斎藤文彦 『極悪女王』と井田真木子[『図書』2025年4月号より]
『極悪女王』と井田真木子
女子プロレスを生きる
女子プロレス物語の原点
昨年秋、ネットフリックス(Netflix)のドラマ『極悪女王』(全5話)が大きな話題になった。悪役レスラーのダンプ松本を主人公に、宿命のライバルであるクラッシュ・ギャルズ(長与千種&ライオネス飛鳥)との出逢いと闘い、不思議な友情、苦悩と成長を描いた全編五時間超の長編。実話をもとにしたノンフィクション的なフィクションで、女子プロレスと80年代の日本を舞台にした青春ムービーととらえることもできる。
『極悪女王』が描いた女子プロレスの物語、プロレスに夢をかけた10代(から20代前半)の女性の物語の原点を探っていくと、あるノンフィクション作家とその代表作にたどり着く。井田真木子の『プロレス少女伝説──新しい格闘をめざす彼女たちの青春』(かのう書房、1990年。のちに文春文庫)である。
同作品は1991年、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、女子プロレスの世界とそこで生きる女性たちの“生”を愛情深く、生真面目に、ディープに描いた名著として語り継がれている。
井田さんはそれからノンフィクション作家としてさまざまなテーマに取り組んだが、2001年に44歳の若さで急逝。『井田真木子著作撰集』(第1集・第2集、里山舎、2014年・15年)が刊行され、その作品はいまも幅広い層の読者に支持されている。
ぼくが井田さんと初めて会ったのは、たぶん、1985年の1月ごろだったと思う。“たぶん”とか“思う”とか、そういう不確かないいまわしになってしまうのは、どの場面でどんなふうに井田さんと会話を交わすようになったのかをあまりよくおぼえていないからだ。ぼくは、なんとなく、いつのまにか井田さんとわりと近い距離にいて、井田さんもきっとぼくを「いつもあのへんに座っている人」として認識してくれていた。
井田さんは月刊誌『デラックスプロレス』(ベースボール・マガジン社)のコーナー連載“月刊クラッシュ・ギャルズ”の記事をほとんどひとりで書いていたフリーライターで、週に何回かリュックサックをしょって編集部にやって来るおねえさんだった。ぼくはその『デラックスプロレス』と『週刊プロレス』と当時、月刊ペースで刊行されていたムック『プロレス・アルバム』をつくるチームにいた──フリーライターとアルバイトの中間のような立場の──アメリカの大学を卒業して帰国したばかりの、いまふりかえってみると恥ずかしいくらい生意気な男子だった。
“気づき” の発言を引き出す
『極悪女王』のクライマックスでは、空前のブームのなか、1985年8月、ダンプ松本と長与千種が“髪切りマッチ”で対戦し、大流血戦の末、敗れた長与がリング上で丸坊主にされるという凄絶なシーンが描写されていた。現実の全日本女子プロレスでは翌年、“髪切りマッチ”の再戦がおこなわれ、このときは長与がダンプに雪辱を果たし、ダンプが丸坊主にされた。ドラマにはこの場面はない。ラストシーンでは引退宣言したダンプ、同期デビューの大森ゆかり、長与、飛鳥の“昭和55年組”がノーサイドで握手を交わした。
井田さんがものすごいペースでプロレス専門誌に記事を書いていたのがこの時代の女子プロレスだった。
井田さんはインタビューとエッセーを得意としていた。得意だなんていったらいささか失礼かもしれない。とにかくワード数が多いインタビュー記事を量産しつづけるいっぽう、エッセーのほうは独り言のようなポエムのようなテイストだった。長与千種と神取忍のインタビューばかり書いていたようなイメージがある。
井田さんとの対話のなかで長与は「ある日、井田さんと話し始めて、プロレスを語るゆうことを知ったん」「プロレスっていうのは、するためだけのものじゃない。語るためのものでもあるんだ」と語った。井田さんは女子プロレスラーからこういう“気づき”の発言を引き出すのが得意だったのだ。
ダンプが引退し、長与、飛鳥の順でクラッシュ・ギャルズが引退すると(のちに復帰するが)、試合会場を埋め尽くし、熱狂的な声援をおくっていた女子中高生の観客、親衛隊グループも潮が引くように去っていった。昭和が終わりにさしかかるころ、『極悪女王』が描いた女子プロレスのブームもいったん終わった。
『プロレス少女伝説』が描いたもの
『デラックスプロレス』が休刊となったのは1988年8月で、あまり編集部に顔を出さなくなっていた井田さんから「お願いしたいことがあるんだけど」と連絡をもらったのは、それから1年後の89年の夏だった。
全日本女子プロレスの専属外国人選手として東京に長期滞在していたメドゥーサの「取材のお手伝いをしてほしい」とのことで、“お手伝い”というのは取材の日時や場所のコーディネートとインタビューの通訳を指していた。井田さんは「単行本を書いている」と説明してくれたが、それが『プロレス少女伝説』のような大作になるとは、ぼくはその時点ではまるでイメージできていなかった。
メドゥーサのインタビュー取材はたしか3回か4回で、喫茶店で3人で会うたびに5時間くらいはいっしょにいたから、録音したカセットテープの長さは15時間から20時間くらいにはなったはずだ。ぼくはできるだけよけいな補足、説明を加えずにメドゥーサのしゃべることをそのまま井田さんに伝えるようにつとめた。
単行本の執筆と併行して、井田さんは、記述に誤りがないかどうかを確認するため、テープの文字おこしをした分の原稿の束をぼくに見せてくれた。『週刊プロレス』で毎週、原稿をアバウトに書き飛ばしていたぼくは、井田さんのていねいな仕事ぶりに感服した。これもまた、いまになって感じることではあるけれど、井田さんはライターとしてそれほど器用なほうではなかったのかもしれない。
『プロレス少女伝説』のなかで、井田さんはメドゥーサを幼少期に虐待を受けた女性、アメリカから日本に来ていきなり女子プロレスの特殊なコミュニティーに飛び込んだ異分子としてその人物像を解き明かした。本のなかのメドゥーサのカタカナ表記は「メデューサ」となっていたが、じつはそれは井田さん自身の“肉声”の発音だった。
“平成の女子プロレス” の景色
もちろん、女子プロレスには『極悪女王』のあとのストーリーがちゃんとある。
ドラマのなかではダンプ松本の頼りない子分として描かれていたブル中野は、ダンプの引退後、それまでのユニット「極悪同盟」を解散し、新メンバーを編成して「獄門党」を結成した。若きリーダーとして悪役グループをまとめ、1990年1月、21歳でWWWA世界王座を獲得して悪役レスラーとしては初めて全日本女子プロレスの主役の座にかけ上がった。
『極悪女王』の時代の女子プロレスと“平成の女子プロレス”のいちばん大きなちがいは、ダンプ松本とクラッシュ・ギャルズの人気を支えていたのがティーンエイジの女子であったのに対し、ブル中野、北斗晶、アジャ・コング、豊田真奈美、井上京子ら新しいスター群による女子プロレスがより広い層の観客、新しい層のファンを獲得したことだった。
全日本女子とJWP女子プロレス、LLPW、FMWといった後発の他団体との団体対抗戦路線が新しいブームに火をつけ、女子プロレスは両国国技館、日本武道館、横浜アリーナといった大会場につねに超満員の観客を集めるようになった。昭和の終わりから平成にかけての4、5年のあいだに女子プロレスの景色はがらりと変わった。
ブル中野はその後、日本の女子プロレスを“卒業”して、アメリカに活動の場を移した。アメリカのメジャー団体WWEでブルを待っていたのは、全日本女子との契約満了後、アメリカに帰り、WWE世界女子王者として活躍していたメドゥーサ(このときのリングネームはアランドラ・ブレイズ)だった。ブルとメドゥーサは全米とヨーロッパを長期間ツアーしたあと、1994年11月、ふたり揃ってアメリカからの“逆輸入レスラー”として日本にUターンし、東京ドームのリングに立った。
プロレスを封印しての闘い
これはぼくの勝手な解釈ではあるけれど、『プロレス少女伝説』で大宅壮一ノンフィクション賞をとったことで、井田さんはノンフィクション作家という肩書に縛られ、結果的に、大好きだったプロレスを書く仕事を封印してしまった。
同賞の選考委員のひとりだった立花隆は井田さんの受賞に反対し、プロレスを「低劣なゲーム」「世の大多数の人にとってはどうでもいいこと」と断じた。だから、井田さんは立花と立花の向こう側にいる「世の大多数の人」に闘いを挑んでいったのではないだろうか。
プロレスについて書かなくなった井田さんにぼくはどこか違和感をおぼえ、遠くにいってしまった井田さんは、自由のようで自由ではなく、もがき苦しんでいるようにさえ感じられた。
井田さんが生きていたら『極悪女王』を観ただろうか。活字ではなく、映像として描かれた女子プロレスラーの“生”には興味がわかないかもしれないし、メディアからコメントを求められるのが鬱陶しいから「わたしは観ていません」と答えていたかもしれない。
“極悪女王” から“世界の女帝” へ
アメリカでの活動から30年後の2024年4月、ブル中野は日本人女子プロレスラーとして初めてWWE殿堂入りという快挙を果たした。米フィラデルフィアで開催された授賞セレモニーにおける英語のスピーチは、まさに“世界の女帝ブル中野”の最高のラストシーンだった。井田さんは、井田さんのいなくなったあとの女子プロレスを支えつづけたブルをインタビューしてくれるだろうか。
これもまた30年以上も前のことだ。最後に電話で話したとき、井田さんは「こんどはわたしが“おめでとう”をいう番だから」というような意味のことをぼくにいった。きっとそれは「あなたも早くプロレスを卒業してなにかほかのものを書きなさい」というアドバイスだったのだろう。
ぼくは「はぁ……」とだけ返事をしたが、あのときの井田さんよりもはるかに年をとってしまったいまのぼくなら「はい、もちろん、考えてます」と答える。
(さいとう ふみひこ・プロレスライター)