【文庫解説】大田洋子『屍の街・夕凪の街と人と』より
原民喜や峠三吉の作品と並び、初期原爆文学の作家に数えられる大田洋子(1903-63)。本書では、人や街が一瞬にして屍と化した原爆投下直後の惨状を克明に記した『屍の街』、原爆に人生を壊され戦後八年を経てなお立ち直れぬ人々の苦しみを描いた『夕凪の街と人と』を収めます。以下は、大田の晩年を知り、『草饐〔くさずえ〕 評伝大田洋子』を著した江刺昭子さんによる、本書解説の冒頭部分を抜粋します。
二〇二四年八月、広島市中区で大田洋子文学碑の碑前祭があった。
文学碑は、大田文学の不遇に呼応するように受難の歴史をたどっている。碑があるのは、敗戦前までは西練兵場、輜重連隊など旧陸軍の施設が林立していたところで、戦後は基町住宅と呼ばれる戦災者住宅がスラム化し、『夕凪の街と人と 一九五三年の実態』の舞台になった場所である。その後、本川の土手にまでひしめいていた住宅は立ち退かされ中央公園として整備された。その一角に一九七八年七月、画家で詩人の四國五郎のデザインで一五個の自然石を組みあわせた碑が完成した。原爆の爆風で人々が吹き寄せられたのを表現した配置で、中心の石には『屍の街』の一節「少女たちは/天に焼かれる/天に焼かれる/と歌のやうに/叫びながら/歩いて行った」が刻まれている。
しかし、九一年には北西八〇メートルに移動させられ、さらに二〇二〇年、中央公園にサッカースタジアム「エディオンピースウイング広島」の建設が決まると、再び移設を迫られ、広島市が碑を撤去。移設場所をめぐって市民団体「広島文学資料保全の会」は「この場所に建てられた意味がある」と市側に申し入れ、もとの場所から約五〇メートル北側の川土手の下に移設された。碑前祭には多くの人が集まり、大田の文学が読み継がれることを願い、彼女が学んだ女学校の後身にあたる高校の女子生徒らが献花した。
大田洋子の経歴は複雑で、十代から作家をめざしながら、作品が評価されるまでには長い道のりを要している。
一九〇三年(明治三六)一一月二〇日に広島県山県郡原村(現、北広島町)で父福田瀧次郎と母トミの長女に生まれ、本名は初子。六歳のとき両親の離婚で戸籍だけ親戚の大田家に移され、母が佐伯郡玖島村(現、廿日市市)の稲井穂十と再婚したことから稲井家に引き取られて複雑な家族関係のなかで育った。広島市の進徳実科高等女学校に進学し、研究科を卒業後は安芸郡江田島村の小学校の裁縫教師になった。一年で退職したが、在職中に早くも地元紙の『芸備日日新聞』に小説を連載し、新進作家の扱いを受けている。
広島市に戻り県庁で和文タイピストとして働き、二一歳で新聞記者の藤田一士と結婚するが、藤田に妻子があることがわかり、別れて上京。菊池寛に弟子入りしたものの、半年で藤田の元に戻り男児を出産する。まもなく子をおいて出奔し、大阪で働きながら中央の雑誌に創作を投稿する。明治生まれの女としては稀な強い自我の持ち主で、男に頼らないで自己実現しようとする。それゆえに波乱に富んだ前半生については自伝小説『流離の岸』(小山書店、一九三九年)に虚実織り混ぜて描かれている。
一九二九年、「聖母のゐる黄昏」が『女人芸術』に採用され、文壇デビュー作となった。主宰者の長谷川時雨に励まされ、上京して同誌を中心に小説を発表するものの、なかなか評価を得られない。郷里と行きつ戻りつする日々、元改造社記者の黒瀬忠夫と結婚するが、一年半で離婚。日中戦争が始まって国策小説が求められるなか、一念発起して書いた『海女』と『桜の国』が三九年と四〇年に続けて『中央公論』と『朝日新聞』の懸賞小説一等になり、一躍文名があがった。流行作家になり、四三年までに『淡粧』、『友情』などの小説集とエッセイ集『暁は美しく』、あわせて九冊を上梓している。いずれも銃後の女性の暮らしや男女の相剋がテーマで、積極的とはいえないまでも戦争協力の色合いが濃い。
戦火が激しくなるなか空襲の危険も迫り、四五年一月、広島市白島九軒町の母と妹らが暮らす家に疎開する。八月六日の原爆投下時、大田は二階で眠っており、気がついたら微塵に砕けた壁土の煙の中にぼんやりと立っていた。爆心から北東に約一・五キロ地点での被爆である。住まいは焼け落ち、軽い傷を負いながら近くの河原で三日間を過ごしたのち、市内を東から西に横切って少女時代をすごした玖島に避難し、知人宅に滞在した。
敗戦まもなく八月三〇日の『朝日新聞』に「海底のやうな光 原子爆弾の空襲に遭つて」を寄稿。原爆の問題を取り上げた文学者による最も早い文章で、原爆の光線を「緑青色の海の底みたいな光線」と表現している。この日はマッカーサーが厚木に到着した日で、まだ米軍による検閲が始まっておらず、すさまじい破壊のありさまを見たまま、感じたままに書いており、小田切秀雄は「核時代のはじまりと日本文学との関係に正確に対応している」(「解説」『屍の街・半人間』講談社、一九九五年)とする。
恐ろしい体験をしただけでなく、逃れてきた山間部の村で被爆当日に火傷も怪我もしなかった人々がばたばたと死んでいくのを目撃。明日はわが身と死の影に脅えながら書き急いだのが『屍の街』だが、占領軍による言論統制下、すぐには公表されず、出版されるのは三年後である。
その間、原爆や広島という地名を明記せず、「光線」、「壊滅の全市」などという言葉を使って、「青春の頁」(『新椿』一九四六年三月─四七年三月)、「河原」(『小説』一九四八年二月)などで被害の甚大さを世間に知らせようと試みている。四六年秋には広島県江田島の共産党員筧中静雄と結婚して翌年五月に上京した。
四八年一一月、中央公論社から『屍の街』が出版される。主人公は大田と等身大の「私」で、一九四五年八月六日の広島で起きた前代未聞のジェノサイドについて、被災者として惨状を記録したルポルタージュ形式の小説である。逃げる途中の妹との会話に「人間の眼と作家の眼とふたつの眼で見ているの」、「書けますか、こんなこと」、「いつかは書かなくてはならないね。これを見た作家の責任だもの」とあり、職業作家としての覚悟を示している。
見たこと、感じたことを伝えなければならないという強い使命感に支えられたリアルタイムの遭難記で、まだ原爆とはわからない段階で死体の様子から通常兵器ではないことに気付き、その後も当日無傷だった人々が死んでいくさまを記録したのは貴重である。今日までも続く原爆後遺症をきわめて早い時期に発見、報告したことになり、文学としての価値にとどまらず、その意味は大きい。この作品が戦後まもない時期に出版され、メディアが大きく取り上げ、より多くの人に読まれ、世界中に拡散していたら、今日のような深刻な核汚染は防げたのではないかとさえ思う。
(続きは、本書大田洋子『屍の街・夕凪の街と人と』をお読みください)