を起こした経験をもつ。11歳のとき、父が泥酔の挙句に母を刺して放火、母と二人の姉妹を失ったマーカスは、今度は父を死刑執行で失う不安に苦しむ。殺人事件の大半は近親者間で起きるのだ。メディアで消費され忘れられた後も、被害者や加害者家族の人生は続く。死刑は誰のため、何のためにあるのか、何を解決するのか……。
著者は遺された者たちにそっと寄り添い、言葉を受け取る。それは頭で作った遺族像、犯人像に相手を押し込んで恥じぬメディア的搾取の対極にある。
来歴も立場も思いも様々だ。著者は、彼・彼女らのふとした仕草や指先の動きをもたおやかな筆致で刻み、心の動きに思いを馳せ、経てきた時間を想像する。この営みを通して著者は、「是非の宗派論争」に陥りがちな「死刑」を抽象的次元から解放しようとする。他者の生を体験することが文学の大きな機能なら、ここにあるのは紛れもない文学である。
一方で、現に存在するこれらの「苦しみ」に目を向けず、スペクタクルとして消費する者たちもいる。そのおぞましさはオレゴン州での34年ぶりの死刑を巡って描かれる。執行の日、地元紙の一面は軒並み死刑執行。死刑は一大娯楽なのだ。日本とは違い米国では事前に執行日が決まり告知される。一定条件を満たした記者の立ち会いも認められている。
日本とは異次元の情報公開度も、我々に問いを突きつける。以前、吉村昭の小説を映画化した『休暇』を巡り、門井肇監督に取材した。元刑務官を助言者に迎え、死刑執行を細部までリアルに描き込んだ作品だが、一か所だけ誇張した場面があるという。処刑台の踏み板が外れる音だ。門井監督は言った。「なぜならそれは、私たちが鳴らし続けている音なのですから」。死刑とは私たちが選んだ政府が税金で為す殺人なのだ。
著者は、執行日に刑務所周辺に詰め掛けた者たちの姿を詳述する。「怪物の成敗」を前に、死刑賛成派はお祭り騒ぎを繰り広げる。ポテトチップスとコーラを抱えた親子連れがいる。「殺せ」「死んで当然」「地獄へ落ちろ!」と叫ぶ者たち、死刑反対派に罵声を浴びせる者や、鋭い眼差しを向ける子もいる。言い争いが頻発する。ガザを一望できる丘に酒や軽食を持って集まり、空爆に歓声を上げるイスラエル人を彷彿とさせる。
「暴力を根底に成り立っている社会は若者たちに暴力以外の対応策を教えることができないはず」と語り、「死刑=暴力のリサイクル(循環)」とのプラカードを持って立つアンと、葛藤を抱えつつ「処刑は夢を殺す」と声を絞り出すバーバラ。憎悪の濁流に流されまいとする彼女たちの姿が、ヘイトの虜囚との対比を成す。
死刑囚を人外に貶め、奪われる生への想像力を絶つためなのか、存置派の言葉は攻撃性を増し、品性下劣になる。まるでヘイトデモだ。パレスチナ人を「ヒューマンアニマル」「怪物」などと呼び、ジェノサイドを正当化したネタニヤフやガラントの姿が重なる。「死の文化」の大きな思想的資源はレイシズムなのだ。それは2002年9月、「拉致事件」が発覚し、日本で「北朝鮮叩き」の嵐が吹き荒れたことにも通じる。それを最大限に利用したのが安倍晋三だった。
2014年、来日したネタニヤフと安倍は固い握手を交わしている。思想的盟友なのだ。「敵意」と「排除」を煽り続けた彼は、その思想を体現した男性によって暗殺された。
Ⅰ章冒頭に引用された犠牲者遺族、マリエッタの言葉に立ち返りたい。「敵意、うらみ、いきどおり、それに故意の黙認さえも、私たちの生命を失わせる毒入りの飲料なのです。それは徐々に、私たちの肉体や心をむしばんでいきます」
著者はバーバラの息子で死刑囚のロバートに面会する。崩壊した黒人家庭に生まれ、酒浸りだった彼は、当時の恋人と喧嘩した後、脅しに持ち出した銃が暴発し、ドア越しに彼女を射殺してしまったという。だが裁判では計画的殺人と見做された。裁く側は陪審員を含め全員が白人だった。人種差別が刑事司法制度を蝕んでいるのだ。
今では一日の大半を図書室で過ごし、他の受刑者の相談役でもある彼は、犠牲者や遺族への謝罪と愚行への反省を口にした上で言う。「僕の犯したことが倫理に反しているというなら、僕を殺すことだって同じことなんじゃないかな」
彼は人間の「可変性」を証明している。不幸な事件と獄中生活を経て「人間的に僕は成長したと思っている。今の自分に満足しているし、変われたことが今までの人生のなかで最高の出来事だと思っている」という。彼にも母と自身の子どもがいる。自らの罪を見つめ悔い改めている者を殺すことに何の意味があるのか。
未成年死刑囚についての章では、犯罪の根にある貧困や崩壊家庭、人種差別、幼い命を蝕む暴力の存在が描かれる。著者が言及するのは1993年、ボストンのゲットーでの取材だ。警察官の暴力に晒される子どもたちは、胸中に怒りと復讐を育んでいく。少年ギャングのリーダーは言い切る。「大統領が平気で銃や爆弾を売る国で、子どもたちに銃を持つなって言ったって無理さ!」誰がこの言葉に反論できるだろう。暴力の循環の中心には死刑制度が存在する。国が合法的に人を殺すことを制度化している国で、暴力はいけないと言っても説得力はない。
死刑と並ぶもう一つの国家殺人は「戦争」だ。養子ジョンが老夫婦を殺害して死刑判決を受け、妻キャシーと共にジャーニーに参加しているドンは第二次大戦で戦闘機を操縦していた経歴をもつ。悔恨と共に彼は言う。「「ジャップは人間じゃない、獣以下だ」と軍隊では叩きこまれていたから、日本人を殺すことなんて何とも思いやしなかった」
今では地元で死刑をテーマにした社会劇に取り組む。事件から執行までを市民が演じ、死刑制度とそれが殺す「問い」を考える。劇で被害、加害を体験し、背景にある貧困や暴力に塗れた生い立ちを探り、確実に殺される者たちの心境や、執行を担う者たちの苦悩を知る。死刑廃止を主張していたカミュの言葉「虚構とは真実を語るための嘘だ」を思い出す。これが芸術の大きな使命である。
そしてジョージである。妻シャーリーンを目の前で強盗に射殺され、自らも重傷を負った挙句、当初は犯人とされて獄中生活を強いられた。事件は未解決だ。胸中の「憎しみ」に向き合ってきた彼は、遺族は処罰を望むとの「思い込み」を彼に投げかける高校生たちに言うのだ。「犯人が今目の前に現れたら、私がそいつを殺さないように、私を抱きしめてほしい」。娘をレイプされ殺された経験を持ち、犯人の抹殺を望むジュディスは、その彼との語らいでこう言う。「私もいつかはあなたのようになるのかも」
本稿はドナルド・トランプ氏の大統領就任に伴う狂騒の中で書いている。レイシストでセクシスト、金満家の彼は、人権や命、法と正義などには芥子粒ほどの関心もない。
私の懸念の一つは、死刑の乱用だ。前任者のジョー・バイデンは米国史上初めて、死刑廃止を公約に当選した大統領だった。イスラエルを最大限に支援し、「21世紀のホロコースト」の共犯者となった「ジェノサイド・ジョー」は、一方で自国民を殺すことには慎重で、連邦レベルでの死刑を停止した。昨年12月には、連邦法で死刑判決を受けた40人のうち37人を終身刑に減刑してもいる。
これに反発し、「死刑を強力に推進する」「地獄に落ちろ」と言ったのがトランプ氏だ。1989年、ニューヨークの公園で起きた白人女性のレイプ事件では、犯人とされた5人の黒人少年(後に冤罪が判明)への憎悪を露わにし、主要四紙の一面に「死刑を復活せよ」との公告を打っている。
「人間性が完全崩壊した」(グテーレス国連事務総長)この世界で、彼が世界最強の権力を握ったのである。私たちの「社会像」「人間像」がますます問われる。社会とは何か、社会と呼ぶに足る集合体とは何か、そして人が生きるに値する世界とは何か。人間であるとは。命とは。
(なかむら いるそん・ジャーナリスト)