ちばてつや 生きているみんなを応援したい[『図書』2025年4月号より]
生きているみんなを応援したい
やなせたかしさんの思い出
“はじっこ” 同士で
1939年生まれの僕は、やなせさんとちょうど20歳離れているということもあり、やなせさんの若いころについてはよく知りません。やなせさんが漫画家協会の理事長を務めていたとき(2000―12年)、僕も理事を務めていたので、そのころ特に親しくなりました。やなせさんが高齢と体調不良で理事長を退任した際には、その意を受けて、僕が理事長を務めることになりました。
やなせさんと初めてお会いしたのは、それより30年以上前のことです。戦前から活躍していた漫画家の横山隆一さんなどが中心になってつくった「漫画集団」というグループがありました。アメリカのナンセンス漫画や諷刺などのカートゥーン漫画の影響を受けた「大人漫画」を描く漫画家たちの集まりです。そうした漫画家の先輩たちの集まりに、後から僕や手塚治虫さんなども参加させてもらいました。その集まりに、やなせさんも戦後になって参加していました。
鹿児島県指宿市にある池田湖に、ネス湖のネッシーならぬイッシーがいる。そんな噂を聞きつけて、漫画集団の仲間たちで「イッシー探検隊」などと称して、池田湖を訪れたことがあります(1979年)。池田湖のほとりで、みんなで未確認生物イッシーの漫画を描いたりしました。
やなせさんもその「探検隊」に参加していましたが、どちらかというと集団の“はじっこ”にいるような印象でした。みんなが「探検に行くぞ!」と騒いでいても、仕方なく後ろからついていくような、物静かで、おとなしい人という感じです。僕も、その集団の中では若手でしたし、やはり“はじっこ”にいたので、そんなところでも、やなせさんとは気が合ったのだと思います。
とにかく人を楽しませたい
そんな物静かで、“はじっこ”にいたやなせさんですが、後年になってアンパンマンが大人気となります。それからは、メディアなどにも露出し、とても目立つ存在に変わっていきました。
平成5(1993)年、アンパンマン誕生20周年を祝うパーティ(「アンパンマン二十周年の未来を祝う会」)が開かれ、僕も出席しました。会場には、でっかいアンパンマンのバルーンが飾られていて、しかも、やなせさんはアンパンマンのSLに乗って登場しました。あの物静かだったやなせさんが、です。
また、何らかの集まりでスピーチを頼まれたときも、何かおもしろいことを言わなければならない、みんなに喜んでもらわないといけない、と気にしている感じがうかがえました。漫画家は、作品を通して人を喜ばせたり、楽しませたりするので、どちらかというと、普段はそれほど気が利かず、つまらない性格だったりすることが多いものなのです。
でも、やなせさんは違いましたね。スピーチが終わったあと、僕が「おもしろかったですよ。みんな、拍手喝采、喜んでいましたね」と話しかけると、やなせさんは「あんなのお世辞だよ」とぽつり。「もっと楽しませなければ」「もっと喜んでもらわないと」という気持ちだったのでしょう。そんなことをいつも考えている人でした。
アンパンマンはやなせさん
特に漫画家協会の理事長になってからは、いろんな人に頼りにされていました。
漫画家には、ヒット作にめぐまれず、お金のない人もたくさんいます。個展やグループ展を開催したくても会場を借りるお金がない。そんなとき、やなせさんはポケットマネーでずいぶんと応援していたようです。「僕は子どももいないし、残すものは何もないから協力するよ」なんて言っていました。やなせさんを慕い、感謝している漫画家は本当にたくさんいました。
あんまり大きなことはできないかもしれない。でも、身近なところで困っている人がいれば助けてあげたい。楽しませたい、喜ばせたい。過剰なぐらい旺盛なサービス精神の裏には、責任感の強さ、そして自己犠牲のような精神があったのかもしれませんね。まさにアンパンマンそのもののような人でした。やはりアンパンマンは、やなせさんだからこその作品なんだと思います。
“うしろめたさ” という優しさ
やなせさんのそうした姿勢はどこから来ていたのでしょうか。これは僕の想像ですが、やなせさんには、どこか“うしろめたさ”みたいなものもあったのかもしれません。
やなせさんは漫画家を目指しながらも、漫画家と名乗れるようになるまでには時間がかかった。とても器用で多才な人なので、舞台美術を任されたり、シナリオを書いたり、デザインを手がけたり、テレビの仕事をしたり、詩も書いたり、といろんな活動をしています。でも、そうすると漫画家という肩書からは、ますます遠ざかってしまう。
アンパンマンが大人気となったのは、やなせさんが60歳を過ぎてからです。「僕はアンパンマンのおかげで、やっと漫画家と名乗れるようになったよ」とやなせさんが言っているのを聞いて、驚いたことがあります。やなせさんでも、そんなことを気にしていたんだと。
“うしろめたさ”を抱えていたのも、やなせさんが優しい人だったからなのでしょう。自分の生活に余裕ができたら、かつての自分と同じように芽が出ず困っている漫画家を助けたい。生きていれば、いいことがあるよと応援したい。自分の人生と重ね合わせ、そんな気持ちをずっともっていたのかもしれませんね。
与えた優しさが返ってくる
やなせさんが与えた優しさは、やなせさん自身にも返ってきました。
やなせさんと奥様はとても仲のよいご夫婦で、相思相愛という言葉がぴったりなお二人でした。だから、(1993年に)奥様が亡くなられたあと、やなせさんは本当にさびしかっただろうと思います。
でも、そんなやなせさんを助けてあげたいと思う女性たちがたくさんいました。イラストレーターや若い漫画家などで、なぜか皆きれいな女性ばかりなんです。うらやましいなと思いましたよ(笑)。
そうした女性たちが、やなせさんに食事をつくってあげたりしていました。ある女性は、栄養のことを考えて、いろんな野菜を細かく刻んでつくったスープを「やなせスープ」と名づけて、よくやなせさんに飲ませていました。僕もご馳走になったことがありましたが、とてもおいしかったです。
やなせさんが高齢となり、健康面の不安が出てきたときにも、世話をしてあげる女性たちがいました。やなせさんは、自ら優しさを与え、それによって、自身も優しさを与えられた。やなせさんがたくさんの人に慕われていた証ですね。
弱い者を助けるのが正義
やなせさんとは「私の八月十五日展」でもご一緒しました。これは、漫画家たちが自身の戦争体験を漫画にして、戦争の悲惨な記憶を現代に伝えようとする活動で、2000年代初めから各地で開催しました。国内のみならず、2010年には中国の北京でも開催しています。
僕も漫画を描くうえで、戦争体験から大きな影響を受けていますが、それは、やなせさんも同じだったのでしょう。終戦のとき、僕は6歳。両親と4人きょうだい、命からがら満州から引き揚げてきました。一方、やなせさんは終戦のとき、26歳。兵隊となって中国大陸に渡っていました。やなせさんが兵隊として、どれだけ苛酷で辛い思いをしたのかは、ほとんど聞いたことがありません。
ただ、やなせさんには2歳年下の弟さんがいました。とても頭のいい弟さんだったといいます。戦争が終わり、日本に復員し、故郷の高知に戻ってきて、その時初めて弟さんが戦死していたと知らされたそうです。弟さんは海軍特攻隊に志願し、フィリピン沖で海に沈んだ、と。
そのことは、やなせさんの心に深く暗い影を落としていたと思います。あるとき、漫画家協会の会合で、誰にというのでもなくこんなことを言ったことがありました。
「僕ではなく、なんであんなに頭のいい弟が戦争で死ななければならなかったのか。なんで、僕のほうが生き残ってしまったんだろう」
自身の戦争体験の辛さなどをほとんど語ることのなかった、やなせさんのその言葉は今も強く記憶に残っています。
あの時代、多くの人が戦争で家族を亡くしています。お父さんやお兄さんが戦争に行って帰ってこなかった、空襲できょうだいが亡くなったなど、そんな経験を当時の日本人の多くがしています。だから、やなせさんも自身の辛い戦争体験や、弟さんが戦死したことなどは、あまり話さなかったのかもしれません。
でも、弟さんの戦死を、やなせさんは心の奥底でずっと悔やんでいたのでしょう。そのことが、あるとき、ふと言葉に出たのだと思います。
そして、戦後は食糧がなく、みんな空腹に苦しんでいました。アンパンマンがお腹を空かせて困っている子どもたちに自分の顔を食べさせるのも、こうした体験が背景にあることは間違いないでしょう。
戦争で敵と戦ったりするのは正義ではない。すぐ身近にいる弱い者を助けるのが本当の正義。いつもそんな考えが、やなせさんの作品の根底に、そしてやなせさんの心にあったのだと僕は思います。やなせさんの作品に込められた思いは、これからもきっと大切なものとして、ずっとアンパンマンと共に生き続けていくことでしょう。

(ちば てつや・漫画家)