『科学』2026年11月号 特集「素粒子標準理論はどこまで正しいのか」|巻頭言「一語のなかの宇宙」南谷奉良
◇目次◇
【特集】素粒子標準理論はどこまで正しいのか
標準理論はどこまで正しいのか……遠藤 基
ミュオンg-2の精密測定──半世紀を超える国際協力の歩みと将来への展望……山本 明・三部 勉
K中間子の稀崩壊とCP対称性の破れ……塩見公志
原子・分子を用いた電気双極子能率の探索……増田孝彦
LHC加速器実験の挑戦──ヒッグス粒子の謎に迫る……増渕達也
大量のタウレプトンは新物理を見つけるか──Belle II実験の挑戦……居波賢二
ニュートリノが解き明かす宇宙の謎……横山将志
DarQ実験──量子ビットで探るダークマター……陳 詩遠
[巻頭言]
一語のなかの宇宙……南谷奉良
[解説]
[チューリング賞2025]
量子情報のはじまり──チューリング賞受賞者に聞く……チャールズ H. ベネット・ジル ブラッサール
量子情報革命の立役者……今井 浩
[連載]
科博のお宝コレクション
14 美しく多様な花々を次の世代へ:筑波実験植物園のクレマチスコレクション……村井良徳
15 建物自体が巨大なお宝:重要文化財・旧東京科学博物館本館……久保田稔男
月の起源はなぜ難しいのか2 消えた角運動量の謎……是永 淳
野球の認知脳科学18 球種という深い沼……柏野牧夫
科学者の現代史3 世紀転換期に異彩を放ったアカデミズム……兵藤友博
因果をめぐる7の視点8(最終回) 「因果の7人」,連載を振り返る……内田麻理香
[フォーラム]
チェルノブイリ原発事故:40年前に起きたこと……今中哲二
〈生成AIと研究倫理〉AIと研究倫理に関する実証実験──A proof of concept……川原繁人
次号予告
表紙デザイン=佐藤篤司
素粒子「クォーク」(quark)の名称が,ジェイムズ・ジョイス(1882〜1941)の前衛的実験小説『フィネガンズ・ウェイク』(1939)から取られていることは広く知られている。あるインタビューで語っているように,物理学者マレー・ゲルマンは,陽子や中性子を構成する粒子に対して,特定の性質を含意しない名称として「クォーク」に近い音を思い描いていた。その後,同書のなかで“Three quarks for Muster Mark”というフレーズを見つけ,三つの構成要素という構想にも合うことから,その綴りを採用したという。これはあまりにも有名な逸話だが,ゲルマンが別のインタビューで,ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短篇「八岐の園」(1941)に言及しながら,宇宙の歴史を分岐点ごとに確率をもつ可能性の樹として説明していたことはあまり知られていない。ありうる未来が無数に分岐し,「最後のページが最初のページと同一で,無限に継続する」円環的な本を執筆するというアイデアを含むこの短篇は,奇しくもジョイスの没年に発表されており,最後のページが最初のページに繋がって円環し,無限に意味が生成される『フィネガンズ・ウェイク』と強い親和性を有している。ゲルマンがジョイスの言葉から粒子を名付け,ボルヘスの庭園から宇宙の歴史を説明したのは,両作品が,たった一語のなかから別の多元的世界が開けるような,可能性の書そのものであったからだろう。
一方のジョイスもまた,当時の物理学には強い関心を抱いていた。『フィネガンズ・ウェイク』の構想は,アーネスト・ラザフォード(1871〜1937)が原子核の破壊実験を発表した1919年の4年後にはじまっているが,ラザフォードが窒素の原子核にアルファ粒子を衝突させたことを受けて,同作には“the first lord of Hurtreford ”([仏] heurter「ぶつける」+Rutherford)としてその名前が記録されている ── “The abnihilisation of the etym by […] the first lord of Hurtreford expolodotonates […] with an ivanmorinthorrorumble fragoromboassity amidwhiches […] are perceivable moletons skaping with mulicules […]”(Finnegans Wake, p. 353, ll. 22-26)。語源や語の原初形を意味する“etym”に原子(atom)が重ねられ,その「無化消滅」を表すかばん語“abnihilisation”はannihilationとラテン語の「無から」(ab nihilo)が組み合わされている。続いて起こる「爆裂轟発」には,explodeとdetonateに放射性元素ポロニウム(polonium)の名が織り込まれ,その轟音のなかで,電子や分子を思わせる“moletons”や“mulicules”が飛び交っている。原子の内部が分割され,その内部の構成要素の相互作用が見出されたように,言葉もまた砕かれ,細分化された諸要素の相互作用によって新たな意味が生み出されている。
「それ以上分割できないもの」(átomos)を前に,物理学が探究を止めることはなかった。ジョイスもまた,一つの語を意味の最小単位とはしなかった。語を割れば別の語が現れ,その断片が結びつけば,新たな意味が生まれる。同書の造語を借りれば,言葉と世界は“everintermutuomergent”(Finnegans Wake, p. 55, ll. 11-12) ── 絶えず互いに溶け合い,互いのうちから現れ出る ── 現象のなかにある。「クォーク」の呼称をめぐる豆知識としてのみ『フィネガンズ・ウェイク』を知るのでは勿体ない。「一」のなかに「多」を覗きこみ,その「多」の結びつきから全体がいかに成り立つのか。言葉と物質に向けられた,尽きることのない問いがそこには息づいている。




