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高橋輝暁 ヘルダーの『人類歴史哲学考』のすすめ[『図書』2025年4月号より]

ヘルダーの『人類歴史哲学考』のすすめ

 

 久しく待望の訳書が岩波文庫に登場した。ヘルダー著/嶋田洋一郎訳『人類歴史哲学考』全5冊が完結したのだ。18世紀後半のドイツにあってグローバルな知の巨人ともいうべきヘルダー(1744―1803)の大著の日本語訳は、『歴史哲学』と題して1923年と1924年に田中萃一郎訳の上巻と川合貞一訳の下巻(1933年には上下合冊版)が、続いて鼓常良訳の『人間史論』が1948年から翌年にかけて刊行されている。それ以来となるこのたびの新訳まで、前者の初版からは実に100年、後者からでも75年が経過した。しかし、現代の読者にとって、一時代前の訳本は取っつきにくい。

 それに比べて、この新訳の読みやすさは出色だ。それもそのはず、訳者は、これまでにヘルダー理解の要となる著作の秀逸な翻訳に丹念な訳注をつけた『ヘルダー旅日記』(2002年)と『ヘルダー民謡集』(2018年)を刊行した実績がある。

 それらの「解題」に加えて、何よりもヘルダーのさまざまな側面について本書の訳者が論じた『ヘルダー論集』(2007年)を繙けば、訳者が日本のヘルダー研究の第一人者であることは一目瞭然だ。もちろん、この新訳にも、ヘルダーの時代の「思想的文脈を明らかにする補助」〔訳書(五)の「解説」370頁〕として、たくさんの訳注が施されている。19世紀から20世紀にかけてドイツで編纂された最大の『ヘルダー全集』を和訳の底本としながら、さらに約100年を経た2002年に刊行の校本に付された詳細な注釈をはじめとするヘルダー研究の新しい成果をも縦横に駆使して成ったのが、この新訳にほかならない。ここには、ヘルダー研究の専門家としてドイツをはじめとする西洋のヘルダー研究の過去と現在にも通暁した訳者ならではの面目躍如たるものがある。

 ヘルダーの『人類歴史哲学考』は、神が創造した宇宙の中の太陽系にフォーカスして、われわれ人類が住む一惑星の地球へとズームアップするところから、自然史を書き起こす。さらに、地球上に宿る生命の世界として植物界を、続いて動物界を捉えたうえで、その動物の世界の中心に人類が位置づけられる。このあたりは、『聖書』の向こうを張った18世紀版『創世記』とでも言えようか。当時の科学的知識に基づく自然史は人類の歴史に接続され、地球上のさまざまな場所でそれぞれ独自の生を営む人間たちが描かれてゆく。その視野は、「北極周辺の諸民族」から「アジア周辺の諸民族」、それに「アフリカ諸民族」、「熱帯諸島における人間」、そして「アメリカ先住民」にも及ぶ。

 地球上に散らばるそれらの民族は、それぞれの「風土」的条件に応じてさまざまな文化をつくってきた〔訳書(二)第7巻〕。その様相についての記述は、「中国」に始まり、東南アジア、「朝鮮」、さらにその北の「東タタール」から海を渡って「日本」までを「精神の領域」における「中国の一地方」〔訳書(三)108頁〕として瞥見した後、南アジアに転じて「チベット」からインドに達する。ここから、ヘルダーの視線は、身近な非ヨーロッパ世界ともいうべき中東地域へと向かい、「バビロン、アッシリア、カルディア」から「メディア人とペルシア人」を経て、「ヘブライ人」に至ると、「彼らはキリスト教のみならず、イスラム教を通じて世界啓蒙の大部分の土台となった」〔訳書(三)175頁〕との指摘が目を引く。さらに西へ移動して、「フェニキアとカルタゴ」から「エジプト」を経由して地中海をヨーロッパへ渡ると、古代ギリシア・ローマおよび中世の記述は、非ヨーロッパ世界の各地域のそれに比べ、群を抜いて詳しくなり、全体の約半分を占めるほどだ。

 この記載の量をもって本書がヨーロッパ中心主義に基づくと考えるのは、早計だろう。というのも、ヘルダーが世界を展望するときの視座は、ヨーロッパ文化圏内にあるから、そこから見える世界を描き、個々の事象の評価にあたってもヨーロッパの一隅にいる自己の価値観に基づかざるをえない。むしろ、自己の視座と価値基準が偏っている事実を認識しているところに、ヘルダーの真骨頂がある。それは、自己の価値基準を絶対化し普遍化するヨーロッパ中心主義とは正反対だ。だから、ヘルダーは、非ヨーロッパ文化圏のさまざまな事象を評価するときも、それがすべての文化圏で通用する絶対的基準ではないと分かる仕掛けを用意している。たとえば、次の一節だ。

 

実際カシミール人は最も賢明で才知のあるインド人と見なされ、文芸と学問、仕事と技術に等しく優れ、また最も良く形作られた人間であり、カシミール人女性はしばしば美の典型とされる。〔訳書(二)36頁〕

 

 「カシミール人」に対するこの高い評価の基準は、「賢明」、「才知」、「文芸と学問、仕事と技術」で、それらは、当時のヨーロッパ人の基準にほかならない。身体的「美」の評価となると、これはもう文化圏によって、同じ文化圏内でも時代によって、同じ時代でも個人ごとに異なる。ところが、ヘルダーはこの箇所にわざわざ注をつけて、この記述が「フランスの哲学者で探検旅行家」〔訳書(二)訳注304頁〕ベルニエ(1620―88)の『一般旅行記叢書』に基づくことを明記しているのだ。それによって、この評価が「インド人」ではなく、ヨーロッパ人の基準によることに気づかされるから、それは相対化される。確かに、上記の一節の最後は「とされる」で終わる。いわば間接引用文の終止法だ。ドイツ語原文は直接話法だから、これは訳者の行き届いた工夫だろう。いずれにせよ、この箇所を注意深く読めば、文化圏が異なると価値基準も違うことを具体例で指摘する次のような一文とも矛盾しない。

 

われわれが精神の活動や自由として、また男性の名誉や女性の美しさとして尊重するものを、中国人はまったく別個のものと考える。〔訳書(三)142―143頁〕

 

 ヘルダーの『人類歴史哲学考』には、「人類」の「歴史」を俯瞰する一大パノラマの要所要所に、訳書で100頁近く、場所によっては200頁以上に及ぶ「歴史哲学」的考察が組み込まれている。たとえば、18世紀のヨーロッパの啓蒙思想において、人間は誰もが同じ「理性」を備えているとされた。では、文化圏相互の相違を認めるヘルダーは「理性」をどう捉えているのだろうか? ここでは、「同胞人類の共同の所有物にして長所」を列挙して、第一に「理性」への「素質」を挙げている箇所に注目したい。

 

言うまでもなくそれは、人間の生を支える優美の三女神ともいうべき理性、フマニテート、宗教それぞれへの素質にほかならない。〔訳書(二)281頁〕

 

 ここで言う「人間の生を支える優美の三女神」は、人間が生きていくうえで、最も重要な「支え」となる三本柱というほどの意味だろう。その1本が「理性」なのだから、ヘルダーによれば、「理性」は人間が生きるために不可欠なのだ。そうであれば、ヘルダーは少なくとも「理性」を否定する「非合理主義」には与していない。

 とはいえ、「理性」は、唯一の大黒柱でもない。「人間の生を支える」ためには、さらに2本の柱が必要とされる。したがって、ヘルダーの立場を「人間の生」は人間の「理性」のみに依拠すべしとする「合理主義」と同一視するならば、これまた不当と言わざるをえない。むしろ、そのように偏狭な「合理主義」よりも広い視野から「人間の生」を捉えて、「理性、フマニテート、宗教」の3者を「優美の三女神」に喩えているのだろう。ローマ神話で「優美の三女神」は生の喜びをも象徴する。その「三女神」は仲良く肩を組み合い、しかもときには肩を組んで輪になった姿で描かれるから、「人間の生を支え」て喜びをもたらすためには、「三女神」すなわち「理性」と「フマニテート」と「宗教」の三者の相互協力が欠かせない。

 ヘルダーが立脚するのは、「理性」以外の2本の柱に対しても開かれた「理性」に依拠する「合理主義」なのだ。それは、「理性」の独断的専制に基づく「合理主義」を狭義の「啓蒙主義」に帰するなら、「啓蒙的合理主義を啓蒙する合理主義」と言える。それが、合理主義を全面的に否定する非合理主義でないことは確かだ。このように、テクストを丹念に読めば、反啓蒙の非合理主義者という従来のヘルダー像はヘルダーの言葉に反することが分かるだろう。

 ここで思い出しておかねばならないのは、「同胞人類の共同の所有物にして長所」が、「理性、フマニテート、宗教」そのものではなく、「それぞれへの素質」とされる点だ。要するに、「同胞人類」、すなわち、どの人間にも生まれながらにして普遍的に備わっているのは「理性」ではなく、「理性」への「素質」なのだ。「素質」は「理性」へと育まれなければならない。そのことを示唆して、たとえば、先に引いた一文の数章前〔訳書(二)223頁〕では、「理性」は「われわれの魂による観察と訓練の集合体」であり「教育の総体」だと言う。

 人間の「魂」は、自らが生きる過程で遭遇するさまざまな事象を「観察」し、それらに対処する「訓練」を積み重ねることによって、生まれながらにして備わった「理性への素質」を成長させてゆく。人間が生を授かったときには「素質」だった「理性」は、生きる過程で刻々と成長を続ける。だから「理性」は、成長の各段階でそれまでの「魂による観察と訓練」のすべてを糧として形成される。このような意味で「理性とは、われわれの魂による観察と訓練の集合体」なのだ。そしてこの「理性」を成長させるのは「教育」だから、「理性」は、その成長の各段階で、それまでの「教育の総体」でもある。したがって、「理性」はその成長の過程を通じて不断に変化する。

 そのとき、人間の「理性」は、それぞれの生活環境の中で、「観察と訓練」を積んで成長する、あるいは「教育」されるのだから、生活環境を成す「風土」や「文化」が異なれば、相互に異なるはずだ。「理性」も多様なのだ。そして、同じことが「理性」とともに「優雅の三女神」に喩えられた「フマニテート」と「宗教」にも妥当する。「風土」や「文化」が異なれば、「フマニテート」すなわち人間性のあるべき姿も、「宗教」すなわち信仰の形式も内容も、違わざるをえない。これらの相違に基づく多様性の承認は、現今の概念を用いれば、「多文化主義」だ。

 多文化主義は、地球上のさまざまな文化から成る多様性を文化的豊かさと考え、それぞれの個別文化に独自の価値と平等に存在する権利を認める。それは、他文化の異質性を活かして、自己の文化を、世界の文化を豊かにしようとする。こうした多文化主義的思考は、自己の民族文化の優位性を独断的に主張して他文化を排除するナショナリズムとは真逆のベクトルをもつ。だから、排他的「ナショナリズムの先駆者」というレッテルを貼られてきたヘルダー像は、『人類歴史哲学考』の新訳から窺われるヘルダーには似ても似つかない。

 私たちは、宗教や文化の違いに起因する分断と紛争が絶えない21世紀の世界に身を置いている。今こそ、世界をグローバルに捉えた『人類歴史哲学考』の新訳を読んで、あらためてヘルダーに学ばねばなるまい。

(たかはし てるあき・日本ヘルダー学会会長)


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