香西豊子 「かぜ」のすがた[『図書』2025年4月号より]
「かぜ」のすがた
疫病の分類の歴史から考える
「かぜ」って何だ?
2024年の暮れ、ふつうの「かぜ」が、ちょっとしたニュースになった。感染症法(正式名称「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」)の施行規則が一部改正され、「かぜ」症状が新たに、同法規定の「五類感染症」になると発表されたのだ。改正施行規則の運用は、今春(2025年4月)からという。
感染症法は、感染症を、感染力や感染した場合の症状の重篤性などをもとに、8つのカテゴリーに分類する。そして、正式名称にもあるように、その「予防」措置や「患者」(疑い例も含む)の扱いを分類ごとに規定する。2020年にはじまった「コロナ禍」で、同法は、にわかに注目を浴びた。
ご記憶にもあろうが、新型コロナウイルス感染症は、当初、同法の「新型インフルエンザ等感染症」(二類感染症相当)に振り当てられ、やや厳しめの対策がとられた。その後、病原ウイルスが変異し、対策が実態と齟齬を来しはじめても、分類はすぐには改まらない。2023年のゴールデンウィーク明けに、同感染症が「五類感染症」へと分類しなおされた時、世間は「ようやくコロナが明けた」と安堵したのだった。
その「五類感染症」に、今度は、子どもの頃からおなじみの「かぜ」が組み込まれるという。しかも、「急性呼吸器感染症(ARI:Acute Respiratory Infection)」という、かしこまった名前まで頂戴して。感染症法規定の感染症に含まれるということは、国の発生動向調査(サーベイランス)の対象になることでもある。ARIの場合、全数ではないものの、指定医療機関で確認された症例数が、逐次、国の機関に報告されることになる。
とはいえ、だからといって、あの「かぜ」が国に目をつけられるようになるとは、出世したなあ、とは誰も思うまい。むしろ、どこか監視をされるようで、うすら寒い。「コロナ禍」で経験したように、感染症の分類はその対策に連動する。いくら、これは国や地方自治体など調査する側の手続き上の変更で、ふだんの市民生活には何も影響ありませんよと言われても、何が起きているのか分かるまでは落ち着かない。
そう、なぜ今「かぜ」が「五類感染症」なのか。いや、そもそも「かぜ」とは何なのか。
ここでは、古来、身のまわりにあった「かぜ」の歴史をざっくりと振りかえり、その「かぜ」が今、サーベイランスの対象になることの意味を考えてみたい。
はじめに「かぜ」ありき
のどがイガイガする、くしゃみがでる、鼻水がたれる、熱気がある──。こうした異変を察知すると、私たち現代人は、「かぜ」を引いたと考える。そして、何事も初めが肝心と、いそいそと各自お決まりの行動をとる。「かぜには、やっぱり〇〇〇」と、百人百様、一家言あるのが面白い。
しかし、「かぜ」という言葉をたよりに古の書物を繰ってみると、そこには現代の「かぜ」とは似ても似つかぬ病がすがたを現す。
たとえば、「物語の出で来はじめの祖」たる『竹取物語』(9世紀末―10世紀初成立)。かぐや姫の難題に応えようと、大伴大納言が幾日も荒波を漕ぎ分けて竜の首の珠を探し、フラフラになって戻ってきた場面である。かろうじて立ち上がった大納言は、「風いと重き」さまで、腹はふくれ、スモモのように飛び出した目は左右で焦点が合っていない。明らかに、今日の「かぜ」とは様子が異なっている。
めずらしい病気を集めて編まれた絵巻物『病草紙』(12世紀頃成立)にも、咳や鼻づまりとは無縁の「かぜ」が描かれている。「風病」の男である。つねに瞳がキョロキョロし、厳寒のなか裸でいる人のように、わななき震えている。
どうやら「かぜ」は、古代、風のごとく捉えようのない身体の揺らぎを指していたようなのだ。
「かぜ」を引く、「かぜ」が引く
「かぜ」のすがたが、そうした不随意の身体症状から、ぐっと現代的になるのは、室町時代である。そこには中国医学の影響があった。中国最古の医学書『黄帝内経』には、「風は百病の長なり」と記される。「風」はもともと、万病に進展しうる病と捉えられていたのだ(ちなみに、寅さんの枕詞「フーテン」も、「風」がこじれて奇妙な振舞いをするに至る「瘋癲」が原義である)。そこへ後世になって、病気は風や寒・暑・湿・燥・熱など自然界の邪気によっても生ずるとする病因論が興り、それが日本にも伝わった。
「かぜ」を、体表部が風邪に感・冒て生じる諸症状と捉えるこの考え方は、しだいに庶民にも浸透したとみえる。イエズス会宣教師らが作成した日本語の解説書『日葡辞書』(1603年刊行)では、「Canbo. カンバゥ(感冒)」の語が拾われ、「人が冷え込むことから起こる病気」と説明されている。
ここで興味深いのは、同辞書の「Caje. カゼ(風)」の項に、「Cajeuo fiqu.(風を引く)風がしみ通る、または、風邪に冒される」のほか、「Cha ga caje fiqu. Cusurini cajegafiqu. & c. (茶が風引く、薬に風が引く、など)茶(Cha)や薬に、空気、風がはいったために、それらがそこなわれて、風味や効力がなくなる」という用例が載ることである。なんと、江戸時代には、茶や薬までもが「かぜ」にやられていたのだ。しかも、「風を引く」のとは逆向きの、「風が引く」という現象まで観察されている。いったい当時の「かぜ」の意味世界は、どうなっていたのか。
そこで次には「Fiqu.ヒク(引く)」を繰ると、第一義「引っ張る」の用例として、「Cajeuo fiqu.(風邪を引く)病気になる」が載り、「Cajega fiqu. (風が引く)何か物が風にあたり、または、空気にふれて腐る、あるいは、いたむ」「Fanauo fiqu.(鼻を引く)くしゃみをする」と続く。なるほど。ここには、体に風邪が入りこんだことに起因する感冒症状とは別の「かぜ」のすがたが見える。「かぜ」はまた、体の外にあって生気を引きぬき鼻にいたずらをする、得体の知れない「何か」でもあったのだ。
そうしてみれば、江戸時代に各地で疫病が流行するたびに、「風の神」やら「ホウソウ(天然痘)の神」やらと、疫病を神に見立て異境に送り棄てる儀式が行われたことと、話が通じてくる(図1)。「かぜ」には依然、医学の講釈をすり抜ける、捉えようのなさが遺っていたのだ。そして、個々の身体のみならず、ときには荒々しく集団を一斉に襲うこともあった。

江戸時代後期、大規模に襲いくる酷烈な「かぜ」を、とくに「天行中風」と呼び分ける医者の一門が現われた。その記録するところによると、「天行中風」は毎回例外なく、列島内を西から東へ吹き抜けたという。滝沢馬琴ら同時代の文筆家も、そのおなじ「かぜ」を「はやり風」と呼んで書き留めた(1825年成立『兎園小説』)。「お駒風」「お世話風」「谷風」「お七風」「だんほう風」「薩摩風」──。ふいに吹きすさんでは、多くの人々の生気を奪っていった凶悪な「かぜ」に、1つ1つ名を負わせ、その理外の存在を後世へと伝えたのだった。
変化する「かぜ」の神
明治時代になると、西洋近代医学にもとづく医療が解禁され、病気の分類体系はガラリと変わった。とりわけ、「伝染病」という、人から人へと広まる病の分類カテゴリーが紹介されたことは、社会にも大きな影響を及ぼした。病を伝染させる微小な病原体の研究(細菌学)が進められ、伝染病の発生と蔓延を防ぐための政策(公衆衛生)がつぎつぎに打たれていった。
ただし、「かぜ」はといえば、その間もあいかわらず漠然とした「何か」のままだった。それには時代背景もある。日本では戦後しばらくまで、種々雑多な伝染病がはびこっていた。そのうちの、伝染性があり、かつ国民の生死に関わるような病から優先的に、対策が打たれていった。1880年には、今日の感染症法へとつながる「伝染病予防規則」が布告されたが、同規則で「伝染病」に規定されたのは、コレラ・腸チフス・赤痢・ジフテリア・発疹チフス・天然痘だった。この6病だけで、人口約3600万人の時代に、年間10万人を超す死者を出すこともあったからだった。
とはいえ、いくら一過性のありふれた病であっても、手前勝手に理解されていては、診療や医学教育の場で混乱が生じる。また、国が統計をとり国民の衛生状態を把握しようにも、名称は全国バラバラで、病名と症状も対応せずでは、データを処理できない。そこで試みに、漢洋医学の権威らの監修を得て、『漢洋病名対照録』(1883年刊行)という病名マニュアルが編纂された。
同書において、「かぜ」は「内科病」に分類され、さらに伝染性の有無によって、「呼吸器病」と「伝染病」に二分された。つまり、従来「ひきかぜ・かぜひき・ふうじゃ・はなかぜ(鼻邪)」と呼ばれた一般的な症状は、「感冒」・「鼻粘膜カタル」として「呼吸器病」に、他方、「はやりかぜ(流行風)」や「天行中風」と称されたものは、西洋の「インフルエンザ(Influenza)」と同定され、「伝染病」に分類された(なお、後者の伝染する「かぜ」に、「流行性感冒」という新語をあてがったのは、同書が最初である)。
こうして「かぜ」は、用語上、一応の整理をみた。しかし、ここでおとなしく言葉に捕まらないのが「かぜ」の本領である。変幻自在な症状でもって、分類の試みを翻弄した。医師らはおそらく、目の前の症状が何を本態とするのか、また伝染性のものか否かを、肌感覚で判断するしかなかった(細菌よりも小さい、ウイルスという病原体の存在が確認されるのは、20世紀初頭である)。死亡診断書の死因欄が、「肺炎」「気管支炎」といった具体的な症状から「流行性感冒」まで、記載がまちまちだったのは、捉えようのない「かぜ」の仕業だったのである(「感冒」とだけ書いても、統計上は、「死因不明」と分類された)。

そうしてみれば、大正時代半ばに吹き荒れ、結果的に数十万人規模の死者を出した「流行性感冒」(いわゆる「スペイン風邪」)が、当初は国にその伝染性を把握されなかったのも不思議ではない。大半の症例は、「流行性感冒」ではなく、悪性の「感冒」に起因する呼吸器病として報告されていたのだ。類似の症状を呈する患者・死者があまりに多いことから、正体不明のまま、「かぜ」への警戒が呼びかけられるに至る。衛生当局の制作した啓蒙ポスターには、病原体らしきものを飛散させる「風の神」が描きこまれた(図2)。尖った尾と角をもつそのすがたは、さながら西洋の「悪魔(Demon)」である。それが、疫病の外来性を強調し、疫病排除の力学が、実在の個人や集団に向かわないようにするための工夫だったとすれば、大変な知恵であった。
そして、「かぜ」はARIとなった
さて、その「スペイン風邪」の流行から1世紀後に起きた「コロナ禍」は、私たちに、「かぜ」の不穏な動きを迅速に探知することの重要性を再認させた。今、「かぜ」が感染症法規定の「五類感染症」になるのも、「コロナ禍」への反省から出た法制度の変更である。不審な「かぜ」のすがたを、病原体の正体を突き止めるより早く、患者の受診行動から読み取り、対策へと繋げる。これは、従来の疫病対策を更新する一手でもあるのだ。
私たちは、そうして構えるでもなく、次のパンデミックを待ちうける。ときおり背後にうすら寒さを感じながら。
ひょっとすると、長丁場となるかもしれない。だが、大切なのは、気負わず気長に、疫病への意識をもち続けることである。どこ吹く「かぜ」を装いながら、横目でチラチラ見ているぐらいが、ちょうどいい。気散じに、読書をしながら過ごすのも一計だろう。そういえば先日、岩波書店から、うってつけの本が刊行された。藤原辰史・香西豊子編『疫病と人文学──あらがい、書きとめ、待ちうける』、358ページ。帯には、疫病への「人文学的常備薬」とある。本棚に積ん読だけでも、気持ちの上での備えとなりそうだ。
(こうざい とよこ・医学史、医療社会学)