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田原 主義を超えて、自分を完成する[『図書』2025年4月号より]

主義を超えて、自分を完成する

谷川俊太郎と中国

 

 偶然、谷川俊太郎の詩に出逢った。数えてみればもう30年になる。

 1970年代後半、中国は改革開放という政策を打ち出した。思想解放に伴なって、文学も盛んになった。とくに現代詩は顕著で、文学批評、現代美術などの文芸全般を牽引して未曽有の新しい時代に突入した。現代詩人として真っ先に登場したのは世界にも知られ、何回もノーベル文学賞の最終候補になったと言われる「朦朧詩派」の代表的人物で、谷川俊太郎とも親交のある北島(Bei Dao)だった。80年代に入ってから、出版界も徐々に自由になって、ヨーロッパのカノン的存在の現代詩人の作品が次々に訳され、中国各地で洪水のように溢れた。私も含めて当時の詩人たちはみなヨーロッパ現代詩の養分に潤されて恩恵を受けた。しかし、残念なことに、その中国現代詩のルネサンスと言える黄金時代において、日本の現代詩人で中国国内の詩人の視野に入る人は1人もいなかった。谷川俊太郎がようやく中国に登場して注目されたのは90年代の終わりころ、本格的にかつ中国全土で広く認知されたのは21世紀に入ってからのことである。

 

 地球規模で言っても、中国は詩歌の国と言っていいだろう。この点に関しては日本ももちろんそう言えるだろうと思う。二千数百年前に聖人の孔子が弟子たちの助けを得て、民間に500年以上散在していた口承文芸としての民謡を集め、初めて『詩経』という詩歌アンソロジーを編纂したとされる。収録されたのは305編の短い詩だけで、『万葉集』と比較すれば10分の1にも満たないのだが、時間的な隔たりは千数百年ある。もう一つ『万葉集』との違いは、『詩経』には作者名がほとんどないことである。それぞれの詩篇は時代ごとに分類されているが、1人の作者によるものなのか、それとも集団創作によるものなのか、今になってもその詳細ははっきり分かっていない。分からなくても中国古典詩の原型であることは間違いがない。ギリシャの長編叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』などと比肩できるほど古く、東アジアの詩歌の源流である。『詩経』がなければおそらく「漢賦」「絶句」「唐詩」「宋詞」などは生まれてこなかったかもしれない。また、日本語による和歌、俳句、川柳という定型詩はもしかしたら五七調ではなく、四六調になっていた可能性も、否定できないだろう。

 日中両国の長い詩歌の歴史を振り返って考えると、古代から現代まで、中国の詩人と比べて、日本の詩人はずっと幸せで、安穏な生活が保たれてきたと言えよう。なぜなら、日本には中国の詩人のように詩を書いたことで、失脚し、追放され、刑務所に入れられ、処刑された例はほとんどないからである。それと関係しているかどうかうまく言えないが、日本の詩は1300年の間であまり大きな「波」がなかったような気がする。政治と体制に強く干渉されなかったことが原因の一つに考えられるかもしれない。中国の場合はどうだろう、2300年前の楚の時代に、屈辱に耐えられず汨羅江に飛び込み自殺した屈原から現代の北島まで、詩人という人種の運命は順風満帆ではなかった。詩を書くことで、詩にもたらされた栄光と影響力はときに皇帝を超えるほど大きかったが、その反面、詩は呪文のような怪物で、詩人たちを「呪われた運命」に導き、災いをもたらしたのである。そのために中国歴代の詩人は必ず誰かが辛酸を嘗め尽くし、受難の道を歩んだのである。

 日本と比べて、中国はずっと政治の国だったことはいうまでもない。それゆえ、イデオロギー傾向の詩が多くみられる。文化大革命のとき、詩はスローガンと讃歌になって、全国を一色にし、偽詩の時代を作り上げた。言語(言葉)が極度に汚染され、詩は政治の道具になってしまった。もちろんそうではない詩人も居た。しかし、彼らに待っていたのは追放や投獄という運命だ。強制労働中に自殺した詩人の聞捷(1923―1971)はもっとも才能があると言われた。中国は法律社会ではあるが、政治的に強く支配されていると感じられる。現代社会になってもそういう現実はあまり変わっていない。谷川俊太郎の詩を大いに肯定した北島も、詩を書いたことでやむを得ず海外亡命してしまったが、それはつい最近のことである。そういう伝統をもつ、社会主義文化環境の中に、イデオロギーとほとんど無縁だった谷川の詩が堂々とやってきたのだった。

 

 ある旅の中で、谷川俊太郎に話したことがある。もし中国で暮らしたら、谷川俊太郎の生まれ持つ才能は日本のようにすべて発揮しきれないかもしれない。彼は笑いながら「分かる気がする、日本に生まれてよかった」と軽く答えていた。私がなぜそう話したかと言うと、中国には目に見えない束縛、険しい落とし穴があまりにも多いからである。それは大昔からの伝統でもあり、神に与えられた宿命のように思われる。

 にもかかわらず、谷川俊太郎の詩は政治、言語、文化を超えて、中華圏における多くの読者に感動を与えた。たまに思うことがあるが、彼の詩のそういう力はどこから来たのだろう。あらゆる主義を乗り越えて、権威に対抗し、自我と言葉を疑って自分らしく自由に生きてきたからこそ、自分を完成することができたのだろうと思う。二十数年が経っても、数えきれないほど多くの中国の読者は彼の詩に閲読疲労にならず愛読してきた。とくに21世紀に入ってから、谷川俊太郎の中国語版詩集、詩選集、エッセイ集が中国本土、香港、台湾などで次から次へと出るようになった。いままで全部で二十数冊ある。中国に翻訳紹介してきたあらゆる外国の詩人から見れば極めて稀な現象である。

 中国語だけではない。彼の詩はこれまで二十数か国語に訳され、30以上の国と地域で八十数冊の詩集と詩選集が出版されている。中国百年の現代詩の歴史に、年齢層を超えて、谷川俊太郎のように広く、長く読まれる詩人はまずいない。約150年になる日本の現代詩の歴史を振り返ってみても彼のような詩人はいない。なぜだろうか。

 

 谷川の詩は、中国に上陸してすぐに注目されたが、最初詩人の中では見方が分かれていた。思想性を重視する少数の学院派の詩人からは、テキストが軽いと言われた。もう一つの見方はとても「偉大」な詩人だというものだ。どちらが多かったかと言うと、「偉大」のほうが圧倒的だった。2010年、北島が主催し、数年間も準備していた「国際詩人在香港」が始動した。第1回目に招待した詩人は谷川俊太郎だった。そのために、香港にあるオックスフォード大学出版社が豪華な日中対訳の『春的臨終』(繁体字版)というアンソロジーを出してくれた。このアンソロジーも評判がとても良かった。数年後、簡体字版も南京の訳林出版社から出た。「春の臨終」という詩は、2005年、3巻の集英社文庫『谷川俊太郎詩選集』を編むために、これまで詩集、詩選集に収録されず漏れた詩がないかを、数十年間の文芸誌などを調べて発見した数編の中の1編である。谷川俊太郎にしてみれば、唯一日本語の文法を脱構築して書いた詩である。最初見つかった時は、印刷ミスではないかと思ってすぐ谷川俊太郎に電話で確認したところ、わざとそういうふうに書いたと言われた。この詩は日本であまり読まれていないのだが、原文の「私は生きるのを好きだった/先におやすみ小鳥たちよ/私は生きるのを好きだった」に合わせて中国語に訳して公開したら思いのほか反響が強かった。数え切れないほど多くの谷川ファンが自分のブログやWeChatなどで朗読し、何人かは作曲もし、歌にして歌った。いまも、ネットで聞くことができる。この詩は谷川俊太郎の詩群の中でも特別な存在だった。

 一般の詩人より計り知れないほど多くの読者を持つ谷川俊太郎ではあるが、それは平易な言葉で詩を書くことだけが理由ではない。彼の詩句には誰でも共感できる精神性と普遍性が潜んでいると同時に、誰にも真似できない独自の言葉感覚、美意識とリズム感(音楽性)を最大限に極めていることが大きいと思う。外在的形式においても、内在的ポエジーにおいても、「美」は谷川俊太郎が若い時からかなり意識して追求したものであり、詩の本質と美の本質に片時も休まずに接近しようとして並行して取り込んできた。彼の「美」は平面的な耽美主義に留まるのではなく、立体的な奥行きのある「美」である。それゆえ、時間が何年、何十年経っても古くならないし、何回読んでも瑞々しさが感じられるのだ。彼の詩歌は簡潔で深く、多元的でテーマが幅広く、日常の小さな出来事から宇宙の壮大なテーマまで、独自な視点で表現され、個人的な色彩に満ち、魂を解釈している。世界に対する独特な見方と感性が反映され、強い音楽性とリズム感を持っている。日本現代詩の表現を豊かにしただけでなく、世界の現代詩にも貢献したと言えるだろう。

 もう一つ加えて言うなら、谷川俊太郎が普通の詩人を凌駕するところは、彼が子供のための詩や絵本をたくさん書いていることで、それらの作品も中国で広く読まれている。多くの詩人はなぜ彼のように子供たちのために詩を書かないのだろう。年齢と共に「童心」が失われたからだろうか。子どもの目線と好奇心で、子どもの理解できる範囲の言葉で新鮮味のある児童詩を書くのは簡単なことではない。

 

 日本語で面白いと思うのは「詩」と「死」が同じ発音をもっていることである。ほとんどの詩人は生きている間に「詩」を書くことで存在感が示されているが、「死」によって、生前にもがき苦しんで得た栄光とそれなりの知名度はだんだん消え去ってゆくだろう。多くの詩人は何も残さずに消え去るだろう。それに比べて、谷川俊太郎の場合は「死」が彼にとって再生の始まりであり、肉体が消えても、彼の「詩」は彼の「死」の代わりに、相変わらず時間と読者の間で生きていくのだろうと思う。

 一生別の職に就かず詩を書くことだけで生計を立てる詩人は、世界のどの言語においてもおそらく極めて少数だろうと思われる。その面で言えば、谷川俊太郎は詩を書くことで、現実生活の問題を解決できた詩人だと言えよう。

 谷川俊太郎と付き合い始めて間もないころ、彼に冗談半分で言ったことがある。全力を出して日本語にある彼の知名度を自分の母語に移植したいと。いまそういう目標を達成できたかどうかは分からないが、2024年11月19日に、谷川俊太郎が亡くなったという情報が公開されてから、日本国内のメディアと競うかのように、中国全体のメディアも空前絶後ともいえるほど数日間にわたってさまざまなニュースを報道した。各大手メディアからの取材は次から次へとあった。一人の外国の詩人の死がこれほどまでに、関心をもたれたことは前例がない。中国が改革開放してから四十数年経ったが、谷川俊太郎ほど中国語に浸透した外国の詩人は数えるほどしかいない。谷川俊太郎は確かに「死」んだが、「死」ではなく、同じ発音の「詩」はこれからも生き続け読まれていくことだろうと思う。

(デン ゲン・詩人、翻訳者)


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