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伊藤比呂美 口承の谷川さんについて、もっと考えてみる[『図書』2025年4月号より]

口承の谷川さんについて、もっと考えてみる

 

 私たちは書くことしかできない。大切な人が亡くなるたびに思い知らされる。それで追悼文を書く。お線香をあげるように追悼文を書く。谷川俊太郎さんが亡くなって共同通信に書いた。新潮に書いた。婦人公論の自分の連載に書いて、現代詩手帖には詩を書いた。熊本日日新聞、これも毎月の連載の中で書いた。石牟礼道子さんのときも寂聴先生のときも、そんな感じだった。私は谷川さんの死を公表されるより少し前に知った。それならあらかじめ書いておけばよかったのだ。しかしそういうものではない。書けないのだ。

 新潮に書いたのは「谷川さんの詩がアノニマスな口承文芸にすごく近い」ことだった。何についても自分の経験でしか語れない私の意見です。とあらかじめ断った上で、新潮に書いたことを、少し補いながら説明します。

 私が現代詩を読み始めたのは70年代後半。その頃の谷川さんは思潮社や青土社から詩集をばんばん出していた。

 『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』(1975)

 『定義』(1975)

 『タラマイカ偽書残闕』(1978)

 『コカコーラ・レッスン』(1980)

 そして詩以外の分野の仕事も。

 『マザー・グースのうた』(1975―77)は英語口承詩の翻訳。

 『魂にメスはいらない』(1979)は河合隼雄さんとの対話。

 『ピーナッツ』の翻訳は60年代から始まっていたけど、私が谷川俊太郎だと知って読んだのは70年代になってからだ。

 『鉄腕アトム』の主題歌もテレビで見ていた1963年から歌っていたけど、谷川俊太郎だと知ったのは70年代になってから。口承詩の翻訳に、学者との対話、漫画の翻訳、テレビまんがの主題歌。谷川さんがどこにでもいたのである。

 それから当時感じていたのがコピーライターの糸井重里さんとの近さである。これは谷川さんから証言もある。

 「むしろあの頃、現代詩より糸井さんのほうが自分に近いと感じていた」(『対談集 ららら星のかなた』)

 近かったのは個人の資質だけじゃなくて、時代かもしれない。メインの枠組みを疑おう、そこからはずれようとしていた時代。

 その頃、私は金関寿夫『アメリカ・インディアンの詩』(1977、中公新書)に出会ってのめり込んだ。東洋文庫の『説経節』は1973年に出た。岩波文庫に『アイヌ神謡集』が入ったのが1978年。『忘れられた日本人』が入ったのが1984年。講談社文庫に『苦海浄土』が入ったのが1972年。書かれずに生きてきた声が立ち上がろうとしていた時代、そういう時代だったのだ。

 『ことばあそびうた』は1973年。でも私が絵本の世界の谷川さんに出遭ったのは80年代だ。私が子どもを産んで読み聞かせを始めたのが80年代だったからだ。聞き手が耳をすませている朗読を夜な夜な。今でもそらで言える。その読み方は現代の文学の読み方ではない。

 絵本というのは複雑な分野だ。自分自身が絵本をつくってみてその複雑さに驚いた。詩人、アーティスト、編集者、出版社、書店、それから買う人、声に出して読み上げる人、ぜんぶおとなの手や頭や声を通って、やっと受け手である子どもに届く。個人の作品と呼んでいるが、実はかぎりなく口承文芸に近い世界ではないか。

 それなら翻訳というものも、口承とは言わないが、言葉と言葉の間にあり、つねに行き来しており、私が私がという意識は薄い。

 執着する我はなく、書き言葉もなく、音が声になる、声が詩になる瞬間に限りなく近い。それを谷川さんは、絵本でも詩でもくり返し試み続けたのではなかったか。すると最近の谷川さんがいろいろな人たちとの対談でくり返し言っていた「自分は『デタッチメント』だ」という主張につながっていくのだ。これは私との対談で。

 「このごろずっと、デタッチメントって言ってるんだけどね。アタッチメントは『こだわる』『くっついてくる』ことで、その反対がデタッチメント。『何かから距離をおく』ってことなんですね」(婦人公論、2020年11月)

 デタッチメントの意識が、谷川さんを現代詩から外に押し出し、マスメディア、マスコミュニケーション、顔の見えぬマス読者に向かわせ、アノニマスな口承詩に向かわせた。

 

 そこまで新潮で考えたので、その続きを考える。

 谷川さんといえば、私にとっては連詩の宗匠なのである。他に連詩は経験ないから、ザ・宗匠が谷川さん。

 2008年と2010年、谷川さんを宗匠にして「くまもと連詩」をやった。熊本文学隊という文学で遊ぼう的なグループ、隊長は私、そこでどんなふうに連詩の企画が出てきたのかは忘れた。四元康祐さんかもしれない。当時ミュンヘン在住の四元さんと当時カリフォルニア在住の私はディアスポラ友達という意識を持っていて、それで何かやろうと話していたのかもしれない。で、連詩はどうかということになり、宗匠といったら谷川さんだよねということになり、声をかけたら、ひょいと受けてくださったんじゃなかったか。

 2008年の1回目は、谷川さん、四元さん、そして私。

 私はうすうす自分が連詩向きじゃないと思っていたが、やってみたら、ほんとうに苦手だった。短く書くのも人前でぱっとつくるのも苦手である。そのときは主催が熊本文学隊、「ホストである比呂美さんが最初。あなたの詩は長いから、長くなってもいいから」と谷川宗匠から指名され、私は苦吟した。苦し紛れに高橋睦郎さんに相談したところ、「できてるところまで送ってごらん」と言われ、書きかけのを送ってみたら「最初の7行はいらないし、後の2行もいらない」と言われた。「それじゃ自分の詩じゃなくなっちゃうじゃないですか」と抗弁すると、「連詩とはそういうもの、自分の詩じゃなくていいのだ」と言われた。それで当日、これこれこういうわけでこうなりましたとおずおずと差し出したら、谷川宗匠に「なんでぼくに相談しないの」と叱られた。

 とにかく谷川さんはすごかった。番が来るや、あっという間に詩ができる。しかもそこに流れがある。動きがある。時間がある。人がいて、ドラマがある。ジブンというものはそこにはないようだ。あるように見えるが、ないのである。どこまでもジブンにこだわらないと詩が書けない私は、苦吟どころか苦悶した。ディアスポラ友達と思っていた四元さんは、連詩にも日本語にもジブンてものにも何も拘らないかのように、自在そうに詩をくり出した。私にはちっとも納得がいかないまま、連詩は終わった。

 それで2010年の第2回目のくまもと連詩。県の文化事業の助成金を得たので、前回の2人に加えて覚和歌子さん、アメリカからジェローム・ローセンバーグさん。京都の日文研に滞在中のジェフリー・アングルスさんが通訳・翻訳要員。

 たまたま知り合いを集めたらこうなっただけで特別な意図はなかった。しかしながら、ローセンバーグさんはエスノポエトリー(民族詩学)の詩人。非英語文化につたわる口承の詩をあつめたアンソロジーを何冊もつくっている。とくに北米先住民の口承詩をあつめた『シェイキング・ザ・パンプキン』は、世界中の詩人から、影響を受けたという話を聞く。覚さんの書いた歌詞、とくに《千と千尋の神隠し》の主題歌「いつも何度でも」は津々浦々に行き渡り、どこでも何度でも歌われていた。前回から引き続きの四元さんは、世界各地の詩祭や文学祭を渡り歩きながら詩人とコミュニケーションを取り続けているという、存在自体が口承詩みたいな人だった。

 1回目で懲りた私は、2回目は傍観するつもりだった。でも、絶対入りなさいと谷川宗匠に言われて抗えず、窮余の一策、家の中に積んであった本をごっそり、北米先住民の口承詩、紀記歌謡、閑吟集、梁塵秘抄、謡曲集、日本霊異記、中原中也に宮沢賢治等々、連詩の場に持ち込んで自分の番を待ち構え、ひたすら引用でうち返した。窮余の一策だった。客からは「なぜ自分の詩を書かないのか」と不満を言われもしたのだが、今になってみると、無意識ながら、連詩を考える上でかなり本質的な動きをしたような気がする。そもそも口承文芸のテキストを多く持っていったというのが、自分の趣味を越えて、連詩という場に引きずられていたような気がするのだ。

 連詩を発表する舞台で、阿蘇神社の氏子たちが御田祭の田歌を披露してくれた。私はその前年にその祭に行き、祭の呼び物である女たちが白装束で青田の中を練り歩く行列より、この田歌、男たちが数人で神輿をかついで歩き、辻々で神輿を下ろして、輪を作って歌う声に仰天して、彼らを呼んできたのだった。ローセンバーグさんがその田歌を聞いて驚いた顔で私を見て、It’s almost the same (ほとんど同じだ)と言った。続いてローセンバーグさんがセネカ・インディアンの歌を披露すると、阿蘇神社の氏子たちが驚いて顔を見合わせ、口々に「おんなじばい」と言った。そんなやりとりを谷川宗匠は黙って見ていた。

 2010年のくまもと連詩には「声がつながる──口承連詩の試み」というタイトルがついた。誰がつけたか覚えていない。私ではない。谷川さんかもしれない。

 口承文芸に関して、私はひとつひとつ自分なりに、見つけてほじくり出して確かめて応用してきたと思っていた。ずっとそれが私の仕事の中心で、そこでは、谷川さんの存在を考えたこともなかった。ところが『ららら星のかなた』で数年かけて対話して、その懐に飛び込んでみた2025年現在の私には、谷川さんが、私なんかよりもっと遠いところで、大きなスパンで、もっといろんな経験を踏まえた上で、詩というもの、口承文芸とのつながり、そのおもしろさ、我のありよう、すべて見とおして、考え抜いていたんじゃないかと思えるのだ。

 

 『ららら星のかなた』の対話のとき、谷川さんに「詩の書き方を5分で教えてください」と聞いてみた。そしたらほんとに答えてくださった。聞きたかった要点をこれ以上なくはっきりと、そしてきっちりと。

 「いつもあなたが書いてる風にざぁーっと散文で書いて、それをチョキチョキって、適当なところで切って、それでもって行わけにして……編集部に出す。

 最初から1行1行考えるんじゃなくって、まず散文を書くでしょう? そうすると、自分の気に入った箇所があるじゃん。そこを切り抜くわけ。

 ことばをとり出すときの意思はない。

 美的な詩的な感覚は、捨てた方がいい。

 うん、つまりね。人が読んで面白いかな、どうかなって、他人のことを一生懸命考えるの。それで、人が読んだら面白そうに組み立てる。

 (人というのは)読者でも誰でもいいんですよ。オレでもいいよ。『こういうのは谷川さん、喜ぶだろうな』って考えるんでいいんじゃない?

 読者って限定するんじゃなくて、『他者』でいいんだよ。

 だから、形の問題ですよ、詩は。散文はずーっとつながってるわけでしょう。それに形を与えたら、詩になるんですよ。中身は同じでも」

 谷川さん、ありがとうございました。

(いとう ひろみ・詩人)


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